2-5 闇


 夜であっても風は白く見えた。生ぬるい風力タービンの風はエイプリルの頬をかすめる。

 エイプリルは星の数を数えながら壁に寄りかかった。隣には窓があり、レースのカーテンが柔らかくはためいている。それは、この家の主人には到底似合わない代物であるが、もちろん、彼の趣味で取りつけられたのではない。家の付属品としてカーテンはあった。エイプリルはそれを知っているので何も言わない。代わりに、違う台詞を口にした。

「マリアが、いないんだ」

 カーテンの奥は暗い。だが闇夜より暗い影がもそりと動き、窓枠に寄りかかった。

「お前、俺の事嫌いなんだろ?」

 くつくつと笑いながら出てきたのは、アザレだ。いつものくたびれた格好のままということは、さしずめ、コレクションを眺めては浸っていたのだろうとエイプリルは予測しているし、その通りだろうと確信している。その中に千春の両親のものもあるだろう。嫌悪を抱きながらも真っ先にここにきたのは、マリアがすでに餌食にされていると考えたからだ。マリアの瞳はハチミツみたいにおいしそうで、彼の好み通りの色をしている。

「……寒い」

 夜になると不意に気温というものを思い出す。昼間には感じられない、寒さというひもじい想いがこみ上がり、エイプリルは両肩をさすった。温まるはずがない。体も心も凍ったままだ。朝にならない限り。白い色を思い出さない限り。幸せの色を思い出さない限り。

「マリアは塔にいるんだろ?」

「あいつ、勝手に出てったみたいなんだ」

「それを探しにわざわざ出てきたのか。だからと言ってこんな夜更けに来たら危ないだろに、無防備なお嬢さん」

「ワタシに言ってるのか? 気持ち悪い言い方するなよ、アザレ。長居したくないんだ。くだらないこと言わないで、マリアについて教えろよ」

「つれない奴だなあ」

 そう言って頬杖をすると、心の底から楽しそうにくつくつと笑った。通常の人となんらかわりない、人懐っこい笑みはアザレが犯罪者だということを一瞬だけ忘れさせてしまう。だがエイプリルは警戒を解かない。気を緩めれば、自分という意志がなければ、千春を守れない。この男から受けたひどい仕打ちを思い出させないように、優しく夢を見せてあげなければならない。役目を全うできない自分は消えてしまう。エイプリルは首を振る。

 そんなエイプリルを見透かすように、アザレの赤紫色を帯びた瞳がぬらりと輝いた。

「知らないし、ここにはいない」

「わかった。じゃあ、どこにいるんだろう。知らないか?」

 またしてもアザレは笑った。肩をゆすり、目を細め、誰もが思わず信頼してしまうような柔らかい顔をした。だからこそエイプリルはアザレを見なかった。千春が崩壊してしまう、信頼を抱いてしまう。

「お前、俺の事が嫌いなのにそれを聞くか? それよりも別の事を聞きたいんじゃないか? 居場所よりも別の事を」

 エイプリルは自分の足を見た。自分、とはいえ、エイプリル自身は実体をもたない。思考する意識に過ぎないのを、千春という少女の心を守るために体を与えられた。初めて「大地」を感じた時、自分という存在が生まれたという嬉しさ、幸せはとても口で言い表せない。

 形のない、浮遊していた意識がこうして大地にくっつくと、すっかり離れられなくなってしまった。今を、ここで、生きている。想う事の嬉しさ。

 この風のようにただ浮かぶだけの存在に戻るのは、すでに恐ろしいと感じている。

この身体と心を手放したくない。そのためにはマリアを探さなければ。

「来たくて来たわけじゃないし、何か言いたいわけでもない。ただ……残念すぎることに、あんたしか話せないんだよ。ワタシたちの事を知ってる、あんたじゃないと」

 アザレは何も言わない。エイプリルはさらにアザレを見ず、寄りかかったまま遠くをぼんやり眺めた。

「マリアがいないんだ。多分この街をふらふらしてるんだと思う」

「何回も聞いた。別にいいじゃないか。マザーに怒られるだけだろうよ。エイプリルに被害は及ばない、はずなんだろ? 俺に何を言ってほしい?」

「ワタシたちのことを、この街の幸せを想うあんたならわかるだろ? マリアが大人しくしていない、それだけで異常なのがわかるはずじゃないか。わかった顔して何も言わない。ワタシにしゃべらせる気だ。嫌いだ。死ぬほど嫌いだ。アザレなんて捕まればいいんだ」

「酷いなあ」

 アザレは柔らかい調子を崩さなかったが、目の端が歪んだ。複雑で読解不能の笑顔だが、注ぐ眼差しは優しいことは肌で感じる。疲れがじわじわとエイプリルの手足を這う。話をするのはそろそろ限界だ。なのに口は続けてしまう。

「……変なんだ」

「何がだ?」

「幸せを、疑問に思ってる」

 再び、風が髪をさらった。エイプリルは耳にかけると、視線をゆっくりと地面に落とした。デコボコの白いレンガ道は今は暗い。目地はさらに暗く、湖に辛うじて浮かぶ石にしがみついているような錯覚を覚えた。

 エイプリルは急いで首を振ると、ようやくアザレを見た。彼は案の定、にこにこと笑って頬杖をつき、エイプリルを眺めていた。


「アザレ。あんた、幸せだろ? 好きなだけ目玉を抉って飾ることができるんだから」

「そりゃもう、幸せさ。お前の目玉もいただけるのなら、さらに幸せ」

 アザレは手を伸ばすと、エイプリルの顎を無理矢理上げた。エイプリルは拒絶することなく、されるままにアザレの瞳を見た。赤くも紫にも見える、ルビーのような瞳はアザレの中で唯一きれいだと言えるパーツだった。

「自分の目玉でも抉ってろよ」

「それはほめ言葉かな?」

「……ワタシの目はすでにあるだろ。両親と同じ目なんだからな」

「残念ながら、親と子とはいえ色が微妙に違う。年齢によっても違うしなぁ。それを世代別に、グラデーションに並べるとたまらなくきれいだよ?」

「気色悪い。欲しいならもってけよ。殺すなら殺せよ。ワタシは最初からいなかった存在なんだから」

「自暴自棄みたいなこと言うなって。大丈夫、殺しはしないさ。別に殺したくてやってるわけじゃないんだ。目玉を抉るショックで、死んじまうだけさ。それが返って、残虐な方向に行く。エイプリル。そんなに幸せが怖いか?」

 アザレはようやく手を離し、エイプリルも引きちぎるように身を離した。アザレは笑みを変えぬまま、じっとエイプリルを見つめた。

「怖いもんか」

「昔な」

 アザレは唐突にエイプリルの言葉を遮った。笑顔は崩れていないが、片頬が引きつっている。薄いくちびるが引き伸ばされ、化け物じみて見える。エイプリルはここが寒いことを思い出し、それでも目をそらさず、両肩を抱きしめた。

「ガキの目玉を抉る時だったかな。そのガキがさ、言ったんだ。おじさんは、生まれてきてよかったと思う? ってさ。子供にしては怖いジョークだろ?」

 エイプリルは思わず顔を歪めた。子供にまで手を出した部分にか、それともその質問にか。エイプリル自身もよくわからず、ただ嫌悪を覚えた。アザレは続ける。

「俺は答えた。生まれてきちまったもんはしょうがないだろ? って。それを後悔するかどうかなんて、本人にはわからない。お前だって、そうだろ?」

「……生まれてこれたことは幸せだって、マリアを見てると余計に思う。だって……本来……本当のワタシの妹は、イマジナリーフレンドは……暗い記憶を持ったまま、マリアの中で眠ってるんだ。生まれてるのに、死んでるみたい。つらい記憶だけ押し付けられて、自我もないまま、マリアの中に生きているんだ」

「それを幸せかどうかは本人の問題でお前の問題じゃないだろ?」

 そうだけど、という言葉は消えた。エイプリルは口を噤むと、何も言えなくなってしまった。言いたい言葉は沢山ある。だがどれも形にはなっていない。曖昧な白い靄となって、いつまでもエイプリルを覆う。

「部屋に入れって。寒いんだろ」

 エイプリルは顔を上げ、横目でアザレを見た。くたびれた中年のような線の細い笑みは暗闇でもよく見えた。エイプリルも思わず片頬で笑うと、肩をすくめた。

「優しいおじさん、ありがとう。でも、マリアはここにいないんだ。それで十分。もう行くよ。それに、あんたはヴェルミヨンがいるだろ? 一緒にいたら、怒られる」

 今度はアザレが肩をすくめる番だ。またも片頬で笑うと、目を細めた。

「俺は確かにヴェルミヨンが好きだが、好きなのは目玉と、美しさのために目を潰す信念と気狂いさ。ああ、でもそう感じるのも愛情かね」

「本人に言えよ」

「あいつも知ってるさ。どっちかって言えば、俺たちは利害関係に近いのかもな……。ある意味、恋愛に近いかもしれない。いや、違うか? だけどお前は違う。目も、性格も、姿も。俺はヴェルミヨンよりお前の方が好きだよ。だから、来いって。不安なんて持ってたら、マザーに殺されるぞ」

 顎をさすりながら見つめてくる目は狩人に似ていた。エイプリルはくちびるだけで笑うと、窓枠に手をかけた。

「あんたがワタシの不安を解消してくれるって? 思い上がりもいい加減にしろよ。あんたにワタシの何がわかる」

「事情くらいならわかってるつもり」

「わかっててそんな事言うか? とんだ変態だ。ワタシは千春を守る、少年型の人格なんだぜ? 少年少女趣味もいい加減にしないと、それこそマザーに殺される」

「それは困る。まだコレクションが集まってない。死ぬのはその後にしていただきたいね」

「大体、子供に興味ないって言ったじゃないか」

「そうだったか? 記憶にないな」

 大きな手のひらがエイプリルの小さな頭をすっぽり包む。そのまま固定されると、視線と視線が痛いほどぶつかった。アザレの瞳はますます鮮やかに色づき、輝き、エイプリルの中へ中へと入り込む。

「いいじゃねえか。お前の目を一晩中眺めさせろよ」

「嫌だ。マリアを探したい。ワタシは消えたくないんだ」

「じゃあ、抉らせろ」

「ワタシがうんと死にたくなったら」

 台詞は最後まで言えなかった。悲しいまでに強い力がエイプリルに降り注ぐ。悲鳴も恐怖も愛情もなく、無感動の心だけが宙を舞い、暗闇に落ちた。アザレの腕の中でエイプリルは抵抗も忘れ、悲しく、悲しく、妹のことを考えた。マリアは幸せなのだろうか。いつになったら朝が来るのだろうか。

 白い街はまだ目覚めない。闇夜にそっと、隠れている。

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