元貴族の青年と貧困街の少女

@root0

第1話

 目前で倒れ伏す漆黒の男が一人。

 ギャラリーの群れも、すっかり静まり返っていた。


 胸部の一突きによる刀傷。そこから流れ出る血液は緩やかに広がり、少女の足元まで到達した。赤黒くも瑰麗な温血が地面をしとどに濡らす。


 なぜ、こんなことに──。





♢





 貧民窟。

 犯罪や非合法物の売買が飛び交う腐った街。救抜も一望もありはしない。汚泥に満ち満ちた世界。

 それが少女の全てだった。


 日が落つる暗夜。

 少女は一人の中年男性に目をつけ、のらりくらりと後を追う。周囲に溶け込み気配を殺した。

 そして、しばらくの追跡ののち、男は裏の路地の方へと足を伸ばした。ここが好機だと確信した少女は、鼓動を速めた。


 男が十分に裏路地へ深入りしたのを見計らって、瞬時に距離を詰める。

 男が少女に気づいた時にはすでに遅い。脇に仕込んだナイフを颯爽と取り出す。


 震驚の面持ちをしたが最後。男の喉を疾く速い一撃で掻き切った。

 鮮血が飛沫を上げ、少女の頬に癒着する。

 力なくくずおれる男は、体内の機能が完全に停止し音立てぬ肉塊へと変貌した。


 無感情に見下ろす少女の瞳は、絶対零度に凍りついていた。

 死した男の懐から、金属特有の感触のする袋を手に取った。

 手のひらの上でひっくり返すと、それを掴みとりその場を後にした。





♢





 少女は自らの棲家へと帰来した。

 人の気配も絶え絶えの裏の路地の奥。あらゆる場所に穴があく石造りの家屋。


 そこに、いつにも増して不機嫌そうな男が待ち構えていた。


「おい、今日の分は?」

「…………これ」


 少女の矮小な手のひらの上には、銅貨が三枚ほど並んでいた。離さないよう強圧してしまったせいか、手汗で少々色が滲んでしまっている。


 強面の男は、少女から銅貨を野太い手でぶん盗った。

 男は訝しげに銅貨をまじまじと見つめる。すると唐突に舌打ちを響かせ、少女を思いきり蹴り飛ばした。

 軽少な少女は、蹴付けられた勢いのまま背後へ飛ばされた。背中を強く打ち付け、肺の空気を吐き下す。


「偽の銅貨じゃねぇか!ったく下らねぇもん持ってきやがって!この役立たずが!」


 男は嚇怒を顕にし、吠え散らした。

 その猛勢を以て少女を激しく踏みにじる。息を荒くし何度も何度も踏みつけた。

 少女は悲鳴を上げることもなく、蹲りただ男の乱撃が止むのを待った。


 この犯罪者面の男は、幼い少女を拾った養親だ。養親とは名ばかりで、盗みの技術。暗殺の技術を教え込むと、その後はひたすら少女に人を襲わせ自分は待つのみ。


 男が拾ったのは命にあらず。ただの道具だった。

 少なくともこの男にとってはそうだった。他に行き場もない彼女は、こうして人を殺め、男から暴力を受ける他なかった。


「てめぇを拾ってやったのは一体誰だと思ってやがる……!こうなったら、その体に直接刻まれなきゃわからねぇようだなぁ?」


 男はそう言って、盗品の山の中からサーベルを取り出した。長く手入れされていないにも関わらず、刀身は艶やかに月光を反射している。

 今日は空前の虫の居所の悪さだったらしい。少女は自らの運命を感じ取り、覚悟を決めた。

 男はのっそりのっそりと少女へと詰め寄る。少女は終わりを悟り、目を閉じた。


 その時──。


 ガキィィン!!


 金属同士が激しく擦れ合う音が鳴り響いた。少女はハッとし目を開ける。


 すると、そこには剣を払いサーベルを真っ二つに切り裂いた男が立っていた。フードのついた漆色の外套に身を包み、こちらに背を見せる。


 養父は間抜けな面を貼り付け、腰を抜かして座り込んだ。


「なっ………!」

「怯えることは無い。俺はただの通りがかりだ。その少女とは何の関係もないが、こうした現場を目にしてしまえば放ってもおけまい。疾く失せろ。これ以上の暴状は許さん」

「ひ、ひィィ!!」


 養父は滑稽な悲鳴を飛ばしながら、這いずるように家を後にした。

 男は剣を軽く払い丁寧に鞘へと納める。


 室内に静寂が降りたころ、男はゆっくりと少女へと振り返った。


「無事、ではないな。だがそれは詮無きこと。このような場所にいてはな。見たところ生きていく術はとうに身についている様子。さあどこへなりと行くがいい。もうお前を縛るものはない」


 男は乾いた、だが確かに意思のこもった声を少女へ届ける。男は意外にも少女とさして歳が変わらないように見えた。


 芝居がかった口調に貴族のような喋り方をする奇妙な青年。

 その姿は、少女の瞳にはひどく眩しく尊く映った。

 それは、少女にとってのある種の希望であり、憧れとなっていた。

 少女は迷うことなく、青年の下で生きることを誓った。

 青年はそれをよしとし快く迎えた。


 それから、二人は同じ道を歩み始めた。スラム街を飛び出し、少女の新たな人生が始まったのだった──

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