老人は語る

白川津 中々

第1話

 一仕事終わり、僕はいつものバーへ向かった。

 明日は平日だが僕は休みだ。誰にはばかることなく飲み、酔い、帰宅した後は気持ちよく昼まで眠れる。そう思うと自然に足取りは軽く、速く動いた。


 繁華街から離れた場所にある路地の一角。幾らか傷の付いた、古ぼけた木造の扉を開けると、形容し難い、乾いたベルの音が耳に入る。酒を入れる前はこの音が心地よい。


「いらっしゃいませ」


 マスターがいつもの笑顔で挨拶をしてくれたので嬉しかった。しかし、すぐさまカウンターに目をやり、僕は肩を落とした。いつも座る席に、顔の知らない客が座っていたからだ。

 僕は嫌味のように、他にも席が空いているのにもかかわらず知らない男の隣に座った。大人気ないとは思ったが、こればかりは性分である。如何ともしがたい。


「鴨川さん。オクトモア」


 僕はあえてマスターの名前を呼び常連感を出した。隣に座る、よく分からぬ男と戦う気になっていたのだ。どちらが多く、また深く、このバーと酒について知っているかを競おうと思ったのだった。


「かしこまりました」と、マスターが頷き、スマートに酒の準備をしていく。見惚れてしまうほど美しく、無駄のない動きだ。素人はシェイカーでしか判断しないが、それなりに酒を知るようになると自ずと瓶や酒器の扱い一つに対し注視するようになる。カウンター越しに立つ職人達が、いかに研磨された技術をもってして酒を作るのかが分かるのだ。

 そんな風に悦に浸りながら、僕は隣の客を見た。瞬間、なんとも言えぬ、人懐っこい微笑を見せる年老いた男性の姿が瞳に映った。なんと言えばいいのか、懐かしいというか、愛らしいというのか。ともかく分からぬが、僕はこの名も知らぬ客に対し、初対面であるにもかかわらず敬愛の情を抱いたのだ。不思議な感覚である。


「田上さん。オクトモアです」


「あ……ありがとうございます」


 僕が見ず知らずの老人に目を取られている間にいつの間にか酒が出来上がっていた。カウンターの上に出され、オクトモア特有の強く癖のある香りが辺りに満ちると、例の老人が「ほぉ」と感嘆したのであった。


「こいつぁいい香りですね」


 老人はやはり微笑を浮かべながらそう言った。まるで毒気のない、皺だらけの顔は不快感より親しみを感じる。


「えぇ。香りの強い酒でして……」


「そうですか。実は私、酒はとんと疎くてね。この店にも、いつかに息子が連れて来てくれたから知っているだけで、初めてに近いんですよ」


 僕達は笑いあったが、マスターが横から「そんな事ないじゃないですか」と口を挟んだ。なるほど。この老人はどうやら上客のようである。先までの僕なら途端に腹を立てたろうが、もはやどうでもよかった。なぜなら、僕はこの隣に座る男の未知の魅力に、すっかりと呑まれてしまったのだから。


「林さんには、息子さん共々ご贔屓にしていただいてるんですよ」


 柔らかい笑みを浮かべながらマスターはそう話した。親子二代で使ってくれるとあれば、それはバーテン冥利につきるだろう。


「そう言わんでください。いい歳をして酒道楽だなんて思われたら、すっかり酔えなくなりすからね」


 どうやらこの老人は林という名前らしかった。思ったより普通だったのが期待外れでもあり、面白くもある。また、言葉遣いも愉快に感じた。この老人の心には邪がなく好意と慈愛に満ちていると、根拠はないが、僕の粗末な観察眼が彼をそう捉えたのだった。


「林さん。よろしければ、一杯どうですか? 見たところグラスが空いているようですが……」


 林さんは驚いたような顔をしてから「いやいや」とかぶりを振った。


「貴方お名前は……そう、田上さんというんですか。田上さん。貴方は私よりうんと歳が低い。まるで親子の差だ。そんな方にご馳走になるなんてのは、話があべこべだ」


 林さんはゆっくりと、しかし落ち着いた様子で僕にそう聞かせた。自分の顔が赤くなっていくのが分かる。まったく失礼をしたと思ったのだ。確かに彼からしてみれば僕などようやく産毛が抜けた雛鳥に等しいだろう。それを、何をカッコつけているのか。恥ずかしい限りだ。しかし、僕はどうしても、この林さんに何かしらの気持ちを贈呈したかった。


 入店当初に抱いていた敵愾心はもうすっかりとなりを潜め、僕はこの老人と仲良くなりたいと考えていた。普段まともな人付き合いすら億劫だと思う質なのだが、今日に限って、いや、この人に限っては精神の堀に橋をかけ、門を開けて自ら外まで出迎えたのち、腹を割って話しをしたいと思うのである。いったい何がそうさせるかは理解の届かぬ所にあるが……あるいは、理によって推し量れないからこそ、僕はこの老人に魅力を感じているのかもしれない。


「林さん。そんな意地悪いわないで、田上さんの顔を立ててあげてください」


 マスターのフォローが余計に熱い血を循環させる。急な仕事に、心臓が文句を言ってきそうだ。

 「うーん」と唸る林さんを見て、マスターはさらに言葉を続ける。


「そうだ林さん。林さんの昔話を聞かせてあげたらどうですか? 私ももう一度、拝聴したいと思っていたんですよ。そのお礼に、田上さんから一杯ご馳走になる。それなら良いのではないですか? お店の方は閉めさせていただきますから、どうかお気になさらず」


「いやしかし……」


「それは是非とも聞いてみたいですね。お願いできませんか。林さん」


 僕はマスターな提案に乗って林さんをその気にさせようとした。彼がどうしてこう、僕を惹きつけるのか、その半生に、何かしらの答えがあるような気がしたのだ。


 林さんは少し黙り、観念したような溜息をついてから「分かりました」と言って低く、深みのある声で一言漏らし、厚みのある唇を開閉させながら、僕達に語るのであった……

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