2-6 忘却

 街の中央にそびえたつ塔の内部は、昼間でも煌々と明かりが付いている。白濁した蛍光灯は真っ白な壁や床をさらに白く発光させ、輪郭をぼかす。石膏像にも似た柔らかい線は、しかしその実、そんなに穏やかなものではない。冷たいエッジばかりがきいている。

 家の中を思わせる家具や愛らしい小物など無駄を徹底的に省いたその場に、エイプリルはそっぽを向き、マリアは今にも泣きそうになりながら並んでいた。目の前にはマザーがいるが、並ぶ二人と彼女の様子は、向かい合うという穏やかさよりも、対峙するという風であった。学園に通う千春なら、この様子を廊下に立たされた悪生徒と思うであろう。

 二人の考えることなど手に取るより簡単だと言わんばかりに、マザーは眼鏡を押し上げた。表情はまったくなかったが、たるんだ頬はわずかに苦味を含んで見えたのは、エイプリルの気のせいだろうか。動くたびに舌打ちしてるように肉が波打った。

「マリア。夜、勝手に出て行ったわね。どこへ行ったの」

 抑揚はないはずだが、一言一言はっきりと聞こえる発音はマリアを責める。奥底で光る青い双眸はエイプリルとマリアを威圧し、二人は俯いた。

「あなたはまだこの塔の管轄にあるんだから、勝手に出てはいけない」

「ご、ごめんなさい。もっと、外を見たくて……」

「夜中に? 昼間、散々遊んでいるでしょう。困った子ね」

 微塵もそう思っていない淡々とした口調は、マリアをさらに怯えさせた。だが、マリアに対する咎はそこであっさり終わった。

次はエイプリルだ。たるんだ肉がエイプリルを見る。ほの暗い青い瞳はじっと、エイプリルを見据える。表情はないはずだが、マザーの眼力は恐ろしく強い。

「エイプリル。あなたも夜、いなかったわね」

 エイプリルは嫌々、マザーを横目に入れた。エイプリルも負けずと睨んだが、勝てるはずはない。

「ストーカーかよ。だったら、わかってるんだろ。ワタシの居場所なんてお見通し。どこで何をやろうとも、あんたの耳に入る。聞くだけ無駄じゃないか」

「口調を正しなさい」

 気だるげに「はい」とだけ返すが、マザーはまだエイプリルを睨んでいた。威圧から非難へ色を変える。マザーはため息混じりに片手で額を押さえた。大げさな仕草だった。

「エイプリル。アザレの元を訪れるのは構わない。何を話してもいい。肉体関係を結ぶのも許すわ。合意であろうと、無理やりであろうと。それによって千春が目覚めることも傷つくこともないのなら、あなたは最高ね」

 皮肉交じりに語尾を強める。エイプリルは「千春は目覚めていない」と呟く。どんな行動であれ、どんなに不愉快であれ、アザレが恐ろしくも腹立たしく乱暴で目玉を愛する狂いであると感じ、体感するのはエイプリルのものだ。夢を見ている千春ではない。主人格の千春ではない。イマジナリーフレンドの自分こそが、今を生きている。

 千春が知ったら羨むだろう。千春とアザレは顔見知りで、それ以上に、千春はアザレが好きだった。近所に住むお兄さんは優しく、人懐っこく、しかし――確実に目玉欲しさに――近づき、単純で何も知らない千春はアザレに惹かれた。たったそれだけの想いとそれ以上の狂気。砕かれ、踏みにじられ、エイプリルは誕生を手に入れ、アザレはこの地で思う存分コレクションを眺める権利を手に入れた。

 千春は何も知らない。未だに近所のお兄さんに憧れを抱いている。身体はすでに彼のものとなっているのも知らない。最高の皮肉にして、最悪のプレゼントだ。顔は歪み、笑うしかなかった。

「はは、そうさ、ワタシはいつだって最高だよ、マザー。ワタシはこうしているんだからな!」

「馬鹿な事言わないで。数値が不安定よ。あなたは体は女でも、人格としてのカテゴリは男。少年なのだから」

「ワタシはワタシさ。カテゴリなんて、性別なんて関係ない。そもそも、ワタシに男女の感覚なんてない」

「エイプリル」


 ようやく感情を伴った低い声に、さすがのエイプリルも出過ぎたと首をひっこめた。これ以上余分な事を言ってしまえばエイプリルは終わる。人格は殺され、千春は表へ出る。もしくはまた別の人格が与えられ、千春は守られるだろう。どちらにしても、エイプリルは消される。

 まだ死にたくいない。消えるという感覚が恐ろしくて、元々存在してなく、誕生すら知らないエイプリルにとって消失は恐怖すぎた。

 口の中が渇いている。エイプリルは辛うじて唾を飲み込むと、くちびるだけで笑った。

「二人共、今日は塔から出てはだめ。わかったわね」

 有無を言わさぬ声に二人は頷いた。今日は風を感じる事ができない、それだけでエイプリルの心は沈んだ。


 マザーから解放された二人はとぼとぼと、廊下を歩いていた。ロビーとは違い、個室の並ぶこの階――エレベーターの止まらないとある階の廊下は特殊な絨毯が敷いてある。起毛の短いオフホワイトの絨毯なのだが、足音が一切しない。絨毯特有のさくさくとした感触はあるものの、その音すらしない。歩く度に生気すら吸い取られてしまいそうな感覚に陥り、それもあってか、エイプリルはここが嫌いだった。生まれ故郷であり、生まれて数年は暮らしたが、いい思い出は特に見当たらない。悪い思い出も特にないのだが。

「お姉ちゃん」

 さほど長くない廊下なのだが、随分と沈黙し、随分と歩いていたように思える。エイプリルは顔を横向け、立ち止まってしまった妹マリアを覗きこんだ。マリアはすっかり萎れてしまい、愛らしい瞳はまつ毛に閉ざされている。くちびるはとがるばかりで、笑顔はなかった。

「どうした?」

「私、変なの。お姉ちゃんに聞きたい事沢山あったのに、忘れちゃう」

「忘れる?」

「そう。忘れる……疑問が全部幸せな気持ちになっちゃうの。今だってそう。お姉ちゃん……人格って何? お姉ちゃんって何……? そ、それに、えっと、あとは、アザレさんと……その」

 マリアは僅かに顔を赤らめたが、エイプリルはあっけらかんとしていた。すでに日常茶飯事なのだ。

「アザレは少年少女趣味で、相手をいたぶって無理やりねじ伏せるのが大好きな狂人さ。ワタシは単なるあいつの欲望のはけ口。ワタシの目を見ているのが好きなんだそうだ」

「目? よくわかんないけど……お姉ちゃんはアザレさんが好きなの?」

「まさか。死ぬほど嫌いだ」

 だけど、千春は好きだった。くたびれていて人懐っこく明るいアザレのことを。そしてアザレも千春の目が好きだった。当然のように、両親の目も好きだった。アザレはたまらなく偏執的な人間であった――惹かれあっていたはずの両者にはほんの僅かな歪みがあり、すれ違いがあり――本当に数ミリしか違わないこの交差が、悲劇を生む。そして、エイプリルを。

「大嫌いだ」

 抵抗する両親の目を生きたまま抉り、そのまま殺した。怯える千春の目の前で。そんな千春を、ショック状態の千春をアザレは襲った。アザレは殺人狂ではないと言っている。だが、捕まえた獲物をいたぶることも忘れない。震える瞳孔が好きなんだ、と言っていた。殺人狂の方が遥かにましだ。二人は狂ったダンスを踊るしかなかった。死なない限り。

 そして、そして――こんなにも美味しく調理された人材を、マザーが見逃すはずがなかった。

 千春にとってアザレは起爆剤。それを抑え込むのはエイプリル。

 マザーはこうして試しているのだ。エイプリルがどこまで辛抱強くいれるか。千春に永遠の幸せを与え続け、なおかつ自分も幸せでいることができるか。きっとこうした日々が、生きているという実感を与え、エイプリルを幸せにしている。

「その他質問は?」

「あ、え?」

 マリアは驚いたように目を見開くと、力なく、だが愛らしく微笑んだ。

「ごめん、お姉ちゃん。なんだっけ?」

 マザーは迂闊な奴だ、とエイプリルは思っていた。何も知らないマリアの前で堂々と話すので、そんな事まで話していいのかと、少しだったが驚いたのだ。だが結果はこう。マリアは何も知らない。記憶するということが欠落していた。ぽかんと空いた空間には、代わりに幸せが詰まっている。

 まるでこの街そのものだ。白く、白く、塗り替えられる。疑問は全てペンキの向こう。白く消える。

「お姉ちゃん。一緒にお風呂入ろうよ。おそろいのパジャマ着て、同じベッドで……夜はずっと話そうね!」

 元の快活な笑顔が戻り、エイプリルも笑顔でそれに答えた。

 マリアも欠落している。だからこそ幸せだ。

 だが――誰もが思わない「疑問」を持っている。エイプリルはそれが怖くて仕方がなかった。厚く塗り固められたペンキは、いつしか剥がれる、そんな運命を孕んでいるに違いないのだから。

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