詩人は愛を詩えない。

水無瀬 涙

「空は好き?」


男は私に問いかけた。

窓辺で空を見上げながらそう言った男の声には、幼い少年のような好奇心の色が含まれている。


「ええ。」


目の前の机に全くの手付かずで置かれたままの羽根ペンと羊皮紙は、この空間を骨董品のように見せている。

古い本の、紙に染み込むインクの香り。本棚は三六〇度どこからでも私達を見つめている。


「じゃあ、どんな空が好き?」


男は窓の外に手を伸ばした。

明るい茶髪が日の光に照らされて淡い色の金髪に見える。

窓辺から体を乗り出して、随分と楽しそうだ。

私にさっきから空の何を問いかけているのに、顔は全く私の方を向こうとしない。

遠目に見えるその横顔はほのかに微笑んでいて、男をまるで私の知る一番幼い頃のように見せる。


「そうね…。」


どんな空が好きか。

流れる季節の中で、空は様々な表情を見せる。

色、香り、雰囲気、温度。

あらゆるものが季節の流れでめまぐるしく表情を変え、いよいよ同じ表情を見せることはない。

そんな気分屋とも言える空の、私が一番好きな表情は。


「雪の日の空かしらね。」


秒針が3回の時を刻んだのち、手付かずだった羽根ペンに手を伸ばしながら答える。

雪というのはいいものだ。

素直に美しいと思うし、あの鋭利な寒さの中で暖炉にあたりながら珈琲を飲む時間が大好きだった。

雪の日の空は強い日差しが降りてこないのもいいし、たまに雲の隙間から漏れる幾筋かの日の光は、まるで天使が降りてくるかのような神々しさすら感じさせる。

肘掛け椅子で揺られながら、そんな光をランプがわりにポープの詩集を読むのもいい。

もちろん、執筆だって続ける。売れないけれど。


「雪かあ。君らしいね。」


間の抜けた感想を、男は返す。

その声が小さく聞こえるのは、もう上半身ごと窓から乗り出していたからだ。

ここは一階。窓の外には古いセピアの街が広がる。

落ちる心配はないが、きっと街行く人は怪訝な顔で彼を見ているのだろう。

そんなことを考えながら、羽根ペンにインクを染み込ませ、一度深呼吸する。

忘れてはいけない。私の今やるべきことを。

インクの香りを胸いっぱいに溜めた私は、書くことに意識を集中させ、もはや男の質問に答える気は失せ始めていた。


「僕も雪の日の空は好きだよ。」


その答えを聞く頃にはもう、私は羊皮紙にペンを走らせ、インクは文字を浮かび上がらせていた。

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