10
玄関の鍵を、細心の注意を払ってゆっくりと開ける。
鍵を閉めたかったが、鍵のありかなど分かるはずもなかった。少しの間だけ、空けておいても大丈夫かな。戻ってきた時に施錠すれば問題ないだろう。
さっきまで風が吹いていたように思ったが、今は止んでいた。気が急いて、背中を押されるようにして山道を登る。後ろを振り返ってみたが、誰かが追ってくる気配はなかった。
登りながら、寝巻きの浴衣のままやって来てしまったことを若干後悔した。せめていつも身につけている、あの匂いの強い服に着替えてきたほうがよかったかもしれない。だが今更戻るわけにはいかなかった。なるべく急いで登らなければ、絶対にばれてしまうような気がした。
見上げると、黒々とした木々の影が、まるで漣のようにこちらへと押し寄せる錯覚に捕らわれた。実花が今の僕を見たら、きっと激怒するだろうな。そう考えると、彼女の鬼の形相が目に見えるような気がして内心縮みあがる思いだったが、それでも今は種を手にしたいという気持ちのほうが圧倒的に勝っていた。ドキドキしながら、いつもの山小屋の地点まで登ってくる。この小屋で山道は途切れていて、その後ろには道も何も無い、深い森が続いていた。
――そんなに、恐ろしいところだろうか、ここが?
月が明るいせいか、夜闇の暗さが心もとないとは感じなかった。風はすっかり止んでいて、不思議なくらいに木々のさざめきも虫の声も聞こえなかった。
その静けさに一瞬、身が竦んだ。怯みはしたが、頭をぶんぶんと振って、まっすぐに前を向く。ここで何もせず、手ぶらで帰るわけにはいかないんだ。小屋の脇をぐるりと廻って裏手へ出ると、行く手に続く森の様子を眺め渡した。やけに遠くまで見通せるせいか、戻ろうと思えばいつでも戻れる、そんな安心感にも似た気持ちが心を励ましてくれた。
一歩一歩、ゆっくりと木々の間を進みながら、それらしい樹木が無いか探して歩き始める。最初は蛇に噛まれたり虫に刺されたりしたらいやだな、なんて考えていたが、そういった心配はなさそうだった。蛇一匹、虫一匹、見当たらないのだ。森は、生命に満ちた昼間の印象とはまるで違ってみえた。夢の中の森みたいに静かで、自分を害するものなど何もいないようだった。それが心安くもある一方で、恐ろしくもあった。
森の入り口付近は、日本の山林でよく見かける管理された杉林になっていて、探している種を付けていそうな樹木はひとつも見当たらなかった。月の光に押されるようにして、そのまままっすぐに奥へと進む。
ざっ、ざっという自分の足音だけを聞きながら、黙々と歩いた。道もない急な勾配を登っていくうちに徐々に息が切れてくる。それでも、それらしい木々が生えている場所を見つけることはできなかった。もしかしたら問題の木々の森は、かなり標高の高いところにあるのかもしれない。
もう少し。もう少しだけ歩いたら、たどり着けるかもしれない。けれど――
忘れてはいけない。あまり深入りしてはいけないんだ。自分で、どこかで区切りをつけないと。
風が戻ってきて、再び木々を揺らし始めた。見上げると、枝を伸ばした木々の隙間から、大きな月が見えた。それは明るく励ますように、こちらを見下ろしている。
よし。もう少しだけ、行ってみよう。
再びざっ、ざっという音を聞きながら歩を進めた。木々の間を縫って進んでいくうちに、ほんのかすかではあるが、どこからか心地の良い香りが漂ってくるのを感じた。
何だろう、花の香りのような。けれどこれまでに嗅いだ覚えのない、不思議に甘やかな香りだった。
いや、待てよ……もしかしたら!
ふと頭に浮かんだ考えに、思わず自分の足が止まった。
もしかしたらこれって、例の木に咲く花の香りだったり、しないだろうか?
そう考えるといても立ってもいられず、大きく息を吸って匂いの出所を探そうと試みた。
だがその瞬間――心底ぞっとするような音を耳にした。
足を止めたはずなのに、まだ足音が続いていたのだ。
それは自分の背後に迫る、大勢の人間の足音だった。
最初は、こちらの企みに気付いた龍樹さんが追ってきたのだと思った。けれどそれにしては足音の数が多すぎる。足音は背後から着々と、こちらに近づいてくる。
心臓がドキドキドキと早鐘を打っていた。恐ろしくて膝が震えた。後ろを振り返りたくはなかった。いや、振り返りたくても、すっかりと体が硬直したように動かなくなってしまっていた。
じっとその場に立ち止まっていると、足音の一つがすぐ後ろに迫ってきた。そのままドンと背中を叩かれる。
「前へ進め。進まないと病気だと思われて、殺される」
誰かが耳元でそう囁いた。驚いて隣を見ると、軍服姿の若い男が前を向いたまま、こちらの腕をぐいと引っ張ってくる。
「早く進め」
そう言われ、男に引きずられるようにして再び歩きだした。すると今度は、右足に今まで感じたことのない激痛が走った。足元を見れば、いつの間にやら見覚えのないボロボロの長靴を履いている。しかもそのつま先はぱっくりと割れ、ほとんど裸足のような有り様だった。その上気が付けば、自分も隣の男と同じような服装をしていて、背には異様に重いリュックのようなものを背負っている。
混乱したまま、再び一歩前へと踏み出した。体は倒れそうなほどに重く、足を一歩前に運ぶだけで恐ろしく骨が折れた。
「次の街まで我慢して歩け、そこで靴を徴発できるだろうから」
「チョウハツ?」
男の言葉を受け、意図せず皮肉めいた言葉が口からこぼれた。
「これはまた体のいい言葉だな。略奪、って言ったほうが正確だろうに」
そんなことを言おうと思った覚えなどないのに、言葉が自然にこぼれ出てきた。自分が発した言葉がまるで他人の言葉のように聞こえてくる。
なんだこれ。どうなっているんだ?
「だまれ、山田」
隣を歩く男に、再び背中を小突かれた。
「あいつに聞かれたらまた痛い目見るぞ。いいから黙って歩け」
「…………」
右足の激痛に耐えながら、声を掛けてきた男と並んで黙々と歩いた。本当は逃げ出したいのに、自分の意志とは無関係に体が前に動いてしまう。
これは一体どうなってるんだ?自分は今、どうやら山田という男であるようだった。だけど意識はまだ、この男とは別にある。
これは夢か?
それとも――
もしかしたら、これが実花の言っていた「森を彷徨う幻影」ってやつか?
自分の考えに驚いたと同時に、全身に震えが走った。急いで背後を振り返ってみると、自分と同じようなくたびれた軍服姿の男たちがぞろぞろと歩いている。しかしその中には、重たそうな荷物を背負った一般人らしき人間も混じっていた。軍服姿の人々が皆無表情で言葉もないのに比べ、平服の彼らは大声で泣いたり叫んだり、いちいち感情を露わにしている。しかしその行軍の誰もが痩せて疲れ果て、顔色の恐ろしく悪いことに変わりはなかった。
「もう少ししたら、山を降りる。そしたら街があるらしいぞ」
逃げ出さねば、とずっと頭の中で考えていた。しかし自分の意識が閉じ込められたこの体は「山田」という人物の意志に支配されていて、逃げ出したくてもどうすることもできない。
気が付けば、いつの間にか下りの道に差し掛かっていた。極度の疲労と足の激痛が重なり、体力は限界に達していたが、立ち止まると命はないと言われているし、とにかく必死で付いて歩いた。
やがて森の中に、人が整備した道が見えてきた。道が平坦になって、少し楽に歩けるようになった。月明かりの中進んでいくと、木々の向こうに大きなため池が見えてきた。人里がどうやら近いらしい。
池のほとりには大きな木が生えていて、枝には見たことの無い形をした桃色の花が今を盛りと咲き乱れていた。月明かりに照らされて、それはぞっとするくらい美しく見えた。
池のそばまでたどり着くと、何名かの民間人の姿をした兵隊が近隣の村へと送り込まれ、残りのものにはようやく休憩が与えられた。
配られた米を食べていると、先ほどまで隊列の後方で泣き叫んでいた平服の男が一人、こちらににじり寄ってきた。
「……?」
見ると、手には何やら干した果実らしきものを持っていて、食え、食えという仕草をしてくる。空腹は極限に達していたので、遠慮なくそれをもらうとガツガツと食べた。
「へいたいさん、わたし、ひるになればかえれますか」
ひそひそ声でそう訊ねられた。どうやら、彼はどこかで荷物持ちとして強制的に拉致連行されて来た現地の男らしい。いつになったら開放されて、うちに帰してくれるのかと聞いているのだ。
「初年兵の俺に聞かれてもなぁ。古参のものに聞いてくれ」
そう言うと、彼は縮み上がったような表情を浮かべ、ぶるぶると首を振る。
「あのひと、こわい。わたし、ころされる」
「すまんが、俺にはあんたがいつ帰れるのかなんて、分からんのだ」
そう答えると、男はまたシクシク泣き出して、何やら異国の言葉で辛い胸のうちを吐露しているようだった。
「……いいよな、あんたらは。俺たちは、涙なんて見せられない」
それを眺めているうちに、思わずそんな言葉が口をついて出てきた。
「?」
「俺たちだって、本当はあんたと同じなんだよ」
山田の胸の中に、悔しさや怒り、そして言葉にならないやりきれなさが溢れ出てくる。
「紙一枚で家族と引き離され、こんな異国の地に連れてこられて、言われるがままに毎日北へ南へ、自分が何をやっているのかも分からないまま這いずり回っている。だけど俺たち兵隊には涙なんて絶対に流せないんだ。それができる分、あんたが羨ましいよ」
この日本語が少し分かるらしい現地の男は、それを聞き、ははぁ、とつぶやいた。
「へいたいさんも、わたしといっしょね」
そう言うと、何かとても気の毒なものを見るように、こちらに同情のまなざしを向けてくる。その目を見ているうちに、突然泣きたくなって、急いで顔を背けた。
その時、他所で休んでいた男が一人、ふらりとこちらへと近づいてきた。彼は捕虜たちが極度に恐れて決して近づこうとはしない古参の兵士である。何を思ったのか、彼は山田の近くで休んでいた民間人たち四人を無理やり立たせると、乱暴に引き立てて、池のほとりまで連れて行った。その中には、先ほどまで話をしていたあの男も混じっている。
山田の心に嫌な予感が走った。何年も前に徴兵され、激戦地で転戦を重ねつつ生き抜いてきたその古参兵は、異国の人間を人と思わぬところがあった。しかしまた、最近になって祖国から徴兵されてやってきた初年兵たちにも少なからぬ嫌悪を感じているらしく、山田自身も事あるごとにその男に因縁をつけられ、罵倒され、殴られた。徴発と称しては真っ先にさまざまなものを略奪し、人を殺すのにためらうことがなかった。
ああはなりたくない。いつもそう思っていた。どんなところにいたって、人間には人として堅持しなければならないことがあるはずなんだ。
古参兵は銃を担ぎ、四人をため池のほとりに連れて行った。彼を恐れる民間人たちは抵抗する様子も無くおどおどと身を寄せ合っている。そんな彼らに向かって古参兵は銃を構えると、抑揚のない声でこう告げた。
「飛び込め」
その言葉に、場の空気が凍りついた。あまりに理不尽な命令を前に、四人は戸惑い、中には何か大声で喚いているものもいる。男はそれを銃声一発で一蹴した。
「さっさと飛び込め!」
さすがに抵抗すると殺されると判断したのか、彼らは素直にため池の水の中へと飛び込んだ。水深は深いらしい。みな水面で手をバタバタと動かし、苦しそうにもがいている。
兵たちは皆、ただ遠巻きにそのさまを眺めていた。人の死が日常となった現実で、誰しもが疲れ果てていた。その様子を眺めていても、やめるよう諭す者は皆無だった。
「成瀬と山田」
そのとき、古参兵に呼ばれた。特にあの男に目を付けられている自分は、すぐに行かなければ、またしたたかに殴られる。一緒に名を呼ばれた成瀬という人物は、先ほど山で歩けと忠告してくれた男だった。二人は彼の前に行くと、直立不動の姿勢をとった。
「鴨打ちだ」
そう言うと、古参兵は山田の隣に立つ成瀬に向けて、銃を差し出した。
「打て」
一瞬、成瀬は信じられないというような表情を浮かべ、銃を凝視していた。さすがにすぐには手が出なかったのか、銃を見つめたまま、しばらくの間動くこともできないようである。
すると、何の前触れもなく、古参兵は成瀬の顔面を、思いきり拳骨で殴り飛ばした。
成瀬の身体は殴られた勢いで地面に叩きつけられた。彼の態度が気に入らなかったらしい古参兵は、そのわき腹を何度も何度も蹴り上げ、頭を強く踏みつけた。
「本国でのうのうと暮らしていた初年兵ってやつは、上官の指示にも従えんのか。さあやれ! これくらいのことができなくて戦に勝てると思うな」
結局、成瀬は銃を受け取った。ゆるゆると起き上がると、片膝を付いた姿勢で銃を構える。手の震えをどうしても抑えられないようで、銃口ががくがくと揺れていた。
やめてくれ、と思った。無抵抗の民間人に銃を向けるなんて、そんなことはいくら戦場であったとしても、人の所業ではない。
今、池に向かって銃口を突きつけている目の前の男を、山田は良く知っていた。入隊の時からずっと一緒に過ごして来た仲だ。自分のことだけで誰もが必死な毎日の中、こちらのことまでよく気にかけ、助けてくれる度量の大きな男なんだ。そんなやつがこんなことをする姿など、見たくなかった。
それに――、彼が終われば、次は自分の番なのだ。
パーン、パーン、と銃声が響いた。ため池のほうからは、パニックになったらしい男たちの叫びが聞こえてくる。
固く目をつぶっていると、古参兵に顎を掴まれ、ため池のほうに顔を向けられた。
「見ろ」
一人に弾が命中したらしい。池の水面が赤く染まっていて、その中心に、力尽きた男の死体が浮かんでいた。
他の三人は慌てたように岸のほうへともがいて逃げだそうとしている。そうだ逃げろ、逃げてしまえ!そう思った矢先、古参兵が目の前に銃をつき立ててきた。
「次はお前だ」
ごくりと唾を飲む。ちらりと成瀬を横目で見やると、殴られた拍子に切れたのか、口の端からひどく出血していた。腹を何度も蹴られたせいか、立ち上がれないまま地面に蹲っている。もしかしたら、骨折しているのかもしれない。万が一、行軍に差し支えなどしたら、成瀬自身の命だって危なかった。
足ががくがくと震えた。いやだ! 心はそう叫んでいた。しかしその思いとは裏腹に、目の前の銃を手に取っていた。あの執拗な暴行を目の前で見せられた後では、恐ろしくて体が拒むことができなかった。
分かっている。やらなければ、殺される。戦争とはそんなものだ。
だけど……。味方に殺されるものだとは、知らなかった。
俺は今、殺されようとしている。自分という人間の根幹にあるものを、こいつに譲り渡そうとしているんだ。
「やれ」
そんなに撃ちたければ、自分でやればいい。そのほうが、どんなにか容易いだろうに。それをしないということはきっと、この男は見たいのだ。自分と同じところに人が堕ちるのを。そして、自分は狂ってなどいない、この善人面した初年兵だって、結局人は皆同じなのだと思いたいのだ。
そんなくだらない理由のために、俺は彼らから、命を奪わなければならないのか。
震える腕を上げ、成瀬と同じように池に向かって銃を構えた。
完全に古参兵に対する恐怖に支配されていた。銃口はがくがくと震えていたが、いっそ都合が良いと思った。どのみち狙いなど定められないのだ。
その時、ため池の中の男が一人、こちらを振り向いた。瞬間、目が合った。彼はすがるような目で何かを訴えてくる。
それはさっきまで、隣に並んで話していたあの男だった。
――へいたいさんも、わたしといっしょね。
彼の言葉が、耳元で聞こえた気がした。
――へいたいさんも、わたしといっしょに、ころされるね。
その声が耳に届いた途端、頭がぼうっとして、何も考えられなくなった。手の震えがぴたりと止んだ。
ただ単純に、嫌だったのだ。自分は、池に落とされた男たちと同じ運命を辿りたくなかった。何としても生き延びて、この地獄から逃れたかった。今、命乞いをするように池からこちらを眺めているあの男と同じように、俺だって家族の待つ家に帰りたかった。本当に、ただそれだけだったんだ。
鴨だ。自分に言い聞かせた。俺は鴨を打つんだ。あれは鴨だ。人なんて撃てる気がしないが、鴨ならば撃てる。そうだろう?
何発打ったのか、見当もつかなかった。銃声はまるで耳に届かなかった。池に浮かぶ男の周囲があっという間に赤く染まり、打ち抜かれた後頭部からは頭蓋骨がむき出しになっていた。その中に収まっていた血と脳味噌が一緒になってだらだらと流れ出るのを見て、ああ、俺がやったんだと思った。手から銃が滑り落ち、その場に膝をついた。
古参兵が銃を拾い上げる。彼が残りの二名をあっさりと射殺するさまを、ただぼんやりと眺めていた。
「早く慣れるんだな」
そう言うと、古参兵は肩を揺らせ、何事も無かったかのようにその場を離れていった。
誰一人、言葉を発する者はなかった。赤く染まった池は、先ほどまでの惨劇が嘘のように静まり帰っていた。対岸にある大きな古木には、先ほど森の中から垣間見た見覚えのない花が咲き乱れていて、風が吹くと、桃色の花びらが池の水面にハラハラと落ちた。風が木を揺らすたびに、辺りに充ちた血の匂いをかき消すように、甘い香りが辺りを包んでいく。
ああこれか、頭の隅でそう思った。あの時、森の中で嗅いだ香り。それはこの花の香りだったんだ。
動くこともできずそこにただ佇んでいると、隣で蹲ったままだった成瀬が、突然むくりと立ち上がった。
ひとしきり咳き込んだかと思うと、彼はよろよろと池のほうへと向かって歩いていく。
「おい――」
思わず、成瀬の腕を引っ張った。
「やめとけよ。近づくな」
「離せ」
成瀬は、先ほどまで手ひどい暴行を受けていたとは思えない力強さでこちらの手を振り払うと、突然、思いもかけないことを口走った。
「俺は、あの木の種を取りに行くんだ」
「なんだって?」
「あれだ」
彼は池の対岸にある、あの古木を指差した。
「綺麗な花だろう?俺はあの木を知っている。あの木の種を飲むと――」
そう言うと、成瀬はこちらを振り返った。驚いたことに、彼の青白い顔には笑顔が浮かんでいる。
「忘れたいことを、忘れることができるんだ」
「忘れたいことって、おい、成瀬――」
「そうだ、お前も来るといい」
そう言うと、今度は逆に、彼がこちらの腕を掴んできた。
「一緒に行こう」
離してくれ、と必死で頼んだが、成瀬に掴まれた腕を振り解くことはできなかった。二人は揉み合いながらどんどん池の方へと近づいていく。
その木は、ため池の対岸にあった。立派な巨木が、こちらを包み込むように枝を伸ばしている。
お前も、忘れてしまえ。
自分がしたことは全部、この木に任せてしまえばいいんだ。
成瀬はこちらの腕を掴んだまま、ずぶずぶと赤い池に入っていく。引きずられ、こっちまで水の中に足を踏み入れてしまった。成瀬は、ほとんど人の力とは思えない凄まじい力でこちらを水の中へと引きずり込んでいく。どうしても彼に抵抗できなかった。血の匂いのする水の中でもがいていると、目の前に、先ほど自分が頭を打ち抜いたあの男の死体が漂ってきた。
彼の奥行きの無い瞳は、虚空をただぼんやりと見つめている。
――へいたいさんも、わたしといっしょに、ころされるね。
再びあの声が脳裏をかすめ、思わず大声を上げた。必死で死体から離れようとしたが、体が思うように動かない。水をたくさん飲んでしまった上に、体力は限界に近づいていた。頭がどうにかなりそうだった。どうしてこんなことになったのだろう?なぜ、こんなところで、こんな理不尽な苦しみを受けねばならないのだろう?
強い風が吹き、桃色の花びらがバラバラと目の前の死体に降り積もった。美しい花びらが、その恐ろしいさまを覆い隠していく。
何とか最後の力を振り絞り、身をよじって死体に背を向けた。そして固く閉じていた目を見開くと、空に向ける。
澄んだ月光が照らす夜空を背に、美しい花を咲かせた巨大な樹が、こちらを見下ろしていた。
成瀬の言った、種。
その話は、自分もどこかで聞いたことがあるように思った。そういえば、なんだか俺も、以前からそれを探していたような気がする――
なす術も無いまま、既に池の中央付近まで引きずられていた。もう自力では岸に戻れそうにもなかった。成瀬の姿を探すとその姿は既に無く、山田は一人、暗い水の底に沈もうとしていた。
種。忘れたいことを、忘れられる――そうだ。確かそれを、誰かに、渡すつもりだったのでは、なかったっけ……?
その時、さきほどまでいた岸辺で松明の炎がちらりと揺らめくのが目に入った。
「あつし――!」
遠くから、誰かが大声でそう呼ぶ声が聞こえる。
……あつし?
松明からは、強力な薬草のような匂いが立ち込めていて、その匂いが風に乗って流れてきた途端、胸の辺りがむかむかし始めた。
「あつし!」
松明の方角から、もう一度呼ぶ声が聞こえたかと思うと、持っていた炎を投げ捨て、誰かが池に飛び込んできた。
絶対に、誰も助けてなんてくれないと思っていたのに。
誰だろう。兵士の中の一人だろうか?
体から力が抜けていく。水の底に沈みながら遠のいていく意識の中で、誰かの手が自分の腕をしっかりと掴むのを感じた。
あつし……あつし。それは、誰だっただろう。
その名前が、呼ぶ声が、温かく懐かしい響きをもって、自分の心に何か大切なことを訴えかけてくる。
だけど、そうだ。まだだめなんだ。まだ、帰れない。
僕は行かなきゃならない。まだ種を手に入れていない。もうほんの目の前に、あの木が姿を見せているんだ、だから――
そう思って、男の腕を振り解こうとしたのを最後に、意識が途切れてしまった。
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