真夏の夜の夢

@pierre

第1話 夏のはじまり、彼女との出会い

季節は7月の終わりで、あたりにはかすかに草のにおいが漂っていた。雲一つない青空から察す日光は、街路樹の葉の瑞々しい緑をさらに映えさせている。教室の窓からふく穏やかな風が、楽しそうな声を運んできた。大学構内の丁寧に整備された芝のうえで、子ども達が遊んでいるのだ。彼らは幼稚園児ぐらいの二人組で、一方が水鉄砲で相方の服を濡らしている。ときおり、彼らの間できゃっきゃと高い歓声が上がる。その隣に、大学構内を巡行する小さなバスが停まり、半袖姿の職員がいかにも暑そうに手をかざしながら出てくる。子ども達の母親か乳母とおぼしき女性が近づき、二人の手を引いて木陰のほうへ歩いて行く。巡行バスは小さな甲虫のようにぴかぴかと光りながら過ぎ去ってゆき、子ども達と女性はけやきの木の下で休みながら水を飲んでいる。僕は大学の講義を聴きながら、片目でそんな穏やかな風景を追っていた。

外国人教師が黒板を指さし、英文の構造の説明をしている。彼の白い肌が窓から差す光でさらに映え、長い銀色の髪もときおりきらきらと光る。ベージュ色のワイシャツの脇の部分が、少し汗にぬれている。彼の発音は上品な英国風で、すこし憂鬱そうに響くのはイギリスの灰色の曇天のせいだろうか。白く細い指が英文を指し、今度は英文の音読を促す。次の瞬間、教室の中に、高低が入り混ざった奇妙な音質の声が響く。日本人独特の平坦な発音が教室を満たし、しばらく耳の奥に残る。

僕の周りの学生達は、夏休み前ともあって、みんな期待と活力を身にまとっていた。僕のそばでは、髪を染めてイヤリングをし、ショートパンツから白い足を出している女学生と、派手なTシャツをきた男がときおり小さな声で雑談をしていた。この講義は休み前最後だからか、普段より来ている人数は多く、見慣れない顔もちらほらと見受けられる。授業終了の鐘がなり、あたりが突然ざわつき始める。最後に、銀髪の教師が短いお別れの言葉を述べる。

Fortunately or unfortunately, I won’t see you next time. Because this is the last class in this semester. So, this is the last time I can talk to you. If you have any questions, please don’t hesitate to ask me. Then, have a good vacation!

最初の言葉に教室中がどっと笑いに包まれ、彼は手を振りながら教室を出て行く。教室の中は解放された若者の熱気であふれ、早くも教室から飛び出してゆく学生もいる。多くの学生にとって、教師との別れは何でもないものか、もしくは喜ばしいものでさえあるだろう。にもかかわらず、僕が寂しさともの悲しさを感じてしまうのは何故だろう。きっと、僕にとって夏休みが憂鬱なものだからかもしれない。

「宮之島君は夏休み、どんな予定?」後ろに座っていた同じクラスの女学生から声をかけられる。突然声をかけられたので僕は驚き、しばらく舌の動きが固まる。中学生以来の吃音が出てしまいそうだ。

「ああ、そうだね...。結構暇なんじゃないかな。たまにサークルに顔を出したり、あとアルバイトもするかもしれない。きみは?」

「私はサークルの長期合宿に行くんだ!あと私もバイト三昧!」

彼女はにっこりと白い歯をむき出しにし、友達と一緒に教室を出て行く。僕の体に一瞬走った緊張が弛緩し、すこし手に汗が噴き出すのを感じる。僕はまだ教室に残っている顔なじみと少し言葉を交わした後、手を振って逃げるように教室を後にする。

去年、大学に入学してから友人を作るために努力はしてきたつもりだが、どうやら僕には人と打ち解け合う力が乏しいらしい。ひとと話すときに緊張がとまらず、汗がふきだし、舌がもつれる。ひどいときには言葉さえうまく出ないようになり、時には息が詰まる。そんな普通でない自分が嫌で、友達もあまりできない。だから、僕にとって夏休みは、普通の学生が送るような楽しいものではない。スケジュール帳には義務感で埋めた予定と、アルバイトの予定がちらほらあるだけだ。僕には一緒に居て居心地のいい友人も、楽しみな予定もないのだから、憂鬱なのは当然のことかもしれない。これからの休暇中、一人で過ごす時間を考えると胸が痛い。多分、ひとりで本を読むしかないのだろう。

一人きりの孤独も、人混みの中では暴かれる事はない。僕は人の流れにただ身を任せるように、学生でごった返す通路の中に身を埋めた。みんな何かにせき立てられるように足早に歩き、僕は彼らの話し声に包まれる。できるなら、あの外国人教師の講義をずっと受けたかった、と僕は思った。Can’tをカントと発音し、穏やかな声で英文を読む、彼と同じ空間にずっといたかった。ときどき微笑をうかべ冗談を言う彼と、たどたどしい英語で話し続けていたかった。実のところ、講義が終わってしまえば、僕の居場所などどこにもないのかもしれない、と思う。校舎の正面玄関を出ると、盛夏の日差しが視界いっぱいに広がり、鮮やかな色の服を着た学生達が行きかっていた。ひとりで過ごすには、今は鮮やかすぎる季節だと思う。耳の奥には、かすかに英国英語の響きが残っていた。

ハヴアグッドヴァケイション...。

                 *

夏期休暇に入って一週間ほどたった頃、珍しく雨が降っていた日のことだった。僕は午前中のアルバイトが終わった後、学生食堂でひとり昼食を取っていた。アルバイトと言っても、ウエイターやレジ打ちのような接客業ではなく、荷物を運ぶだけの簡単な軽作業だ。学生寮の近くにあるモールに、毎朝トラックが荷を積んでやってくる。その段ボールに入っている品物をカートに載せ、倉庫まで運ぶという単純な作業だった。声が出なくなることを考えると、やはり僕に接客業は向かない。黙って荷を下ろし、そして運ぶという静かな作業が僕には心地よかった。

いつもは学生であふれかえる食堂も、休暇中は閑散としていた。所々にジャージ姿の学生が座っているぐらいで、食事を取っているのはほとんど職員か訪問客だった。僕がいつも頼むメニューをトレーに載せていると、急に後ろから声をかけられた。

「あのう、もしよろしければあれを買ってくださらないでしょうか?お金はちゃんとお返ししますから...。」

振り返ると、一人の女性が立っていた。いや、女性と言うよりも「少女」と言った方が印象に近いかもしれない。あまり話したことはないが、同じクラスの...名前は確か楓村ミナコだ。無地の灰色の半袖に、着古したジーパン。黒髪のショートヘアは少し雨に濡れていて、前髪が何本か額に張り付いている。半袖の丸首からは鎖骨が見え、白い肌にかすかに影を落としていた。彼女は一万円札をポケットの財布から取り出し、

「あの、すいません、私これしか持っていなくて...。考えすぎかもしれないけど、レジの方にも失礼かと思って...。」

彼女が指さした先には、「夏期期間限定 すいか 一切れ80円」というポスターが貼ってあった。僕は瞬時にこの奇妙な女性について思いを巡らした。これまであまり気にすることはなかったが、少し変わった雰囲気の人だ。あまり親しくない僕にいきなり頼み事をするあたり、一見大胆なようだが、あまり社交的なタイプでもなさそうだ。言葉の響きの端々に、思いつきで話し出したのではなく、何回も言葉を反芻した印象を受ける。きっと何度も声を発するのをためらい、やっと勇気を出して話しかけたのだろう。

「っ...。」必死に対応しようとするが、声が出ない。

「あのう、変なことをお頼みして本当にすいません。図々しかったですよね...。」

「い、いいえ、いいですよ。は、八十円くらいなら。」緊張していつもの吃音が出てしまう。

僕は普段余計なものを注文せず、いつも必要最低限のものを頼むのだが、めずらしくスイカの一切れをプレートの上にのせた。そのまま彼女と一緒にレジを通る。レジでは熟練のパートタイマーが効率よく客をさばいている。

はいこんにちはいらっしゃいませ。かれーちゅうがいってん、ばんばんじーさらだ、すいかです。ごうけいでごひゃくななじゅうろくえんです。ぷりぺいどでおしはらいですね。はいこちられしーとでございます。ごりようありがとうございました。

よく通り、滑舌がいいはっきりとした声だ。僕はレジを通る度に、あんな風になめらかに話せたら、と思う。思わず胸が痛くなり、手から汗が噴き出すのを感じる。

「あ、あの、ありがとうございました。お金は必ずお返ししますので...。」

 彼女は僕からすいかのプレートを受け取ると、食堂の奥の方に行ってしまった。何故自分はあの女性にすいかを買ってやったのか、自分でも不可解だった。でもあえて理由を述べるとするなら、僕が彼女の話し方に好感を抱いたからかもしれない。口調は丁寧だが、事務的な冷たさは全く感じられない。むしろ、それは彼女自身の誠実さと他人への思いやりの自然な発露のように感じられ、僕に信頼できる人物だと感じさせたのだ。ひとりで座りやすい席を探していると、彼女が小走りで戻ってきた。麻のリュックサックを背負い、恥ずかしそうな笑みを浮かべている。

「よく考えたら入り口に自販機があったので、そこでくずせばよかったんですよね、ははは...。どうもすいませんでした。」

彼女は申し訳なさそうにぺこっと頭を下げ、八十円を僕のプレートに乗せ、そのまま立ち去ろうとする。彼女は片方の手に小ぶりの文庫本を持っている。フランソワーズ・サガンの『ある微笑』だった。

「あの、待ってください。」

思わず彼女の細い手首を握ってしまう。片手に持ち替えた衝撃でプレートが揺れ、液状のカレールーが皿の縁ぎりぎりまで動く。彼女はゆっくりと振り向き、「なんですか?」とでもいいたげに首を少しかしげる。彼女があまり驚かないことに、むしろ僕は驚いた。

「その今手に持っている本の作家、僕も好きなんです。」

かすれた情けない声だったが、彼女の耳にはきちんと届いたようだ。伏し目がちにほほえむので、細まった目が黒いまつげに隠れる。

「そうなんですか、サガンが...。趣味が合うのかもしれませんね。」

急に呼び止めてしまってすまない、と僕が謝ると、彼女は目を伏せたまま笑って首を振り、全然気にしていないから大丈夫、と答えた。彼女は会釈をし、そのまま自分の席へ帰って行った。他人の目から見れば何でもない出来事かもしれないが、その日以来、僕たちの関係は少しずつ変わり始めた。初めは、食堂で会うとお互いに挨拶をする程度だったが、次第に打ち解けて話すようになり、二週間ほどが立つ頃にはお互いに昼食を共にするようになった。

話題はたわいもないもので、お互いの好きな作家の話、奇妙な癖を持つ文学部の教授がはなった奇妙な一言、予報では来るはずだったが温帯低気圧に変わってしまった台風のことなど様々だった。

時々、僕は言葉につまってしまい、会話に大きな沈黙ができてしまうこともあった。それでもミナコは、僕をせかしたり好奇の目で見ることはなく、ただ微笑んで僕の次の言葉を待っていてくれた。僕は彼女と話しているときだけ、手に嫌な汗をかくことも緊張する事もなく、ただ話をすることを楽しむことができた。僕は彼女の質素な服装と、柔らかい物腰が好きだった。話に熱中すると、無意識に握り拳を作ってしまう彼女の癖や、からかうと怒ったように僕の肩をたたくしぐさが好きだった。恥ずかしそうに、伏し目がちに笑うときの彼女の表情が好きだった。ばかげていると思われるかもしれない、もしくはフィクションのように単純すぎるかもしれない。

でも気づいたときには、僕は確かに彼女に恋をしていたのだ。

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