回転部屋
吟野慶隆
前編 焼きが回る
宇宙船のどこかに、異常が発生したことを知らせるブザーが、大音量で鳴り響いた。
急いで、コックピットに向かう。自動航行なので、普段から操縦室にいる必要はない。モニターには、「回転抑止エンジン:8号機に異常有」「出力低下」の二文が並んでいた。
「ちくしょう……あれが故障しやがったのか……」根住(ねすみ)絹家(きぬいえ)は舌打ちした。
前後に細長い直方体であるこの宇宙船は、航行の最中、その方向に対し時計回りに高速回転するという特徴がある。たしか、八次元エネルギーだの、反質量性暗黒物質だのがその現象の原因だったが、よくは覚えていない。
その回転を防ぐための装置が、回転抑止ジェットエンジンである。宇宙船の外壁、進行方向に対し平行な各辺に三基ずつ取り付けられており、ノズルは横に向いている。それらからガスを噴出することにより、力技だが、回転を完全に止めることができる。
絹家はタッチパネルを操作し、詳細な情報を見た。たしかに出力は低下していたが、運のいいことに、その程度は軽かった。この故障により発生する、船体の回転も、かなりゆっくりとしたものになるらしい。
それからは、他にも異常が発生した箇所がないかを調べた。さいわい、その心配は杞憂に終わった。他の機械は、船の購入の際すでに壊れていたものを除き──中古船販売場で買ったため、故障しているところが多い──、すべてきちんと作動していたのだ。ついでに、ブザーがあまりにうるさかったので、音量を零にしておいた。
絹家は地球生まれの十八歳で、現在は火星のメリディアニ地区で暮らしており、そこの大学へ通っている。今回は、久々に実家に顔を出そうと思い、先週購入したばかりの個人用宇宙船で、故郷へ向かっている最中だった。
気がつくと、床はすでに、わずかだが目に見えるくらい傾斜していた。重力場形成装置が作動しているため、船内には疑似重力がある。絹家は知らず知らずのうちに右足に力を入れ、踏ん張っていた。
「やれやれ……なんてことだ」
首を横に振る。肩を落として、リビングに出た。
この船には、前方から、コックピット、リビング、トイレ、各種制御用コンピュータ室という順番で部屋が並んでいる。トイレの幅は半分しかなく、余った空間はリビングに属しており、そこには、入浴用カプセルが置かれていた。
入浴用カプセルとは、直角柱の、等身大の機械である。ガラス張りの扉がついており、中に入れるようになっている。
入ると、内壁のあちこちから噴射される湯が、全身をくまなく洗い流してくれる。あらかじめ設定しておいた音楽を、BGMとしてかけることもできる。だが、今は故障していて、正常に動作しないということを販売場の店員から聴いていたので、使用するつもりはない。
絹家は、旅行鞄や、折り畳んだ椅子、テーブルなどを、トイレの中にしまった。リビングに置いたままだと、傾いた床を滑ってしまい、危なっかしい。ベッドも例外ではない。他の家具と同じように、コンパクトにしてから便所に突っ込んだ。
ただし、今は就寝時間の直前であるため、マットレスや掛け布団、枕といったものはリビングに残しておいた。床に直接敷いて寝るのには抵抗があるが、仕方がない。
入浴用カプセルはしっかりと床に固定されているようだから、どかさなくてもいいだろう。天井の照明も同様だ。結果としてトイレが使いにくくなったが、便器は床に設置されている、どうせ用を足せるのは傾斜が緩い間だけだ。
(もし、できない時に、排泄する必要性が生じたら……ええい、飲みもんや食いもんの容器や包装でも使って、なんとかするしかない)
寝具の準備をし始める。しかし、傾斜はさらにひどくなっていたため、ずるずる滑るわ足がふらつくわと、ひどく手間がかかった。
しばらくすると、なんとか、マットレス自体は、壁に沿わせるようにして敷くことができた。しかし、枕や掛け布団は、どうしてもずれてしまった。
がっくりと項垂れる。(こうなったら、船が九十度回転するのを待とう)
寝具を敷く予定の壁に凭れ、マットレスの上に座る。そして、リビング全体を眺めた。船体の回転は、肉眼で認識できるほど速いわけではないが、それでも気になってしまうのだ。部屋が傾くのを待つ間、そうやって時間を潰し続けた。
側頭部に、ひどく強い衝撃と痛みを感じた。
「ぐあっ! いてっいてっ……いてえ……」
のろのろ、と上半身を起こす。壁の時計を見て、就寝時間帯の真っ只中であることを知った。
いつの間に、眠ってしまっていたのか。絹家は、あと六十度ほどで半回転したことになる部屋の、壁と天井との境目にいた。
どうやら、床と壁との境目にいたおかげで、九十度回った時はその場に留まれたらしい。しかし、そこからさらに傾いたせいで、体が滑って天井に激突したようだ。
(ああ……ああ……とても……眠たい。このまま……ここで寝てしまいたい。でも……それをすると、後でまた、天井を滑り反対側の壁にぶつかってしまうだろう。駄目だ……駄目だ)
唇を噛み、必死に眠気に耐え続ける。勾配がかなり緩くなってから、重たい体を引きずり、反対側の壁との境目へ移動した。
寝具を敷くと、消灯し、すぐさま掛布団の中に潜る。ここなら、部屋がさらに傾いたとしても、さっきと同じように、滑らずに済む。
しかしそれは、船体が四分の三回転するまでの話だ。その後はどうするのか。
(この壁の傾斜が緩いうちに、床との境目に移動しなければ、再び滑ってしまう。そうなる前に……タイミングよく……起きられ……)
その後、起床時間になるまで、眠っては斜面を滑り、境で激突して目を覚まし、反対側に移り、再び眠る、という行為を幾度となく繰り返した。起きた後、動くのを億劫に感じ、そのままそこで寝てしまうこともしばしばあった。
当然ながら、ろくに休むことができなかった。昨日よりも、疲れが増しているような気さえする。
「無線、使おうかな……救助船か修理船でも呼んで……」
いや、却下だ。そいつらを呼ぶには、凄まじいほどの金がかかる。
それに、地球へはあと十数時間で到着するのだ。それくらいなら、この程度の困難、耐えられるのではないか。なにより、救助船を呼ぶくらいなら、脱出艇を使うほうがいい。こっちはすでに持っている。
脱出艇とは、表面にボタンのついた、拳大の白い球だ。ボタンを押すと、数秒間電子音が鳴った後、一瞬にして、直径二メートルほどにまで膨張する。後は中に入って、壁についているボタンを押せば、艇が船を破壊して、宇宙に飛び出す。そして、近くの回収場に向けて自動的に航行する、という寸法だ。
トイレに行き、旅行鞄から服を取り出した。着替えた後、コックピットに入る。脱出艇を取り、ズボンの後ろポケットに収めた。どんな事態が発生しても、とっさに使用できるよう、常に手元に置いておいたほうがいい、と判断したのだ。
寝具をトイレに押し込んだ後、朝食として総菜パンを口に入れる。その途中で、船の回転が速まっていることに気づいた。
昨日は、肉眼では傾いていくのを認識できなかったのに対し、今は辛うじてできるのである。食後、再びコックピットに入り、回転抑止エンジンの様子を調べてみた。
エンジンは、全部で十二基ある。そのうち、新たに三基が故障し、出力を落としていることが分かった。ブザーの音量を零にしていたため、気づかなかったのだ。
「ううん……まずいな……」
他の八基が、この後、地球に着くまでずっと健在だとは限らない。むしろ、同じように故障していく可能性が高いだろう。だとすると、船の回転はどんどん加速してしまう。なんとかしなければならない。
(……そうだ)
そもそも、重力があるせいで、足下の勾配に合わせて移動し、こけないようバランスを保ち続けなければならないのではないか。重力場形成装置の機能を停止させ、無重力状態にすれば、転ぶ危険性はなくなる。今よりも、ずっと楽に生活できるのではないか。
そうと決まれば、早く行動に移したほうがいいだろう。重力場形成装置の操作は、コックピットからは行えない。コンピュータ室で、直接どうにかするしかないのだ。トイレからしか入れないので、まずはそこに行く必要がある。
ちょうど、床や壁が本来の位置に戻りつつあった。操作盤の下の棚内部にある、「軽修理用」と書かれた工具箱を引っ掴むと、便所に駆け込む。そして、入り口のシャッターを上げきり、コンピュータ室に入った。
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