地から空へのイングルジット
雨天紅雨
中央都市編
第1話 突発的な遭遇戦からの逃走
――誰にだって、隠し事の一つや二つはある。
そんな言葉を飲み込んで、自制したこともあるけれど、俺はそうやって何度、状況に諦めてきたのだろう。今までも、そしてこれからも、何度もそうやって誰かに踏み込むことをやめるのだ。
それは時に偽ることにもなるが、嘘ではなく、ただ隠しておきたいと内に秘める。
自分のためであったり、他人のためであったり。自覚的である場合も、無自覚であることも。
俺も、そうだ。
隠し事は未来に作られず、必ず過去に生まれる。だからそれを押しやって、あるいは棚上げして、せめて今だけはと、己に言い訳をするよう、白色で染められていない現実を生きようとする。
だが、それが過去であるのならば、切り捨てられない。
捨てられないから、たまには向き合ってやろう――ああ、たまに、なんてつけてる時点で、こいつも後ろ向きか。だがまあ、そんな理由だったのは確かだ。
ここはどこ? ――どうでもいい。ただそれなりに広い場所で、夜間は人がおらず、多少の派手な音色くらいでは気付かれないところ。ちなみに屋内。
それは、突発的な遭遇戦となった。
なるほど確かに? そう、俺だって走り込みや筋トレなんて基礎から、魔術の研究や応用、戦闘技術の維持に開発などと、そういう目的でやっていたのは、まあ頷こう。相手がいればと思ったことも、これまでに何度かある。
だからって、こんな状況は望んでいなかった。
「わはははは!」
うるせえクソ女。ちょっと黙れ笑ってんじゃねえよ。
「青いのう! 何を隠してるかは知らんが、尻の青さが抜けておらん!」
「チッ」
左右からの連撃、それを低い姿勢で回避した途端、目の前に下から上へ抜けるような攻撃が存在するのだから、飛び跳ねるようにして回避しつつ、追撃を右のナイフで受け止め、躰で隠した後ろ側から左手首を使って二本の投擲をするものの、足止めにしかならず、手で受け止められた。
「胸も平たいクソチビが、調子乗ってんじゃねえよロリババア」
「――あぁ?」
「おっと悪いなあ、俺は正直者だから」
俺は背丈が野郎にしては低い方で、控えめに言っても小さい方から数えて五番目くらいには大抵いる。だからこの女みたいに、自分より低い相手と戦うのは――少し、苦手だった。
「わしのおっぱいはまだ大きくなる予定じゃ!」
「過去に戻って書き換えてくるつもりか……?」
戦闘の合間、俺が距離を取って足止めをした間を使っての会話は、するりと接敵された途端に終わりを告げる。
間違いなく、俺は踏み込んだ女の足を見た。それに応じるよう、内側に自分の足を踏み入れて、つま先の位置を外側へと移動させようとした瞬間、真横からの気配に顔を殴られて吹っ飛ばされた。
――結構、力があるじゃねえか。
顔を殴られた時は必ず、瞬間的に奥歯を噛みしめて顎を引くこと。それで被害を抑えられる。
俺の中に驚きはない。どれほど突飛な出来事であっても、それは純然たる仕組みが存在することを知っているからだ。
肌、熱、錯覚、――乱反射、操作。
火、水、消去、維持。
単語だけが頭の中に浮かんでは消える。最初には現状の把握、そして続いたのは打開策。
飛ばされながらも視界を広く保ったまま、着地と同時に展開した術式が水を呼び込み、それが足元で凍るのを見た俺は、躰を強く捻りながら更に跳んだ。
――二種、属性混合?
「――いいや、違うぞ」
着地、耳元で囁くような声とは逆側、躰を反らしながら気配にナイフを当てれば、まるでチーズケーキにナイフを差し込んだように、俺のナイフが。
つーか……〝
完全にナイフで切り落とされる前に、小規模で発生したそれを目視確認して回避しつつ、次の一手の防衛を想定するが、次のナイフを投げるには離れすぎだと、手を止めた。
「わははは、どうじゃ!」
なんでこの女は胸を張っている? 褒めて欲しいのか?
「ああ、すごいすごい」
袖口にナイフをしまい、ぱちぱちを拍手をしてやった。
「満足したらお帰りはあっちだ。迷子センターの場所を教えてやろう」
「口が悪いガキじゃのう」
「おい、おいチビ、――先につっかかって来たのは、どこのどいつだ?」
「楽しそうに遊んでおったのはお主じゃろ」
「それがお前の村での流行か」
「お主のような間抜けにはわかるまい」
腕を組んで偉そうに頷くな。
「じゃが、お主はどうも、ここらにいる連中とは毛色が違うのう」
「あんたの毛色は――いや」
「なんじゃ」
「まだ生え揃ってなさそうだ」
「この野郎……! わしでは不満か!?」
「――いや? どうであれ、女を抱く所作は叩き込まれてる。幼女趣味はねえが、ちゃんとその気になれば抱けるさ」
「お主、性格が悪いのう……」
「それが毎朝、鏡の前で言ういつもの台詞か?」
「わしは愛らしいとそれなりに評判じゃ!」
俺は性格じゃなくて口が悪いだけだ。お前のことなんか知らん。
「……で、何がしたいんだお前は」
「うん? 何を言うておる」
「だから、なんで俺に突っかかってきてんだって、その流れの話だ」
「ふむ」
確かに夜中であるし、不法侵入である俺に突っかかるのは、ごくごく自然な流れだが、それはともかく。見たこともないちっこい女が警備員だとは思えない。
毛色が違う? まあ確かに、こいつの黒髪は珍しいが――俺よりも、こいつの方がよっぽど怖い手合いだ。
――だって、在り方があまりにも違い過ぎる。
「ここの事前調査をだな?」
「言い訳スタート」
「うっさいわ。良いか、調査をしようと入ったら、なんぞ人の気配があるではないか。こっそり覗いたら、どういうわけか訓練をしておる。ではちょっと手を貸してやろう――そして今に至る?」
いろいろとおかしいだろ。この部屋に入るまで気付かなかったのは、俺の落ち度だが。
「あ、そう。じゃあ俺帰るから。お休み」
「待て待て、まあ待つのじゃ。それはあまりにも寂しかろ?」
「女みてえなことを言うな」
「どっからどう見てもわしは女じゃろ!?」
「いや、本当に何がしたいんだお前は……?」
「お主に興味があると、さっきから言っておるではないか!」
言ってねえよ。俺の皮肉にいちいち反応してるだけだ。
「そういうのは昼間に言ってくれ。夜にこっそり動いてる俺に配慮するのならな」
「む? 秘密の話は夜にするものじゃろ?」
「ベッドの中で一戦終わった後になら、受け付けてやってもいいが、そんなことで口を滑らすほど間抜けじゃない」
「何故、そういう話になる……?」
そりゃお前の相手をしたくねえからだよ。正体不明なんて、情報不足よりも嫌な言葉だ。
「はあ……、お主、どうして術式を使わない?」
「あんたが術式を使う理由と同じだ」
つまり何だって理由になる。
「可愛くない返答じゃのう!」
「お前は反応がいちいちうるさいな……もう帰っていいか」
「お主、さてはわしが嫌いじゃな?」
「好きも嫌いも、初対面だろうが――おい、泣きそうな顔をすんな。今日はカメラを持ってない」
「酷いヤツじゃの、お主は! なんじゃ脅迫でもするつもりか!?」
「いや、ばらまいてげらげら笑う」
「わしは泣きそうじゃ!」
冗談にそこまで食いつくなよ……俺をなんだと思ってる。いや、思うも何も、俺が言った通り、初対面だったな。
「よし、いいだろう!」
天井に向かって声を張り、俺は二度ほど手を叩いた。
「お、お?」
「――俺は今から逃げる。お前に捕まったら諦めてやる」
言い終えるタイミングで、俺は全力逃走に取り掛かった。既に半分以上諦めているが、もうあれだ、とっとと帰って寝たいのである。
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