2-3 出口

風に身をまかせながら、マリアは遠くの空を見つめる。羽衣のような雲がたなびき、やがてどこかへ消える。しばらくして新しい雲が渦巻き、やはり消えた。群青の空は何も言わず、ただそれを抱いて眺めている。

無意識が途切れると、風力タービンの音がした。ふおん、ふおんと規則正しく回転する白い翼はカモメに似ている。白い街に生き物はいない。海を覗いても、エメラルドのような水面が広がるばかりで、波紋すら見えない。街も同じだ。呼吸する音はない。白さばかり浮き立つ街並みは、一人でいるにはあまりにも退屈だった。

「つまんない」

マリアは頬を膨らますと、塀から飛び降りた。

何にも興味がわかない。風力タービンも海も空も街も、ただただ透明だ。何の感情も浮かばない。

そもそも、白は好きな色ではない。

赤、青、緑、黄色、ピンク……様々な色彩が様々な音を立てて、クラッカーのようにある日突然訪れたら楽しいのに、と夢想に胸を踊らせる。しかしそれもすぐ飽きてしまう。

マザーに許しをもらい、姉がいなくても外に出れるようになったのは昨日の事。最初は喜んで外を駆けまわったマリアだったが、あまりの白さに呆然とし、幸せな人々の顔がどうも好きになれず、その日のうちに飽きてしまったのだ。だからといって塔に篭ってる気にはなれず、こうしてふらりふらりと歩くことにした。それにしても暇である。どうやっても暇である。

さて、誰か遊んでくれないだろうかと数人の顔を浮かべてみる。

自他共に猫だというシロは愛らしい少女だが、なにせ気まぐれだししゃべることができないので、会話して暇をつぶすことはできない。クロは探偵という興味深い職業だが、ほとんど営業していない。アザレはどこに住んでいるかわからず、エイプリルはシロと同じく気まぐれなので中々捕まらない。塔の外で暮らす姉はあまり家に帰らないらしく(どこにいるかわからないが)かといって塔には検診以外訪れない。

ぽつりと一人、空を仰ぎ、視線を落とす。道は白いレンガが敷き詰めてある。他に見える色はというと目地の影しかなく、周りはというと、人の姿はない。風だけが動き、マリアの髪を攫う。

日常とはこういうものだろうか。白いばかりで、何も見えない。気持ちばかりが大きく膨らみ、動き出す。余ったパズルのように、マリアの心は謎が浮かびあがる。

――そもそも、どうしてここにいるのか、わからない。

ある日の事。

ぽんと突然浮かんだ雲のように、マリアはある日ここに立っていた。ここにいる、ただそれだけの事を認識するのにどれほど時間をかけたか。

初めて来た場所、否、それよりも遥か理解の外、自分は今産まれた。そして急速に成長して、物や事を理解するにたどり着いた。

マリアがマリアとして自覚し、ここが以前から住んでいる街なのだと認識し、それが普通となった。誰かにそうやって認識を詰め込まれたような違和感があった。

本当にこの街で誕生したのだろうか。どのように産まれたのだろう。塔で育ってきたというこの十六年という記憶はどこからやってきた?

しかし次の瞬間、マリアは笑った。

通常の人間であればそれを不愉快あるいは喪失感で恐怖に襲われるかもしれないが、マリアにはそれがまったく浮かばない。

こうして時折、不安がふわりと浮かぶのに、数分と立たない間に漠然とした暖かさばかりが混み上がり、不思議と感情が消えるのだ。

わからないことばかりだが、それもやがては風に消える。後ろに振り返った瞬間には全てが消えていた。白い街の波は苦しみを全て攫ってくれる。

つまり、考えたところで暇であることは変わらない。

どこまでも白く続く道。終わりのない壁。プラスチックのようにつるりとした表面を撫でながらマリアは走った。続く、続く、と胸中で呪文を唱えながら。

「あれ?」

マリアは立ち止まった。どこまでも伸びる影のように、遠くへ続く道がある。目を凝らせば、あれは扉だとわかる。

「外への扉かな。初めて見た」

マリアは思わず口に出すと、驚きながらも扉を見つめた。全てが白く囲まれた中でそこは塀の向こうのどこかへ繋ぐ道。この街の出口なのかもしれない。

白い街の中で唯一、鉄の色をした暗い色。

暇で埋め尽くされたマリアの心が踊り始める。白という普遍が消えるかもしれない扉だ!

マリアは突然嬉しくなり、恐る恐るだが一歩ずつ進んだ。そろり、そろり、進むたびにワクワクする。

この道はウエハースで出来ている! だからそっと!

そんな想像をしながら、そろり、そーっと。楽しさにスリルを加えてどんどん期待を募らせた。しかも、扉は開いていた。外の世界が見えるのだ。どんな景色が見えるのだろう。白以外の色はあるのだろうか。

「マリア!」

あと一歩で手が届く。

その期待は自分の名前とともに霧散した。

マリアは反射的に体を止めると、ゆっくり振り返った。

「お姉ちゃん……」

「マリア、何やってるんだよ。そっちは行っちゃだめだ」

「どうして? ここ、外に通じてるんでしょ? 私、外に行きたい。だってここは暇。とぉっても暇で疲れちゃった」

「マリア」

エイプリルは語気を強めながらも、どこか諭す風にマリアを呼んだ。少年のようにも見えるエイプリルの顔は、今は違う。真剣というよりも、泣きそうな顔をしていた。目のふちは赤く、マリアだけを必死に映しこんでいる。恐怖に慄いているようにも見えた。

あまりに違う姉の顔に、マリアは戸惑った。見たこともない――だが姉と呼ぶ存在はいつからいたのか、この人は誰だろう――一瞬にして様々な感情が入り混じったが、エイプリルがマリアの両肩を掴んだ瞬間、この思考も霧散してしまった。

「マリア。お願いだから、そんなこと言うな。絶対に。絶対に言っちゃだめなんだ」

「どうして……?」

「崩れるから。ワタシたちの世界が、崩れるから……」

「崩れる?」

思わずオウム返しした声に、エイプリルは答えなかった。ただただ、涙がうっすら浮かぶ目が水面のように揺らめくだけ。風力タービンの風が髪を攫うだけだ。

「……わかった。ごめんなさい。でも、外の世界を知ってみたかったの」

「外は何もない。特にワタシたちには関係ない世界だから。あっちには……不幸しかない。沢山の恐怖しかないんだ」

エイプリルは流れる黒髪を押さえながら、街の出口を眺めた。その顔は複雑だった。悲しみにも恐怖にも哀愁にも郷愁にも似ていた。マリアにわかる事は、エイプリルは外へ負の感情しか抱いていないということだけだった。

「帰ろう、マリア」

エイプリルはいつもの顔に戻り、マリアに手を差し伸ばす。その手を受け取るが、気持ちは街の出口を見ていた。見たこともない色を含むそこは魅惑的すぎて、しばらく忘れそうにない。全ての思考が次々に消えてしまうマリアだが、それだけは残っていた。

だからこそ尋ねてしまう。

「ねえ、お姉ちゃん。一つ、いい?」

「なんだ?」

「マリアは、いつからマリアなの? どうしてか……思い出せなくて。どこかに落としたみたい」

エイプリルは一瞬だけ、はっとした顔をした。だがそれも僅か一秒と経たずに消え、次には苦く笑みを浮かべていた。今の姉はガラスのようだ。砕かれた万華鏡よりはるかに儚く、弱弱しく目を細めるのだった。

「馬鹿だな、マリアは。マリアはずっとマリアで、ワタシの妹だ。それ以外……何もない。なんでもない」

「うん……」

「嫌、なのか?」

「ううん。違うの……」

またも思考が消える。もどかしいと思う気持ちすら。風力タービンの音がマリアを消してしまう。

マリアはそれが恐ろしく思えた。マリアの中では何もかも消えていく。記憶も感情も、生温い幸せに消されていく。意識は次々と塗り替えられて、ただただ幸せな海へ突き落とされる。

幸せに誤魔化されていく。

エイプリルは、姉はそれに気づいているだろうか。嘘ばかりの幸せ。何もないから、不幸がないから幸せ? 白い街は何を与えてくれるの? どうして姉は笑っているのだろう。街の人たちはみんな穏やかなんだろう……。

ここは全てがまやかし。白い街は何も生み出さず、幸せな空気だけが蔓延している。

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