アナーバーの風
初瀬泉葵
第1話
アナーバーは七月だというのに、からっとした涼しい風が吹いていた。
そこはアメリカの北東部に位置する自然豊かな小さな街で、ミシガン州都・デトロイトから車を使って半時間程度で着く、名門・ミシガン大学を中心とした学園都市だ。
街に出れば、若者たちが各々の放課後の過ごし方を楽しんでいる。日本にいると当たり前のように日本人としかすれ違わないが、ここではいろいろな顔立ちをした人とすれ違う。ひょっとして日本人?って思ったりすることもあったが、その人も流暢な英語を話していた。恥ずかしいことに僕は英語が全然できない。
訳があって、三週間こちらのラボにお世話になることになった、僕は人種のるつぼと言われるアメリカで短いけれど穏やかな生活を過ごせるとそう思っていた。
僕は典型的な大学受験失敗組だ。日本という国は受験にしても就職活動にしてもそれが与える影響というのがあまりに大きい。入口が最大関門のような構造になっているが、出口は意外と簡単で、K大工学部に合格最低点で入学した友人は怠惰な性格を改めることなく、成績も欠点ギリギリの低空飛行を続けていたが、結局、就職活動では学歴を盾にした上、地域ボランティアに熱心に打ち込んだと法螺を吹いて、あっさり大手化学メーカーに就職した。
アナーバーに来る数週間前に彼と飲み屋に行ったが、『これで安泰安泰』と饒舌に語っていた。まぁ僕は『よっ!社会人』と持ち上げて飲み代を奢ってもらったので別に気にはしていないが。
大学受験に失敗したとはいえ取り返すチャンスならいくらでもある、そう思って研究者を志したのは三年前のことだ。四年で大学を出てしまうとどうしても学生の能力を測るのに、学歴と学生活動を評価されがちなのは有名な話だ。僕は群れることが苦手なので唯一続けていた学生活動である学生祭実行委員会を大学二年の時にやめてしまった。そういえばその時に付き合って彼女にフラれたのも同じころだっけ。まぁ今となってはどうでもいいことだが。
上手く言葉にはできないが、日本という狭くて息苦しい国から大空を突き抜けてアメリカにやってきたことがどこか開放的に思えた。少し自分が大きくなったように感じた。これはひょっとしたら国際感覚の芽生えと言うやつなのではないか、などと妄想したりした。要するに今まで一歩も日本を出ずにのうのうとレールの上を歩いてきた多くの人とは違うのだぞ、そんなことを言いたくなるような心地だったのだ。
アナーバーは自然が豊かだ。大学の周りはまだ人々の活気にあふれているが、車で五分も走らないうちに森が見えてきて、さらにそこを抜けると琵琶湖よりもはるかに大きな湖がいくつもあった。なので生活の中心は基本的に大学のそばだ。そこにはすべてが揃っていた。飯を食うところも服を買うところも。
お気に入りの和食レストランの店員・ビンツェンという大男に出会った。彼は台湾人とアメリカ人のハーフだが、台湾には行ったことが無いらしい。
アナーバーにはすべてが揃っている、彼もそう言っていた。中学も高校も家から徒歩五分、ミシガン大学へは車で十分未満、そんな彼はいつか日本に行ってみたいと言う。
僕の英語力が低いせいで正確に聴き取れている自信はないが、彼曰く日本には何か大きな夢の世界が広がっているそうだ。
アメリカのラボには定時という概念が無かった。
必要な時に来て、仕事が終われば皆帰った。それが昼の二時でも笑顔でラボを後にした。それでいて学費免除・成果に応じて、どうやら日本の学卒初任給以上の給料を貰っているらしい。
日本のラボはというと、朝の九時から夜の七時まで研究室にいなければならないという“コアタイム”という概念があり、院生部屋という大学院生がデスクワークをする部屋に時々教授が顔を見せるもんだから、脱走しようにもできない環境だった。それ以前に、脱走という発想が生まれてしまう時点でよっぽど精神衛生上よくなかったのかもしれないが。
アナーバーの夏は夜七時を過ぎても、太陽がその存在感を示していた。
それに応えるように街の若者は踊り歌い騒いでいた。下手なサックスを演奏しているわりに、彼らの前に置かれている紙コップの中には一ドル紙幣がたくさん詰め込まれていた。何より彼らは楽しそうであった。そんな様子を見て僕は改めて遠くに来たもんだ、なんて澄ました顔をした。少し暑い日には上裸で走るおじさんとすれ違うのも当たり前、コンビニの店員には『君は本当に玉子サンドイッチが好きなんだなぁ』と言われたりなんてした。日本のコンビニ店員みたいに定型文しか話さないのとは大違いだ。
ラボにはあまり馴染めなかった。
どうせ、三週間しかいないやという感情もあったし、何より彼らの英語が聞き取れなかった。英語が苦手な留学生にもアメリカ人は優しいなんて、あれは空想だったのだな。そもそも、ここにいる留学生は基本的に英語が扱いこなせる人間だけなのだから。
挨拶もしなかったし、されても返さなかった。そうこうしているうちに、一人のラボメンバーが違う大学でポストを見つけ異動するという。なんてフレキシブルなのだ、と思ったが、こちらでは当たり前のことらしい。スキルアップ・キャリアアップのために違う環境に移ることは至極当然のことなのだ。
僕が同じ大学で学部・大学院合わせて七年も過ごしているという話をしたら非常に驚かれた。『僕だったら嫌だなぁ』と言われたが、僕だって嫌なのだ。しかし、そういうものと受け入れて過ごしてきて今に至る。大学院進学の時点で違う大学の大学院を受ける学歴ロンダリングに対してネガティブな印象も持っていたうえ、まるっきり違う研究をすることになれば、また一から勉強し直さねばならない。それを避けたかったのだ。今思えば、勉強し直さねばならないならすればよかったじゃないか、とも思うが、当時の僕にそういう思考回路はなかったらしい。
アナーバーの活気が、そして眩しい太陽が、一層、僕の孤独感を増大させた。
それが遠くに来るということなのだと思った。
そしてなぜか昔の出来事を思い出した。
昔、両親の言いつけを守らずに友人と三人で使われなくなったトンネル探検に出かけた。ひび割れた岩壁、そこを這う蔦、見たこともない大きな蛾、生い茂る雑草、そして向こう側に何も見えない真っ暗な闇。
そのトンネルがとても長いから真っ暗なのか、そこに行き止まりがあるから真っ暗なのか、僕にはわからなかった。奥へ進むほど、数分前にいたはずの入口の光は小さくなっていき、身体の奥からふつふつと湧き上がる孤独感が現実から遠く離れたところに来た、という実感を与えてくれた。
それとは全く別物と思っていたアナーバーの太陽はあの時みた入口の光のように感じた。そしてやはり現実から遠く離れたところに来てしまったという実感を与えてくれるのだ。
アナーバーの夜は真っ暗だ。二十四時間営業のコンビニなどない。
街はひっそりと静まり返り、踊っていた若者も、上裸で走っていたおじさんも、アジア風の若い女性の集団も髭面をしたショベルカーの運転手も、本当はそこにいなかったのではないかという疑問を与えるほど、そこには人の気配が残っていなかった。アナーバーの風は全てを闇へと運んでしまったのかもしれない。
光のない街に僕の影はなく、本当に遠くへ来てしまったという実感だけ残して朝を迎えた。
アナーバーの風 初瀬泉葵 @hase_izuki
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