一生に一度だけ、特製のお茶漬け。そして嘘。
八山たかを。
一人目でした。
「あ、おかえりなさい!」
自宅の戸を開けたアキオを出迎えたのは、妙に上機嫌な妻・ミカの声だった。
最近は子育てに忙しく、不機嫌だった妻の明るい声。
アキオは小さな違和感を覚えるが、疲れているし、妻が上機嫌でいることに越したことは無い。
そんなモヤモヤはすぐに消えてしまった。
仕事と帰りの電車で重くなった足を引きずって、アキオは暗い廊下を突き当りまで進む。
途中の扉の奥が静かなことから察するに、6ヶ月になった娘はもう眠ってしまったのだろう。
「ずいぶん遅くまで頑張ってたのね。お疲れ様」
「ありがとう。お風呂、沸いてるかな」
「あっ……ごめん、忘れてた。今からスイッチ押してくるね。何か食べてきた?」
「いや、出来れば何か食べたいな。簡単なもので良いから。正直、空腹よりも、睡眠欲のほうが勝ってるんだ」
「分かった。じゃあ、座ってテレビでも見ててちょうだい」
ミカは笑顔でそう言うと、軽い足取りで風呂場に向かっていく。
ふと時計を見れば、もうそろそろ十時になるかというところ。
いつもの妻なら娘の世話で疲れ切っている時間なのに、やはりどこか元気だ。
母さんが来て、世話を手伝ってくれたのだろうか。
アキオはソファに腰を下ろし、その流れでテレビのリモコンを操った。
妙にテンションの高いキャスターが、プロ野球関連のニュースを伝えているところだ。
なんでも、育成畑からコツコツやってきた若手が、今日の試合を決める一発を放ったらしい。
「俺だって、地道にやってるんだけどな」
ぶっきらぼうに、しかし力なくアキオは呟いて息を吐く。
それと同時に、溜まっていた疲れがどっと吹き出てきた。
参った、これじゃ立てそうにない。
アキオは自嘲気味に笑う。
「お茶漬けで良い?」
「うわぁっ!? ……なんだ、君か」
不意に背後から聞こえた声に、アキオは思わず悲鳴を上げる。
振り返ると、にっこりと笑う妻の顔がある。
「驚かせちゃった?」
「いや、疲れていただけだ」
「そう……で、お茶漬けで良い?」
「ああ、それくらいが良いかもね。最近、食べ過ぎになりがちだから」
最近大きくなってきてしまった腹をさすりながら、アキオは苦笑する。
結婚して、娘が生まれて、マンションを買った。
おそらく順調な結婚生活なのだろうが、仕事に子育てに、何かとストレスが溜まる。
そうなると、どうしても脂っこい食事に手を伸ばしてしまうのだ。
疲れているし、今くらいは軽い食事で我慢しておこう。
「今日はね、良いお肉が入ったのよ」
もう台所に立っているミカが、独り言のように言う。
彼女に電子レンジに放りこまれた冷凍ご飯がカタリと硬質な音を鳴らし、続いて電子音と共に低い唸り声のような作動音が部屋に響き始める。
「なんだ、今日は山に行ったのか」
「ええ、久しぶりに。疲れなんか吹っ飛んじゃったわ」
「それは良かった。それにしても、変わった趣味だよな。狩猟なんて」
「私が好きなのは、狩猟というよりもジビエね」
「そうだった。今日は鹿? イノシシ?」
「若いイノシシよ。暴れて大変だったんだから」
都会の若い女、といった外見に反して、たびたびミカは銃を担いで山に入っていた。
最近は産後だということと、娘の面倒を見るのに忙しくてその趣味も封印せざるを得なかった。
つまり、念願かなって久しぶりに山に入れたわけだ。
それならば、機嫌が良いのも頷ける。
「はい、お待たせ」
「ん、もう出来たの?」
「そりゃあ、お茶漬けだもの。さ、こっち来て座って」
何とびっくり、ミカはわざわざアキオのために椅子を引いてくれた。
そこまで機嫌が良いんだろう。
まるで、胸に長年つかえていた栓が取れ去ったようだ。
「俺も、狩猟免許取ってみようかな」
「何か行った?」
「いや……」
日ごろの激務を思うと、そんな時間も体力も無いだろう。
それに、アキオはどちらかと言うとミカがゴツイ銃を持って狩猟をしているのを見るのか好きなのだ。
線が細く、華奢な彼女とのギャップが、かつてのアキオに電流を流し、熱烈なアプローチをさせた。
その気持ちは今でも変わっていない。
「変なの。はい、どうぞ」
「おおっ」
席に着いたアキオの前に、ミカが
綺麗に山盛りにされた白いご飯に、野菜や肉などの色とりどりの具がのっている。
見るからに美味そうだ……が。
「おお?」
よく見ると、お茶漬けなのにお茶がかかっていない。
戸惑いながら視線を上げると、したり顔で微笑むミカと目が合う。
その手には、ほのかに湯気を上げる急須がある。
「せっかくの良いお肉だから、ちょっと特別な感じにしたいじゃない?」
そう言って、美香は丼に円を描くように急須を回しかけていく。
軽く茹でられた薄切りの肉が、熱々のお茶を浴びて踊りだす。
白い脂身からこぼれ出た油滴が、蛍光灯の光を反射して白い湯気の中をキラキラと輝いた。
「これは、うん。美味しそうだ……!」
「でしょ? ね、食べてみて」
「いただきます!」
アキオは子供のように目を輝かせ、眼前の丼をかきこむ。
「ちょっと、もう少しゆっくり味わって……まあいいか」
呆れながらも嬉しそうに、ミカは微笑んだ。
そんな妻を、アキオは女神のように感じる。
冷凍ご飯だということは分かっているのに、ダシの優しい香りと共に、米のでんぷんが全身に染み渡っていくようだ。
野菜に手を伸ばしても、シャクシャクとした心地よい食感が残る程度に火が通ったキャベツが、その心地よい音で火照る顔を涼しくしてくれる。
極めつけの肉は、適度に入り混じった脂身がとろけて、なんともジューシーだ。
「ミカ、ありがとう」
「どうしたのよ急に」
「いやね、急に君と結婚してよかったと思ってさ」
「はぁ? 褒めても何も出ないわよ」
「お茶漬けは出たじゃないか」
「それはそうだけど……ねえ、一つ話があるんだけど、聞いてくれる?」
「ん、なに?」
神妙な面持ちで言う妻に、アキオはにわかに緊張して、ごくり、と唾を飲む。
ああ、唾まで美味く感じるのか。
「実はね……」
ミカは重々しく言うと、自分の下腹部を撫でた。
「まさか、できたのか?」
「うん、そうみたい」
「やったじゃないか! 性別は?」
「まだ分からない」
「そっか、そっか!」
ミカの機嫌が良いのは、それもあったのか。
人生設計的には少し早いが、それは大した問題じゃない。
「改めて、君と結婚してよかったよ。子供たちが大きくなったら、こんなに美味しいお茶漬けを食べさせてあげたいな」
「それは出来ないわ」
「どうし……て?」
アキオはミカの顔に一切の表情が無いことに気付いて、わけの分からない恐怖を感じた。
しかしミカはにっこりと笑って、
「だって、同じお肉は二度とは手に入らないもの」
「ああ……それはそうだね。それにしても、二人目か~! 俺ももっと頑張らないとな!」
コツコツ頑張ってきた甲斐があった。
やはり神様は見ているんだ。
別に、特定の宗教を信仰しているわけではないけど。
一気に元気が湧いてきたアキオは、お茶漬けの残りを平らげようと丼に手を伸ばす。
その時。
「二人目、じゃないよ」
予想外のミカの台詞に、昭雄は顔を上げる。
「……どういうこと? もしかして、双子とか?」
「ううん、この子は一人目だから」
アキオはその言葉の意味を考える。
そして顔を一気に青くして洗面所に走り、吐いた。
一生に一度だけ、特製のお茶漬け。そして嘘。 八山たかを。 @8yama_tko
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