手から零れた奇跡

人の海

第1話

<Boy SIDE>

「わっ!」

 ブンデスリーグの試合のハーフタイムの間にアイスコーヒーを飲もうと振り返った瞬間、玄関の叩きに人影を見つけ思わず声が出た。

「折角恋人が来たっていうのに『わっ!』はひどいなぁ『わっ!』は」

 築三十五年のオンボロアパートの玄関口で佇んでいた透子は口を尖らせて抗議の声を上げた。

「いつからそこにいたわけ?」

「うーん、二十分くらい前から? 輝君がサッカー観るのに熱中してるみたいだから声かけるの悪いかなあと思って」

 そう云いながら靴を脱ぎ、玄関と続きになっている居間に入ってくる。勝手知ったる他人の家だ。

 透子にはうちの玄関の鍵を渡してあるからいつでも出入りは自由だ。

 だけどこんな夜分に突然やってくることは珍しい。

「晩御飯はもう食べちゃったよね?」

「ああ、試合始まる前にレトルトのカレーを」

「またレトルトのカレー? 身体に良くないよー……って、今日は私も人のこと云えないか」

 透子は手に下げていたコンビニの袋から弁当を取り出す。

「お茶出すよ」

「ありがとー」

 冷蔵庫から冷えた麦茶を出してやると、透子はいつものように礼儀正しく手を合わせて「いただきます」を云ってから、チキン南蛮弁当に手を伸ばす。

「どうしたの、今日は? こんな時間に」

 テレビの中ではハーフタイムが終わり、両軍の選手が再びピッチに散っていく。

「んー、今日は珍しくお父さんがお泊りの許可くれたから」

 透子のご両親には半年ほど前にご挨拶してて、付き合うことの正式な許可を貰っている。

 とはいえ、こちらはまだ学生の身。

 なんとかバイトで学費と日々の暮らしを成り立たせているが、とても将来のことまで見通せない。

 そういうわけで透子の父親が俺たちの付き合いを全面的に支持してくれているわけではないことも仕方ない。

 二人で泊りがけの旅行に行ったこともあるし、こうしてうちに泊まりにくることも初めてではないけれど、こんな時間の突然の来訪を許すなんて、一体どういう風の吹き回しだろう?

 何かあった? と聞こうとした矢先「じゃーん!」と云いいながら、透子がコンビニ袋の中から一冊の本を取り出した。

 洋書だ。でも英語じゃない。一体なんの本だか装丁だけでは分からない。

 本の表紙の文字を読み取る。うん、『JOURNAL DE CLARA』?

 それに表紙にいるこの写真の女性は。

「『クララの明治日記』か。これは!」

「そう、フランス語版。前からこの本、輝君、探してたでしょ? 今日神保町の古本街を巡ってて見つけたの」

 どう偉いでしょう! とばかりに透子はつつまやしかな胸を反らしてみせる。

『クララの明治日記』とは江戸無血開城の立役者となった勝海舟の三男、梶梅太郎と結婚したアメリカ人少女、クララ・ホイットニーが明治八年、十四歳の時に日本に初上陸して以降、勝海舟にとって実の孫にあたる子の誕生までを綴った日記のことである。瑞々しいアメリカ人少女の感性で書かれた同書は、大学で「来日外国人の記した幕末明治初期の日本の模様」を研究テーマにしている自分にとっては必須の書と云える。

 原文は無論英語だが、勝海舟の子孫たちによって日本語訳本が出版されたものだ。その日本語訳版本は既に絶版になっているものの、かなりの数が売れたらしく古書的な価値は殆どない。Amazonやヤフオクならほぼ定価で手に入る。

 もっとも日本語訳版はどういう経緯か不明瞭なのだが、翻訳されていない部分が結構ある。というわけで比較対象すべく、原文の英語版も当然手元にはあるのだが、その過程でフランス語版も存在することだけは知っていたのだ。だけど、第二外国語はドイツ語選択した自分は全くフランス語が読めない。だから今まで手を出さずにいることを透子には以前話したことがあった。どうやらそのことを覚えていたらしい。

「ありがとう。お金払うよ。いくらだった?」

「いいよー、輝君の誕生日祝いがわり」

「えっ、そんなのまだ半年も先……」

 思わずそう云いかけて、口ごもる。代わりに口をついて出た言葉は別のものだ。

「お礼、しなくちゃな。何が良い?」

 そう云うと透子はものすごくいい笑顔でヒースサインしていた。何か欲しいものがあったらしい。

 こんな遠回りなことをしなくても素直に云ってくれればいいのに。

 だけど、透子は自分が一方的に与えられることを極端に嫌うところがあるのはこの一年の付き合いで学習済みだ。

 幸いバイト代が入ったばかり。明日にでも透子と一緒に買い物に出かけるとしよう。


 テレビの中の試合はスコアレスの膠着状態のまま最終盤を迎えていた。先発出場していた日本人選手は後半三十分で途中交代している。

 この試合のチョイスは失敗だったかな……と思った矢先、日本人選手が所属しているチームのディフェンダーが見事なミドルシュートをゴールネットに突き刺した。

 よし! これで残留圏に踏みとどまった。

 喜びを分かち合おうと透子の方を見ると、ビーズ入りのクッションソファー、通称「人を駄目にするソファー」に包みこまれるようにして彼女は寝息を立てていた。小柄で華奢な体つきだから、すっぽりクッションに埋まるような格好になってしまっている。

 すごく細かいビーズが詰まったこのソファー、坐ると身体に密着してきて冬はいい感じなのだが、夏の季節だと密着面が少し暑苦しい。

 風邪でもひいたら大変だ。

 透子を起こそうと彼女の顔を覗き込み……その顔に汗以外のものが流れていた痕跡を見つけた。

 軽く肩を叩くと、透子はうすぼんやりと目を開ける。だけど、瞳は依然としてとろんとしたまま半覚醒状態のようだ。

「怖い夢、見た……」

 開口一番、透子は小鳥の囁くような声でポツリと云った。

「輝君が泣いてる夢。輝君が泣いてるのを見て慰めてあげたいのに……私、何もできないの……」

 今にも泣きだしそうな声で、絞り出すように云う。

「…………」

 咄嗟になんと返したらいいか分からない自分に腹が立つ。

 だけどなんと返せば透子が傷つかないかが分からない。

 自分の不甲斐なさに歯ぎしりしていると、透子はようやく覚醒したらしい眼を俺の瞳に合わせてポツリと告げた。

「ねぇ、私たち」

 そこで一旦言葉を区切ってから、おずおずと切り出す。

「……もう別れた方がいいんじゃないかな?」

「今度云ったら張ったおす」

 こればかりは即答できた。二度と同じことを云えないように、特大の釘を刺しておく。

 透子の方から別れたいと云ったって絶対に別れてなんてやるものか。

 お互いに云うべき言葉が見つからないまま、しばらく沈黙が室内に舞い降りた。

「あー、忘れてた!」

 透子は唐突にそう叫ぶと、クッションソファーから跳ね起き、液晶テレビ下に設置してあるブルーレイレコーダーに取りつく。

「今日の夜、WOWWOWで見たいライブの放送があるんだった。予約させてね……って、やだ、ハードディスクの空きがない。えい、古いのから消しちゃえ」

「わあー、ちょっと待った。ブルーレイに落としてないんだ、その辺は。消すなら直近のサッカーの試合にしてくれ」

 レコーダーを操作して中身を勝手に消去しようとする透子を慌てて止める。

 そんな透子の姿に俺は内心安堵の気持ちに包まれる。良かった。いつも通りの透子に戻ってる。

 俺としても仕方のないことだと分かっているから腹を立てたりはしないが、傍から見て透子は時折投げやりになることがある。

 本人に直接そう指摘したこともあるけれど「ごめんなさい」と謝るばかりで埒が明かない。

 かといってそれ以上透子の心に踏み込んで、彼女を傷つけることは絶対にしたくなかった。

 俺にできることは透子が日々をごく普通に、楽しく過ごせるようにする手助けをすることだけだ。

 その為には俺自身が日々を楽しく過ごせていなければ透子にとって意味のないことだということも今は知っている。

 結局、俺たちはそのままWOWWOWのライブ放送を見ることになった。透子の好きなバンドでよく音楽を聴いているので、この一年で俺も普通にこのバンドのファンになっていた。

 約一時間半の放送を見終えると「やっぱり良かったね」と今度こそ翳りのない笑いで透子は云った。

 ほっとした気持ちに包まれながら、俺は大切なことを思い出す。

「そうだ、薬。就寝前の分、まだ飲んでないだろう?」

「うん、ちゃんと用意してあるから大丈夫」

 ハンドバックから透子が薬を取り出すのを確認してから、俺は蒲団の用意をすることにした。しばらく前から透子用に一組蒲団を買い揃えたばかりだ。

 明日は何の予定もない日曜日とはいえ、もう深夜零時を回っている。透子に無理はさせられない。

「薬の飲み忘れ、ないだろうな」

 沢山の薬を口の中に放り込み、ゆっくりと時間をかけて水で流し込んだ透子を確認しつつ、俺は念を押す。

「やだー、輝君。お父さんみたい」

 透子は笑って云うが、俺の家に来たせいで透子に薬の飲み忘れがあったとなっては透子のご両親に申し開きできない。

 俺たちはその後、一緒に歯を磨いて、蒲団に入った。

 布団に入って三十分もした頃だろうか、もう寝入ったとばかり思っていた透子がばっと蒲団から身体を起こした。

 そのまま慌てた様子で枕元に置いてあったバックの中を漁り始める。

「ごめん。輝君、思い出した、思い出した。私、ここに行きたかったんだ!」

 暗闇の中、透子が差し出したスマホの画面が淡白く光る。

「ラーメン屋?」

 スマホに表示されていたのはラーメン店のホームページだった。なんでこんな時間に、と思ってホームページの営業時間をよく見ると、なんと深夜零時開店明け方の六時まで営業という、完全に深夜商売の人向けのお店らしい。

「SNSの評判を見て行きたいと思ってたんだ。ここからなら近いでしょ?」

 確かに、ホームページで所在地を確認すると近場だった。こんな近場にこんな店があることなんて全然知らなかった。

「で、今から行きたい、と?」

「うん、お願い。輝君の自転車出して。自転車なら十分もかからないと思うから」

 暗くてよく確認できないけれど、満面の笑みで透子が云っているのは分かった。こうなった透子は引くことはしない。

 それでも透子のためにも一応反論だけはしてみる。

「さっき夕食だけたばかりだろう? 太るぞ。それに薬だってもう飲んだ後だし」

「ラーメンとお弁当は別腹だから大丈夫。それにお医者様に少しは体重増やした方がいいって云われてるし」

 そう云われてしまったら仕方ない。惚れた弱みだ。ここは素直に付き合おう。

「分かったよ。着替えるから十分待ってて……って、透子もちゃんと着替えろよ」

「はーい」


 深夜の住宅街を自転車で走る。しかも後ろに透子を乗せてだ。

 二人乗りは条例で禁じられている。まして今は深夜。お巡りさんに出くわしたら即アウトだ。

 だけど幸い警察官に遭遇することもなく、スマホのナビ頼りで目当てのラーメン屋はすぐ見つかった。

 深夜過ぎだというのにカウンター席は埋まっている。

 深夜商売の人という感じではない、一般の人と思しき人たちも結構いるようで、どうやら口コミで評判が広がっているのは本当のようだ。

 カウンター席は埋まっていたけれど、椅子席の方は空いていたので俺たちはすぐに座ることができた。

 注文はお互いにシンプルな醤油ラーメン。すぐに運ばれてきたラーメンをいつものように手を合わせて「いただきます」を云って一口すすると透子は云った。

「美味しいねー、当たり当たり」

 極上の笑顔を浮かべてそう云う透子の顔に少しの間だけ見惚れていた。やっぱり透子には笑顔が似合う。

 勉強三昧で灰色だった俺の学生生活に、透子は潤いと云うエッセンスを与えてくれた。

 だけど、翻って透子にとっての俺はどうなんだろう? 俺はちゃんと透子から貰ったものを返すことが出来ているんだろうか?

 回転の速い店なので食べ終わった僕たちはすぐに店を後にする。それでも刻限は深夜の二時を回っている。

「本当に美味しかったねー、また行こうね」

 自転車の後部座席に座る透子が本当に嬉しそうに云う。

「ああ、美味しかった。あんなところにあんな店があるなんて俺なら絶対に知らないままだったからな。ありがとう、透子」

「どういたしまして。だから輝君、約束。また一緒に行こうね」

「ああ、約束だ」

「約束約束♪」

 節を付けて歌うようにそう云う透子を背中に感じながら、俺はこの子の笑顔を最後まで絶やさせないと改めて自分自身に誓った。


<Girl SIDE>

「治験の中止……?」

 最初自分が何を云われているのかちっとも分らなかった。

 それは診察室に同伴したお父さんも同様だったようで呆然と先生の先程の言葉を繰り返す。

「今までご協力頂いておいて大変申し訳ないのですが、このたび製薬会社の方から正式に治験の中止の申し出がありました」

 白衣をまとった目の前の先生はバツの悪さを隠すかのように、メガネのフレームを軽く押し上げながら、繰り返し同じ説明をする。

「フェイズⅢのこの段階の治験が中止になることは珍しいのですが、今回に限っては製薬会社側の申し出を受け入れざるを得ませんでした。力不足で申し訳ありません」

 先生は頭を下げながらそう告げる。

「それじゃあ、うちの娘はどうなるんですか!? 薬は、今飲んでいる薬は治験が中止になってもこれからも提供して貰えるんでしょうね!?」

 悲鳴に近い叫びをあげるお父さんに対して、先生は俯き加減のまま首を横に振る。

「残念ながらお嬢さんに投与されている薬も製造中止になります。いえ、実を云えばもうしばらく前から薬の製造ラインは止まっているのです」

 なんだかまるで実感の湧かない先生の言葉が耳から耳へと通り過ぎていく。

「三年前の治験開始当初、この治験には日本全国で五十三名の被験者がいたのですが、先月神戸の病院で被験者の方が亡くなられたことで、被験者はお嬢さんお一人を残すのみとなりました。これをもって製薬会社側も、共同研究していた先生方も、この治験薬は医学的に見てエビデンスがないと結論付けました。つまり、現在お嬢さんに投与している薬には効能がないと認定したわけです」

 私と同じ症状の人間が全国に五十二人もいることに、いや「いた」ことに少し驚きを覚える。

「先生は本当にそう考えているんですか、この薬に全く効能がないって!? 現にうちの娘は生きているじゃないですか!」

 先生の胸ぐらを掴みそうな勢いでお父さんが叫ぶ。

 ……もう三年も前のことだ。私の余命がもって後一年と宣告されたのは。

 だけど同時に最後の希望であるこの治験に参加した結果、三年後の私はいまなお生命を保っている。

「正直申し上げて判断しかかねます。この治験薬の投与のタイミングと符合してお嬢さんの症状が安定に向かったことは事実です。

 しかし依然として病巣そのものに改善は見られません。この治験薬が想定していた効能は病巣を縮小させるというものです。その意味では確かにこの治験薬の効果は認められません」

 少し苦しげな声で先生がそれでも「事実は事実」とありのままを告げてくる。

「じゃあ、なんですか、透子が、うちの娘がこの治験薬を飲んでいたことは全く意味がないということですか!? 今まで透子を看てきて、先生は本当にそう思うんですか!?」

「そうは申し上げておりません。投与された治験薬の、本来とは違う効能でお嬢さんの症状の進行を防いでいる可能性がないとは云いきれません。しかし同時に医学的にみると、この治験薬の効能が認められないこともまた事実なのです」

 ここまで先生に説明されてようやく私はいま自分が置かれている状況を理解した。

「私個人としても、治験審査委員会としても、製薬会社がこれ以上薬の開発ラインを維持できないという判断を下したこともやむを得ないと承認せざるを得ませんでした。

 そもそも製薬会社としてはこの治験薬の開発にこれまで莫大な金額を投入しているのです。薬に効用があることに希望を見出したいのが本来なのです。そういう意味では、大変申し上げにくい表現を敢えてさせて頂ければ、お嬢さんは非常に貴重なサンプルだったのです。ですが、もうこれ以上の費用負担は株主に対する説明責任的にもできないというのが製薬会社の本社側の意向です」

 そうか、私の身体って「特別性」だったんだぁ、とぼんやりとした頭で納得する。

「先程申し上げた通り、既に薬の製造開発ラインは止まっています。ですが、他の被験者に供給されていた薬の残りはすべて回収してお嬢さんに回してもらうということで製薬会社との話もまとまっています。それでどうかご納得いただけないでしょうか?」

 懇願するような声で先生はお父さんと私に語りかける。

「……その薬は一体どれくらいあるんですか? うちの娘分にどれだけの薬が残っているんですか?」

「まだ概算段階ですが、残りは六か月分ほどになるかと思われます」

 生命のタイムリミットど同義の言葉を告げられながら、私は自分がさほどショックを受けていないことに気付き、自分自身に驚きを覚えた。

 今こうして生きていること自体が三年前からのロスタイムだと思えば、六か月はさほど悪くない期間に思えたのだ。

「あと本当に申し訳ありませんが、こちらの誓約書に一筆頂けますでしょうか」

 先生がおずおずとお父さんの前に一通の書類を滑らせる。

「この書類は?」

「この治験の中止について一定の時期まで口外することを禁じるという誓約書になります」

 私もお父さんも今度ばかりはきょとんとした。私以外に被験者のいなくなった治験について何を口外する必要があるのだろう?

 私たちの表情を看て取ってより正確な説明が必要と気付いたのだろう、先生が改めてその書類の持つ意味を説明する。

「この治験は一般の患者を対象にしたフェイズⅢの治験ということで、株式市場では治験薬開発成功による株価の上昇が既に織り込みずみになっています。ですので、治験中止が発表された瞬間、株価が大幅に下落することが予想されます。もし事前に治験の中止が部外に漏れれば、インサイダー取引の疑いがかけられます。その予防措置としての一筆です」

 隣のお父さんの顔がみるみる真っ赤に染まっていくのが分かった。もともとお父さんは短気の気がある。

「あんたは!? 俺が娘の病気を餌に株で儲けようとしていると思っているのか!?」

「いえ、ですから、あくまで形式的なものです。後に続く治験のためにもこれは必要な措置なのです。どうかご理解ください」

 すごい剣幕で怒鳴るお父さんに少し怯えた表情を見せながら、だけど先生はしっかりと云いきった。

「お父さん」

 私はこの診察室に入って初めて口を開いた。

「残念だけど……仕方ないわよ」

 その言葉は心の底から出た本心だった。

 この三年生きながらえることができたお陰で、輝君とも会うことができた。

 それだけで私には十分な時間だった。

「先生は今まで十分に良くしてくれたじゃない。悪いのは私の身体。

 今までこうして生きてこられたことこそが神様のくれた奇跡なんだって思おうよ」

「透子、おまえ……」

 お父さんやお母さんとお別れするのは寂しい。勿論、輝君とお別れすることになるなんて耐えられない。

 だけど、本来の生命のリミットを超えて生き永らえている私がこれ以上のこと望むのは高望みにすぎることなのだと私は素直にその事実を受け止める。

 それでもお父さんは納得してくれなかったらしく、両手で私の肩を掴み、叫ぶように云う。

「それでいいのか、透子。手を伸ばせばそこに本当の奇跡がある。それなのにお前はそれをみすみす諦めるのか!?」

「その奇跡の対価に見合うものを私は持っていないもの。対価もなしに奇跡という望みだけ口にするのは、何かが違うと思うの」

「…………」

 その私の言葉に、お父さんは何も応えることができず沈黙だけが診察室を覆った……。


 病院を出たところでお父さんに「今晩は輝君のところに泊まりたい」と切り出した。

 一瞬虚を突かれたような表情を浮かべたお父さんだったけれど「……好きにしない。お母さんには、私から云っておく」と素直に私の望みを聞いてくれた。

 輝君の家に行くとは云ったものの、すぐに向かうことはできなかった。自分の表情をうまく取り繕う自信がなかったからだ。

 とりあえず神保町近くの駅で電車を降り、夕暮れの東京の街をあてどなく彷徨う。

 休日は輝君と一緒によくこの古本の街を散策する。

 インターネットが普及した今となっては稀覯本を街中で偶然見つけて手に入れるということは殆どなくなってしまったけれど、それでも時折奇跡みたいな出会いがある。

 そもそも私と輝君の出会いだって奇跡みたいなものだった。

 大学の図書館で偶然同じ本を、偶然続きで予約したのがきっかけだ。

 輝君は文学部、私は教育学部。教養課程の授業でもない限りない出会うことのなかった私たちはこうして同じ本を通じて知りあった。

 輝君は優しかった。私の知らないことを一杯教えてくれた。

 最初は私の病気のことは内緒にするつもりだった。私の寿命は既にロスタイムに入っている。幸い治験薬のおかげで症状は抑えられているけれど、お医者様に云わせると病巣の広がり具合から云って普通に生活できていることが奇跡みたいなものだということだった。

 だけど私が検査で数日入院していたところに輝君がお見舞いに来たのだ。驚く私に「……悪いかとも思ったけれどけど学部の子に聞いてきた」と少しバツの悪そうな感じで輝君は云った。

 それでも私の詳しい症状までは家族以外の誰にも告げていない。学部の同級生たちにも昔からの持病の定期検査だといってある。だから、この時の私も同じ言い訳をすればよかったのだ。

 だけど少しぶっきら棒で、それでもとても優しい表情を浮かべる輝君に隠し事はできなかった。だから私は素直に告げたのだ。私の寿命はもう尽きかけていて、これ以上、私のことで悲しむ人が増えるのが厭だから、私と関わるのはもうこれっきりにして欲しい、と。

 まだ知り合って間もない輝君に何故自分の秘密を切り出したのか、その時は自分でも分からなかった。だけど今ならわかる。私は無意識に輝君に助けを求めていたのだ。

 私の告白を聞き終えた輝君はしばらく何か思案するような顔になった。

 私はと云うと、自分が悲劇のヒロイン気取りで自分の症状を告げたのではないかと内心ひどく後悔していた。

 そんなみっともない醜態をさらすくらいなら、誰にも迷惑のかからないところで黙って死んだ方がいいとさえ思った。

 輝君は腕を組み、自分の額を右の人差し指で軽くとんとんと叩きながら依然として何か考えていた様子だったけれど、突然そっぽを向いた。

 呆れられたかな。これで輝君とお話しするのも最後かな。

 そう思っていた私に輝君は思ってもいないことを告げた。

「……じゃあ、俺たち付き合おうか」

 自分の聞き間違いかと思った。思わずおうむ返しに聞き返した私に、輝君は顔を真っ赤にしながらもう一度云った。

「だから付き合おうかって云ったんだよ。たとえそれがどんな短い期間であっても」

 もう少し輝君と付き合ってから分かったことだけど、輝君は本来こんなことを云える人じゃなかった。ひどく恥ずかしがり屋で、それでいて少し偽悪的なところがある。

 高校時代からそうだったそうだ。成績は文系で高校二年から学年トップを維持し、それでいて周りには誰にも寄せ付けなかったらしい。だけどただのガリ勉なのかと思ったら、文化祭でも体育祭でも自分一人でできる範囲のことは誰よりも全力で取り組んでいたらしい。

 勿論この話は本人の口から聞いたわけではない。「あいつ、大学生になってから変わったね。それとも貴女のせい?」偶然私と同じ学部にいた輝君の高校の同級生が私にそう云ってきたのだ。もっとも遠まわしにその話を輝君にしたところ、輝君自身は彼女の名前さえ知らないようだった。本当に高校時代は孤高の学校生活だったらしい。

 輝君が偽悪的なところがあるのは優しさの裏返しだということを今の私は知っている。輝君は優しいから人一倍傷つきやすい。同時に人一倍優しいから、他人の痛みまで自分の痛みにしてしまう。だから、自分から人と関わろうとしないのだ。

 だけど、そんな輝君が私のために手を差しのばしてくれた。先のない私の存在は最終的に輝君を傷つけるだけだと知っていながらもなお、私と関わることを選んでくれた。

 そのことが私にとってどれだけ救いになったのかは輝君は気付いていないだろう。

 輝君の存在がなければ、先程の診察室で私は取り乱していたに違いない。自分が最も嫌う、自己憐憫の塊になっていたに違いないのだ。

 気付いたら、涙がポツリポツリと両の眼から零れていた。

 私は慌てて目を擦る。これから輝君の家に行くのにみっともない姿を見せるわけにはいかない。

 最期の最期まで、凛としていよう。

 最期の最期まで、輝君に相応しい彼女でいよう。

 そう覚悟を固めた私は本格的に輝君へのプレゼント用の本を見繕うことに決めた。何か言い訳がないと輝君が私の突然の来訪を訝しむ可能性があるからだ。

 そう思って入った一件目の店でいきなり輝君が以前欲しいと云っていた「クララの明治日記」のフランス語版を見つけた。

 古本収集の際に時折ある「偶然と云う名の奇跡」だ。本は所持すべき人のところ自然と収まるという奇跡で、私自身何度か経験したことがある。

 欲しい本は自ずと自分の目に留まるのだ。

 ……輝君が私に目を留めてくれたのも、そんな奇跡の一つだったらいいな。

 私はようやく冷静になって私自身を見つめなおすことができた。

 地下鉄を乗り継いで最寄の駅で降り、途中のコンビニでチキン南蛮弁当を調達する。

 輝君の住むアパートの前まで来ると、深呼吸を何度か繰り返す。

 もう大丈夫。いつもの私に戻っている。

 輝君には今日のことは最期まで黙っていることをもう決めている。

 私が死んだ後、きっと輝君は怒るだろうけれど、最後の私の我儘だと思って許してもらいたい。

 その代り、私は最期の瞬間まで、輝君が好きになってくれた私自身でいるから。

 輝君に貰ったアパートの鍵をゆっくりと開ける。このアパートは狭いから玄関から奥のリビングまで丸見えだ。

 輝君は海外サッカーを見ていた。

 いつ気付くかな。集中すると周りのことが見えなくなっちゃう人だから、試合が終わるまで気づかないかな。

 軽い悪戯心を起こした私はそのまま玄関に立ちすくむ。

 ……どうか最期の最期の瞬間まで、私が私のままでいられることを心から祈りながら。

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