第二十一話 闇夜への嚆矢・3

 不規則に繰り返される振動と、一定のリズムで打ち寄せてくる微かな頭痛の波。どちらも重く閉ざされた意識を揺り起こすには今ひとつ弱々しかったが、それらが互いに重なり合う瞬間に生まれる衝撃は、耐え難い疼きとなってユダの根底を揺さぶっていた。次第にユダの意識を支配していた浮遊感は消えてゆき、鮮明な知覚が蘇ってくる。

「う……」

 酷い目覚めであった。

 呻き声をあげることさえ辛い。それでもどうにか重い瞼をこじ開け、ユダは辛々に顔を上げていた。

「ガラハッド……?」

 呼び掛けた相棒の横顔は、頬の触れ合うほどすぐ側にあった。安堵とともに、肌のそこかしこを、慣れ親しんだ温もりと気配が伝わり抜けてゆくのを感じる。

「ユダ、気分はどうだい?」

 相棒の背に負われていることを認識したのは、その時だった。

 失われた記憶に触れようとすると、それを阻むかのごとく現れる強烈な頭痛。魂が削ぎ落とされるかのようなその痛みに倒れ、意識を手放した後は、大抵今のように――二日酔いの朝の方がまだ何倍もましだと思えるほどの――殊更酷い目覚めが待っている。

「ぼーっとするよ……僕、どれくらい気を失ってたのかな」

 いつものように無理くりかぶりを振ると、僅かながらに痛みが散ってゆく気配があった。

「まだほとんど時間はたってない。今回は随分早く目が覚めたね」

 ええと、確かここは天空樹の真下にある村だっけ――

 思考の覚束ない脳みそを、どうにか奮い起こそうとする。相棒の告げた通り、ユダを取り囲む景色は、倒れる前とさほど変わってはいない。どこまでも続く廃墟の群れの中を、ガラハッドは無秩序に走り回っているようだった。

「今、どんな状況なの? ……まさか」

「ちょっとまずいことになってね」

 ユダの発言を遮るように、ガラハッドが口を開いていた。その口調は珍しく落ち着きを欠いており、危殆を読み取ったユダは、喉元まで出かかった疑問をひとまず全て飲み干すことにして、ぐるりと周囲を一望していた。

 相棒を焦燥に駆り立てている要因はすぐさま見つかった。と言うより、目を覚ましてからどうしてすぐこの異変に気が付かなかったのかと自らが疑わしくなった。

 ユダを背負って走るガラハッドは、見慣れない巨大な怪物に追い立てられていたのだ――!

「何あれ! もしかして異形なの?」

 気配そのものは、紛れもなく異形だ。コアの脈動をしかと感じ取れていることから考えても、それは間違いない。しかしながら、〝異形〟などという仰々しい言葉からは大きくかけ離れたその姿形のおかげで、ユダはすんなりとその事実を受け入れることが出来なかったのである。

 翡翠のように透き通る躯幹と、それを包むように寄り添うふくよかな葉。滴るほどの瑞々しさをたたえた緑の先端には、鮮やかな青が鈴なりに咲き乱れている。

 紛うことなくそれは、一輪の美しい花である。長くしだれた葉を尺取り虫のようにくねらせて歩いていたりしなければ――そして何より、あれほどの巨大化を遂げてさえいなければ。今頃はきっと、枯れ果てた森の中によくぞ残っていてくれたと、時間も忘れて見とれていたことだろう。

 あれ……?

 そこまでを思ったところでユダは、自らの考察にざらついた不穏を抱く。

 なぜ僕はあれが、元は小さな可愛らしい花だということを知っているのだろう――

「ユダ、ちゃんと聞いてる?」

 刹那、耳に飛び込んできた相棒の声で、突然仮睡から揺り起こされたような心地になった。

「ご、ごめん。まだ頭がぼんやりしてるみたいで」

 考え込むあまり、あれが自らを追い立てる〝怪物〟であったことを忘れかけていたようだ。しかし、あの花のことを思った途端に頭痛が遠のくような気配がしたのは――

「どこか君を休ませられそうな場所はないかって探してたら、あれに出くわしたんだ。案外とすばしっこい奴で、振り切るのに手こずってる」

 再びユダの思索はガラハッドの一声に阻まれ散り散りに吹き飛んでいた。よくよく観察してみると、妖花は鮮やかな花冠の中心から、真っ赤な触手をしゅるしゅると出し入れしている。まるで蛇の舌だ――妖花の佇まいが一見美しいだけに、その不可解な形態フォルムは際立って醜悪に感じられる。強烈な悪寒が走り抜けるとともに、ユダの心は瞬く間に現実へと引き戻されていた。

「そんな……探知した時は気が付かなかったのに」

「たぶん、さっきまでは普通の植物に擬態していたんだ。大きさもあんなじゃなかったから、僕も側に寄るまでは気が付かなかった」

「普通の植物……? それって〝勿忘草わすれなぐさ〟のこと?」

 不意にそう切り返してすぐ、あのざらついた気配が再びユダの意識を包んでいた。自ら発した言葉の意味を飲み込めなかったのだ。

〝ワスレナグサ〟って何……?

 それは紛れもなく、自らの口を突いて出た言葉だ。にも関わらず、見知らぬ誰かの意志によって言わされたかのような、奇妙な不一致感をおぼえたのである。

 ところが、困惑するユダをちらと一度は目に留めるも、ガラハッドは何ひとつ声を掛けてこない。

 どうして、なにも言わないの。

 心と体とがふわふわと離れていくような感覚に怯えたユダは、相棒の肩を掴む手に力を込め、縋るように彼の耳元に語り掛けていた。

「ねえ、ガラハッド。僕、あの花をどこかで見たことがある気がするんだ……何でだろう」

「悪いけど、話は後だ。今は他ごとを話す余裕なんてない」

「そ、そうだね……ごめん」

 相棒の声音が、急激に熱を手放した気がしたのは思い過ごしだろうか。胸の真ん中がざわざわと騒ぎ出すのを感じたが、確かに今は非常事態だ。ひとまずは相棒の促した通り、目の前の脅威を取り除くことに心血をそそぐべきなのは間違いない。

 心を新たに眼差しを固くしたとき、不意にガラハッドがはたと疾駆を止めるのが分かった。恐る恐るその横顔を伺うと、相棒は先ほどにも増して焦りを露わに四方を見回している。

 何事かと問ういとまはなかった。突如、素早く背後の追跡者を振り返ったガラハッドが、声高に叫びをあげたのである。

「鼻と口を塞いで、ユダ! あの〝胞子〟を吸い込んじゃ駄目だ……!」

 反射的に体が動き、ユダは言われるがまま両手で口元を覆い隠していた。

 異変の本質が見えたのはその後だ。いつの間にか二人の周囲には、金色の淡い光を放つ奇妙な粉塵が飛び交っている。件の妖花が不気味な触手を震わせるたび、そこから蛍火のような光が飛び出し、粉塵となって弾け飛んでいた。

「何なの、これ……」

 甘い匂いが立ち込めている。無論それは清々しい自然の香気などではなく、発酵に発酵を重ねた濁り酒を思わせる、毒々しいくらいに甘ったるい匂いだ。

 僅かに嗅ぎつけるだけで、くらくらと意識が揺さぶられる。傍らの相棒も、辛抱堪らないとばかりに苦渋を浮かべていた。

「ガラハッド、君は大丈夫なの? 僕を抱えたままだと、まともに息も出来ないんじゃ……?」

 滝の汗を滴らせる相棒の姿を目の当たりにして、ユダはようやっとその事実に気が付く。

 背負うことをやめさせようと口を開きかけた瞬間、ユダの体は突如として後方へ投げ出されていた。唐突に相棒がその場で膝を折ってしまったのだ。

「ガラハッド! 大丈夫?」

 転がった拍子にぶつけたあちこちが鈍く痛んだが、そんなことはどうでも良かった。

 蒼白の顔面を苦渋に染め、鍔付き帽子ごと握り潰さんばかりに頭を抱えたガラハッドの瞳は、虚ろに濁っている。

「頭が割れそうだ……このままじゃ、意識が……」

 まさか、これって――!

 弱りきった相棒の姿を目の当たりにしたユダは、すぐさま直感していた。不思議なほど重なる気がしたのだ――失われた記憶に触れようとしたときの自分の姿と。

 見る間に衰耗してゆくガラハッドの傍らで、彼が弱れば弱るほど、冴え冴えと磨かれていく自分の意識にも強烈な違和感をおぼえた。これではまるで相棒が、ユダの頭痛を残らず吸い取ってしまったかのようではないか――。

「くそ……くそっ! 寝るな……寝るなっ!」

 もはや身を起こすことも儘ならず、地にひれ伏す寸前となったガラハッドは、悔しげに歯を食いしばり、何度も拳を地面に打ち付けている。

 狂ったように睡魔の襲来を拒む彼の真意とは何なのか――否、朦朧とする彼にはもはや、正常な判断力など残ってはいないのかもしれないが。

 今は僕が、彼を守らなくちゃ――!

 相棒の革手袋に滲んだ染みが、赤い雫となって零れ落ちる様を目の当たりにした瞬間、かつてない使命感に駆られたユダは、飛びつく勢いでその拳を掴み上げていた。

「ガラハッド、落ち着いて! しっかりするんだ!」

 弾かれたようにこちらを振り返ったガラハッドは、掴まれた手を振りほどくでもなくゆっくりとユダの頬に滑らせ、泣き出しそうに歪んだ表情でユダを見つめていた。

「どうしよう、ユダ――僕は君を、忘れたくない。だから僕は、眠っちゃいけないのに」

「……どういうこと?」

 その時ユダは、普段の彼とはまるで違う、稚拙で感情的な――幼い子供と相対しているような気持ちになった。王都の酒場で酔い潰れてしまった時のことなど比ではない。

 生暖かい液体がべたべたと頬に吸い付くのを感じても、不快など少しも感じなかった。

 胡乱げに揺れる紫の瞳には、ユダの姿が映っている。紛れもなくそれは自らの姿であるはずだが、それがこことは違う、果てしなく遠い世界の生き物のように見えるのは、何故なのだろうか。

「どうしたの? 君は一体、何を――」

 血濡れた相棒の手を取り、包み込んでやろうとした――その瞬間のことだ。

 風を切るような鋭い音が聞こえ、ユダははっと両目を見開いていた。

 粉塵のばら撒きを終えた妖花が、とうとう動いたのである。長く伸ばした触手を花弁の中心へ器用に仕舞い込んだ妖花は、ふくよかな翠葉を鞭のように大きくしならせ、目にも留まらぬ速さでそれをユダたちに叩き付けようと迫っていた――!


 恐怖に硬直しきったユダの体を突き動かしたのは、無二の相棒を守りたいという一心であったのだろう。眼前のガラハッドを抱き寄せようと手を伸ばした瞬間、激しい衝撃がユダの全身を襲っていた。

「うっ――」

 もんどり打って後方へ転がり、砂埃に咽びながらもユダは懸命に身を起こす。

 だが身を起こしてすぐ、ユダは砂埃の切れ間から覗いた光景に目を疑った。傍らに相棒の姿がない――妖花の一撃をかわそうと、庇い寄せたはずであったのに。

 助けられなかった――!

 刹那、相棒の姿を敵の傍らに認めたユダの脳裏に、絶望の二文字が過ぎっていた。ぐらつく意識を奮い立たせた相棒は、自分の身を守るよりも先に、ユダを突き飛ばしていたのだ。既に彼との距離は、手を伸ばしたところで到底届かないほど遠く離れている。

「ユダ、逃げろ! こいつは僕が引き受ける!」

 いかにも精一杯、といった調子で声を荒げた相棒の体は、妖花の鞭に絡め取られ、遥か頭上にふわふわと浮いていた。

 今の彼のどこに、この絶望的状況を打開する力が残されているというのか。蒼ざめた顔でもがきながら、相棒は尚も叫び続けている。

「何があってもこいつに心を許しちゃいけない! こいつは――んだ!」

 記憶を、食う――?

 その言い回しを聞いた途端に、再びあのざらつきがユダの脳裏に渦巻いていた。

 彼は今、渾身の力を振り絞って自分に助言を説いている。

 なのに、頭のどこかで何者かが「そんなものは聞くに値しない」と拒絶を促しているような気がしたのだ。

 あの妖花の名を口にした時の何倍も強い、魂と肉体とが音を立てて引き裂かれてゆくような感覚に苛まれている。頭鳴りが存在を色濃くしてゆくたびに、ユダの意識は不思議に鮮明なまま、どこか遠い遠いところへ流されていくような気になった。

 僕らは一体、何をしていたんだっけ――?

 彼はどうして、こんな目に遭っているのだろう――?

 窮地に立たされたユダの胸には、まるで他人事を見ているかのような、ひどく現実味のない感情が湧き起こっていた。

 大きな絶望に雁字搦めにされたユダの足は、ただの一歩も動かなくなっている。もはやユダは抜け殻のように呆然と、目の前の光景を見つめることしか出来なくなっていた。

「心配しないで、必ず戻るよ。だから――」

 そんなユダの心を、これ以上波立たせまいとしているのだろうか。ガラハッドは既に、いつもの冷静さを取り戻しているように見えた。

 先ほどまでの取り乱し様が嘘のように、彼は安らかな笑みすら浮かべ、優しげにユダを見下ろしている。

「だからお願いだ。僕を忘れないで、ユダ」

 けれども、弱々しく伸ばされた相棒の手は途方もなく遠い。

 僕がどうして、君のことを忘れてしまうって言うんだい?

 そんな当たり前の疑問を思うたび、胸の奥が貫かれるように鋭く痛んだ。頬を伝う熱の感覚が、ユダの眼前に残酷な現実を呼び戻してくる。


 ――僕はもう、あの手を取ることが出来ないかもしれない。

 そんな不穏が心の奥を過ぎった瞬間、ユダは声を限りに叫びをあげていた。

「ガラハッド!」

 青い縛鎖に抱かれたガラハッドは、まるで水面みなもの奥へ沈んでゆくかのように、するすると土中に呑み込まれてゆく。

「あ……」

 気が付く頃には、あの巨大な妖花も忽然と姿を消していた。掠れたユダの声すらはっきりと聞き取れるほど、無人と化した集落はしんと静まり返っている。

「嘘だ……嘘だ! ガラハッド! ガラハッド!」

 ようやっとそこで全身の硬直が解けたユダは、倒れ込む勢いでガラハッドの吸いこまれた地面へ飛び付くと、懸命に土を掻き分けていた。

 しかしそこには、妖花の姿はおろか、彼の靴跡さえも残ってはいない。まるで先の顛末が全て幻であったかのように。

「嘘だ……」

 唐突に自立のための支えを残らず失ったかのような、耐えがたい孤独感に襲われた。

 途端にユダを取り巻くすべてのものが沈黙を破り、大挙して襲い掛かってくるような恐怖感をおぼえた。亡霊のような樹々が、底知れぬ闇が。脇を行き過ぎる風すらも、隙あらばユダの命を奪おうと、爛々と目を光らせている――そんな途方もない恐怖の妄想がユダの心を支配していた。

 ――闇夜の森に、僕は独りだ。

 血塗れた指先を見つめたユダは、嗚咽を呑み込み、自らを抱きすくめた。

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