三.輝く洞窟

「そういえばさあ」

 寮の自室で、ノランが茶を飲みながら話し始めた。

「来週の起動試験に、なんだっけか、すごいお金持ちの人が来るんだってさ」

「そうなのですか」

 いつものことながら、ノランの話は最初輪郭がぼやけていて、分かりにくい。

「あたしらのプロジェクトにも、一杯お金を出してるらしいよ」

 ルゥリアは思い至って、

「ああ、投資家の方なのですね」

「そう、それそれ」

 ノランは指を立ててうなずいた。

「それがさ、最近、このプロジェクトがうまくいくのか疑ってて、お金を引き上げるようかって考えてるんだってさ」

「本当ですか?!」

 ルゥリアは驚愕した。それは一大事ではないか。だがノランは落ち着いた様子だった。

「ま、臨界だっけ? あれさえ越えればいいんだよ」

 臨界。

 人工竜骨が、同規模の本物の竜骨を上回るゴーレム出力を発揮すること。これが出来なければ、竜骨騎以上の竜骨騎を生み出すことはできない。

「もう少し、なのですけど」

 ルゥリアは溜息をついた。所長やスタッフたちの努力と工夫の甲斐もあって、同調率、ゴーレム出力共に目標の80パーセントまで来ている。だがそこからの向上に向けての決め手がないまま、二週間が過ぎているのだ。

「だよねえ……」

 ノランは相槌を打ちながら、マグカップに水を注ぎ、いくつかの錠剤と共に飲み干した。

「あれ、またお薬が増えたのですか?」

 ルゥリアは気になって尋ねた。ノランはマグにお茶を注ぎ直しながら、軽い口調で答える。

「ん? ああ。もうちょっと行けそうだからさ。増やしてもらった」

「大丈夫なのですか?」

「だいじょぶ。あたし、タフだからさ」

 ノランは親指を上に向けた。

「そうですか。私もそのくらい飲めればいいんですけど……」

「ま、そこは無理しちゃだめだよ。今度の試験ではあたしたちが頑張るから、セリアちゃんはもう少し先を目標において頑張ってよ」

「はい」

 ルゥリアはほっと息をついて微笑んだ。そして、

「あの、先にシャワー使わせていただいても良いでしょうか?」

「うん、どうぞ」

「ありがとうございます」

 タオルや着替えを以て、シャワー室に入った。やがて水音が聞こえてくると、ノランはマグカップを口元に運び、呟いた。

「見てあげてるつもりが、見られてもいたんだねえ」



 木の幹に結ばれた綱を肩に掛け、渾身の力で引く。

「はっ!」

 綱がぴんと張ると、木が揺さぶられ、木の葉が何枚か落ちる。

 もう一度。そしてもう一度。

 クルノは黙々と、トレーニングを続ける。


 トルムホイグの元騎士領に春が来た頃。

 クルノの一家は、城壁近くの小さな家に引っ越していた。少しでも生活費を減らすためである。

 トルムホイグとトマーデン公領外への転居を申請したが、却下された。時々、公の部下があからさまに家の近くを通っていく。

 自分達の一家が、ルゥリアに対する人質の意味を持っているだろうことは、クルノにも十二分に分かっていた。

 そんな中でも生きていくため、クルノは幾つかの店の荷物運びや農家の力仕事を掛け持ちしていた。

 今はそれらの仕事の合間。家の近くの木を使って、体を鍛えている。体力は仕事でつくが、格闘技の腕の方は、意図して磨いておかなければならない。それは父に強く言われたことでもある。そう、いつか起こるかもしれない、何かのために。

 ルゥリアの状況は、ほとんど分からない。ただ、突然の失踪が、いつの間にか高名な後見人も付いた武者修行になっている事は、人々の会話などから知ることができた。きっと無事にアバンティーノにたどり着き、竜骨騎騎士になる為の実験に参加しているのだろう。それは、父にも姉にも話してはいなかった。


 足音と会話の声。顔を上げると、見覚えのある三人が近づいてきていた。クルノが学校に通っていた頃の同級生達だった。特に親しくしていた訳ではない。わざわざ会いに来る理由があるようには思えない。

「よう」

 先頭に立つシステンが手を上げた。

「ああ、久しぶり」

 親しみを込めた口調で返事したつもりだったが、相手は横柄な口調だった。

「何してるんだ」

「ちょっと格闘技の訓練をね。仕事の間に時間が出来たからさ」

「何の役に立つんだ。もう従士じゃないんだろ?」

 システンがそういうと、後ろの二人とニヤニヤ笑いを交わす。

 クルノは不快感を押さえながら、静かに言葉を選んだ。

「確かに。でも、どこで何があるか分からないからな。今でも、学校で格闘技をかじった程度の相手なら、二、三人相手しても相手の腕をへし折る自信があるよ」

「そうか。すごいな」

 三人は不安そうになり、互いに目配せを交わした。

「だから、変な奴に絡まれたら、いつでも呼んでくれよ。助けに行くから」

 クルノが笑いかけると、三人もうつろな愛想笑いを浮かべた。

「ああ、そうするよ。じゃあ、またな」

「うん、話ができて良かったよ。またな」

 三人は速足で去っていった。


 クルノは、しばらくうつむいたまま考えていた。

 かつては気付かなかった。平民の子たちから向けられていた敵意について。そして自分の中に暗く淀むものについて。

 あんな事を言うべきではなかった。いや、あのままへらへらと相手していたら、言葉でのいたぶりだけでは済まなかったかもしれない。その意味では、間違ってはいなかった。

「どうしたの?」

 姉のティクレナが家から出てきた。クルノは、安心させるように笑顔を向けた。

「ああ、ちょっと友達が様子を見に来てね」

「そう、良かったじゃない」

「うん」

「次の仕事まで、一休みしたら?」

「そうするよ。ありがとう」

 クルノがうなずくと、姉は微笑んで小屋に戻っていった。


 何が心の中に淀みを生んでいるか、それははっきりしている。あの事だ。あの日から抱えている、秘密だ。

 生き延びるんだ。父さんと姉さんを守って。ルゥリア様が竜骨騎士として戻ってこられる、その日まで。ずっと隠している事を、ルゥリア様に打ち明け、謝罪するまで。

 きっとルゥリア様は、僕を許してしまう。だから、僕が自分で決着をつけるんだ。あの事を話しさえすれば、後はそれを妨げるものはない。きっと父さんや姉さんの事は、困らないようにして下さるはずだ。

 それさえ済めば、僕はルゥリア様の前から消えられる。永遠に。



 誰かの声がする。低い声でぼそぼそと呟く声。ルゥリアはその声で目を覚ました。部屋のノランの側から、卓上灯の光が漏れている。

 ルゥリアは体を起こし、ベッドの縁から覗いた。

 そこではノランが机に向かい、卓上カレンダーを見ながら、何かつぶやいていた。

 ルゥリアは静かに梯子を下りて、ノランのスペースに入った。

「大丈夫ですか?」

 呼びかけると、ノランは弾かれたように振り向いた。ルゥリアを見たその顔に、怯えが走った。

「誰?」

「え?」

 ルゥリアは困惑した。

「わ、私です。ランセリアです」

「ああ、そうか、セリアちゃんか」

 ノランはうつろな笑顔を横に振った。

「そりゃそうだ。この部屋に、他にいないもんね」

「はい」

 ルゥリアは息を呑んだ。ノランは、自分の顔が分からないらしい。その瞳が異様に輝いている。瞳孔が開いているのだ。

 ノランが見ていたのは、ルゥリアが来た月のカレンダーだった。星の印がつけられた日を指さして、

「ねえ、この日、何の日だったんだっけ?」

 と呟いた。ルゥリアは恐る恐る、

「あの、妹さんのお誕生日だったと。亡くなられた……」

「そっか。そう、そうだよね。あの子……あの子……」

 ノランの動きが止まった。

「ねえ、あの子の名前、なんだっけ?」

「え?」

「セリアちゃん、あの子の名前、なんだったっけ?」

「ええと……」

 ルゥリアは焦った。その名を聞いたあの日、それは心に深く刻み込まれたと思っていたが、今はどこかあやふやで、確信が持てなくなっていた。セルヴィ? シルヴィア? シンディ?

「……ごめんなさい。思い出せません」

 ルゥリアはうなだれた。あやふやな名前を言う事は、かえってノランを傷つけるのではないかと思ったからだ。だがノランは、かすかな冷たい笑みを浮かべる。

「そうだよね。あんたにとっては他人の妹なんて、どうでもいいよね」

「そんな…」

 ルゥリアの背筋に、冷たいものが流れた。

「もうやめましょう!」

 ルゥリアはノランの腕にしがみついた。

「薬、減らしましょう。このままじゃ、体がもちません!」

 ノランのつぶやきが止まった。次に口が動いた時、その声は闇からのように低く暗かった。

「やめる? そんな事、出来る訳ないじゃん。私たちの家族にとって、これだけが希望なんだ。いまさら、やめられないよ。やめたら、おしまいなんだ」

 ノランの顔がゆっくりと、再びルゥリアへ向けられる。

「この事、所長には言わないで。言ったら……」

 ノランの瞳が、奥底から輝きを放つ洞窟のような、底知れぬ深淵に見えた。

「あんたを殺す」

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