ヒノキとウタコ

秋空 脱兎

森の川のバケガニ

 人の手が殆ど加わっていない、深い森の中。

 森を貫くようにして、川が流れていた。

 その川を沿うようにして、巨大な黒緑色の蟹が歩いていた。

 巨大な蟹は右の鋏が大きく、蟹がオスである事を示していた。


「……いいか、ウタコ。あれが今回の目当ての、バケガニって異物だ」


 茂みの中に隠れ巨大な蟹――バケガニの様子を観察していた十代後半、大人になったばかりに見える黒髪で黒い着物の若い男が、隣に座る十代前半に見える黒髪で緑色の着物の少女に小声で話しかけた。


「はい、兄様あにさま


 ウタコと呼ばれた少女は、小声で短く返事をした。


「……やっぱ馴れないな。ヒノキでいいって言ってるのに」


 ヒノキと名乗った男は、苦笑した。


「ではヒノキ兄様にいさま、あのバケガニ、一番後ろの足がやけに平たいのですが……?」

「ん……? げ、本当だ」


 ウタコが指摘した通り、バケガニの一番後ろの一対の足は、他の足と比べて平たく、また横に幅広くなっていた。


「えっとな、あれは遊泳脚って言って、泳げる蟹の特徴なんだけど……、バケガニの場合だと、あれで空を飛べる」

「え……大きさからしてあり得ないように見えるのですが……」

「『あり得ない』があり得るのが異物だからな。んで、ついでに言うと、ああいうのを特にワタリガニって言うんだ。覚えとけな」

「わかりました」


 ウタコは素直に頷いた。


「じゃあ、空飛ぶ前に鎮めるから、アイツがこっちに来なかったり、逃げないと不味い事にならない限りは動くなよ」

「はい。ご武運を」


 ヒノキは頷くと、両腰に差した二振りのやや短く刀身が真っ直ぐな刀に手をかけ、


「今」


 バケガニが二人に背を向けた瞬間に飛び出した。

 ヒノキは走りながら左手で右腰の刀を引き抜くと、


「せっ!」


 気合いと共にバケガニの甲羅目掛けて投擲した。

 刀は猛烈な勢いで回転しながら飛んで行き、濁った音を立ててバケガニの甲羅の中央に突き刺さった。

 バケガニは振り向きながら苛立たしげにも見える動作で右の鋏を振ったが、


「うおっ……」


 その動作は以外と遅く、ヒノキは寸前で急停止して飛び退いて回避した。

 ヒノキは更に数歩下がり、右手で左腰の刀を引き抜いた。同時左半身に立ち、腰を軽く落として刀身を隠すように下段に構えた。


「とりあえず細い所から狙うか……」


 ヒノキは自分に言い聞かせるように言い、鋭く息を吸って、


「フッ!」


 鋭く吐き出しながら、人間離れした速さで駆け、バケガニの反応を許さずに懐に潜り込み、


「……ああっ!」


 駆け抜けざまに、右側の遊泳脚を切り落とした。

 ヒノキはそのまま転がるようにして一気にバケガニとの距離を離した。


「…………」


 ヒノキが振り向くと、バケガニが寸前までの動作と比べ物にならない速さで迫っていた。


「お、予想してた速さ」


 ヒノキが他人事のように言う中、バケガニは両方の鋏をヒノキを挟み込むように動かしていた。速くなっていた。


「はっ!」


 ヒノキは飛び退いてそれを避けた。鋏がかち合い、大量の火花が散った。

 それを見たヒノキはすぐさまバケガニの眼前に駆け寄り、


「ふっ!」


 右の鋏の関節を狙って刀を振り下ろした。

 刀は関節に吸い込まれるように当たり、そのまま鋏を切り落とした。鋏と腕の両方の断面から、白い液体が吹き出す。

 ヒノキはそれを殆ど見ず、


「うっ……らあっ!」


 切り返した刀で左の鋏も切り落とした。同じように白い液体が吹き出す。


「これだけやれば……!」


 ヒノキはそう言いながら、大きく飛び退いた。着地してから刀を鞘に落とし込み、バケガニに右手を伸ばす。左手で二の腕を掴み、固定する。

 それを見たバケガニが、怒りに任せて突進を始めた。

 ヒノキは慌てる事なく、何度か深呼吸をして、


「アブソープションドキュメント!!」


 血を吐かんばかりに叫んだ。

 右手の掌から蒼白く輝く鎖が四本出現し、バケガニに向かって伸びた。

 二本は鋏が付いていた腕に絡み付き、もう二本は甲羅の中央に刺さったままだったもう一本の刀に絡み付いた。

 鎖の光が徐々に強くなり、それは四本の鎖を通じてバケガニの肉体に流れ込んでいった。

 異変を察知したのか、バケガニが苦しそうに暴れだす。


「大人しく……しろ……っ!!」


 ヒノキはバケガニに引き摺られ、周囲の木々に打ち付けられ、振り回された挙げ句投げ飛ばされ、川の深くなってる場所に落下した。

 それでも光はバケガニの肉体に流れ込み続け、ついにはバケガニの体が蒼白い光の粒子となって崩壊した。光の粒子は、地面に落ちる前にその輝きを失っていった。

 バケガニの体が崩壊した直後、ヒノキが水面に顔を出し、荒い呼吸を繰り返した。


「…………」


 ヒノキは複雑な表情で散っていく光の粒子を少しだけ見つめてから、岸に上がった。


「っ、ぐっ、う……!?」


 直後、突然ヒノキが苦しみだし、体から正六面体の蒼い光が漏れ、肉体の崩壊が始まった。


「兄様――――っ!!」


 ウタコが茂みから飛びだし、ヒノキの側に全速力で走った。


「あっ、ああ……!」


 ヒノキの側まで走ったウタコだったが、どうすればいいのかわからずに立往生した。

 そうしている内に、ヒノキの肉体の崩壊は収まった。


「あ、兄様……!」


 そうなってから、ウタコはやっとヒノキの体を支えた。


「……あ、りが、とう……。もう、大、丈夫だ……」


 ヒノキはバケガニと格闘していた時よりも荒い息を吐きながら、どうにかそれだけ言った。


「……便利だけど、やっぱり危険過ぎるんだよなコレ……」


 ヒノキは息を整えながら言った。


「あの……前から気になっていたのですが、さっきの……『あぶそーぷしょんどきゅめんと』って、どういう意味なんですか?」

「……ん? いや、俺もわからない。長老は別の言葉を使う一族が使っていた言葉ってのは知ってたけど、それでも意味自体は知らなかったし」

「…………あの、やっぱり辞めませんか? そんな得体の知れない言葉の術で異物を鎮めるなんて、しかも使う度に肉体が崩壊していくような術だなんて……。兄様の腕ならどこでも雇ってくれますよ、絶対」


 ウタコが本気で心配といった様子で言った。


「……何回も言うようだけど、それは魅力的だけど駄目だ。ウタコは全部忘れちまったけど、俺達は星降ほしふるの守護者……異物を鎮めるためにその力を使うんだ。それ以外は……今はまだ考えられない」


 ヒノキはゆっくりと首を振った。


「で、でも、このままじゃ兄様の体が消えてしまいます……!」

「わかってる。清命之歌きよめのうたの力があれば一番だけど、それは、さ……」

「…………私が、思い出すかどうか、なんですよね」

「そう。だからさ……無理強いしたくない」


 ヒノキは呻くように言った。

 ウタコは、俯いて拳を握った。

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