弘樹、雪音、小学生

天敵


 両親は仕事の都合で、俺達よりも先に出勤する。そのため、雨宮家の朝は早い。


「今日は予約が入っててな、昼休憩は無さそうなんだ。雪音、鍵頼むぞ?」

「はぁ~いっ!」


 出勤する両親を見送った後、青い靴ベラのキーホルダーをじっと見つめる雪音。それで何を思ったのか、トーストをかじる俺の方に笑みを向けてきた。


「ユキ、ひろちゃんが授業終わるまで待ってる」

「俺を待っても仕方ないだろ、給食ないし」

「やだやだ。ひろちゃんと一緒に帰るの!」

「雪音は給食ないだろ。母さんが作ったサンドイッチあるから先に帰ってな」

「ぶーぶー」

「ぶーぶーじゃない」

「ぷーぷー」

「あのな……先に帰ってないと、兄ちゃん怒るからな?」


 怒るから、という言葉が効いたのか、ぷうと頬を膨らませた雪音。さらに無言のまま通学帽をかぶる。

 そうやって不貞腐れたまま靴を履く姿も可愛らしいなんて、言えない。


 ────────


「おーっす、弘樹」

「おはよう」

「雪ちゃんもおはよ!」


 声をかけてきたのは、同じアパートの1階に住む幼馴染の霧島拓人。学区が同じで3人一緒に登校している。


「……」

「雪音、挨拶しなさい」

「……おはよぉ」


 まだ不貞腐れてるのか。拓人にも唇を尖らせたまま、通学帽を深く被った雪音は先をずいずい歩いていた。


「雪ちゃん、機嫌悪し?」

「ひろちゃんの授業終わるまで待ってるって……いう事聞かなくて」

「は〜。朝からごちそうさま。マジ可愛いじゃん。お兄ちゃんの帰りを待つ妹とかさー」


 俺らは家族だし、わざわざ学校でも一緒にいる必要なんてない。

 通学が不安とか、帰り道が危ないとか、何か理由があるなら俺を待っているのも分かるんだ。


 でも、雪音の理由は違う。


 まるで恋人のように腕にひっついてニコニコする雪音。そんな光景を見る友人達はニヤニヤしながら揶揄してくる。

 ──俺だって、「妹離れしろよ」と言われるのは辛いんだから。


 ────────


「……猫」


 こちらを睨みつけてくる黄色い眼光。

 相手は攻撃的ではないのだが、苦手意識のせいか、雪音の腰が竦む。


「ひろちゃんに嫌われたくないのに……」


 自然と雪音の瞳がじわじわ潤んでいく。とぼとぼと家まで帰ってきたまでは良かったのだが、アパートの入口に待ち構える天敵。


「うぅ……どうしよう」


 雪音は2歳の時、猫に顔を引っかかれた苦い記憶がある。それから苦手らしい。


 今は猫よりも成長したとは言え、あの身体を伸ばして襲ってきたらと思うと怖い。


「誰か来ないかなあ……」


 時計は持っていないので時間も分からない。

 誰か来たら一緒にアパートの中に入ればいい。そう思うものの、時間的に誰も通らないのか周囲は閑散としている。


「お腹空いた」


 きゅる~と悲しそうに鳴いた腹の虫に、雪音はついに地面に腰を下ろす。


 どれくらいそうしていただろう。ぽかぽか陽気も伴い、知らない間にそのまま眠っていたらしい。

 頭をぽんぽん撫でられた雪音はふっと目を開く。顔を上げると、そこにはランドセルを背負った弘樹の姿。


「何やってんだ、雪音」

「ひろちゃん……」


 入り口を見ると、先ほどまで陣取っていたはずの猫達はいなくなっていた。


「あのね、ひろちゃん。あそこに猫がいたの」

「うん、知ってる」

「ユキ、だから入れなかったの」

「うん、知ってる」


 ゆっくりと階段を登る間も、雪音は俺のシャツを引っ張っていた。

 小さな手が僅かに震えている。よほどトラウマが怖かったのだろう──。


「……腹減っただろ? サンドイッチ食べような」

「わーい! ひろちゃん大好きっ!」


 俺の腕に絡まった雪音は嬉しそうに頰を擦りよせてきた。これじゃあどっちが小動物か分かったもんじゃない。


「暑い……離れろって! 攻撃しなけりゃ、猫は襲って来ないよ」

「ひろちゃんが来てくれたから、猫はいなくなったんだよ」

「そっか、そりゃ良かったな」

「ひろちゃん、背中汗すごいよ?」

「……外、暑かったからだろ」


 帰りのHRは無駄に長引くことが多い。

 朝の不機嫌な雪音を心配した弘樹は急いで帰ってきたのだろう──背中に滲んでいる汗がそれを全て物語っていた。


「何、ニヤニヤしてんだよ……」

「えへへ。ひろちゃんはやっぱりユキのことが好きなのだ」

「なんだそりゃ?」

「ふんふふ〜ん♪」


 また不思議な鼻歌を作りながら、雪音は上機嫌で席についていた。

 やはり言葉の足りない雪音の考えはよく分からないが……機嫌が直ったからいいか?

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