天使の梯子
@soranoao0202
第1話
暗い、暗い世界で生きてきた。
明るい陽の中で何も知らずに生きてきた生活は、自らの手で投げ捨てた。
指の先から、頭の先から、足の先から、すぅと冷えて温まらない。
自らの手で人生を終える事も出来ず、ただ『生』にしがみつくだけの日々の中、何のために生きているかも分からず生かされるままに生きている。
「神の御加護を」
袋小路に追い込まれ、行き場を失い、絶望の中で目を剥いて口の端から血を零す男を無感情に見つめながら、小さくそう呟いた。
意味はない。
祈りもない。
慈愛もなく慈悲もない。
ただ形式としてそう呟いて、男に突き立てたナイフを引き抜いた。
勢いよく溢れた赤い液体が堰を切ったように吹き出し、闇夜の中冷たい石畳の上に、自分に、雨のように降り注ぐ。
と同時に、キィィイと耳を引き裂くような音が響き渡り、男は闇へ吸い込まれるように影も形もなく消えた。それが、俺の生まれ持った能力だった。
確かにそこに降り注いだ雨は生温く頬を伝ったはずなのに、跡形もなく染みも残さない。
何もない、ただ無の空間を見つめながら、浅く、浅く息をしていた。
空を仰ぎ、黒く塗りつぶされた夜の帳に白く吐息が霧散する。
(あぁ……)
声にならない声をこぼして、誤魔化すようにタバコの火を付けた。
そもそも事の始まりは何だったのか。
この世には、稀に何かの力を持った人間が生まれる。
サイキックでも魔法でもない。
一つの力しか使えず、遺伝でもない。
科学の力を以ってしても解明できないそれは、その能力の希少さから異能と呼ばれ、それを持つ者を異能者と呼び蔑まれる。
いつの世も、少数派が貶められるのだ。
生まれつき持っていたであろう俺の能力は、物心ついて…十の頃に開花した。
そしてそこから、闇の中へと身を投じたのだ。
(帰ってシャワーを浴びて…。早めに報告書を書かなければ…)
心の中で独りごちて振り返ろうとし、はたとその動きを止めた。
タバコの火はジジジと小さく鳴って、吸ってもらえなくなったことを抗議する。
見開いた目の向けられた先に、“ソレ”は居た。
白い肌と、少し煤けてはいるが白いワンピース。
色素の薄い髪に色素の薄い目をジッとこちらに向け、事もあろうか少女は小さく笑った。
薄暗い路地の壁に身を任すように座り込み、弱々しく脚を投げ、座り込んでいるという事は恐らくずっとそこに居たのだろう。
(気づかなかった)
気づかなかったのだ。
気配を感じ取ることには自信があった。
十の時から暗殺者としてその能力を使ってきたのだ。
たかだか少女の気配に、十数年暗殺者として生きてきた自分が気づかなかったのだ。
それに何より…。
(嘘だろ…。まさか…そんなはずは…!!)
タバコの先からポロリと灰が落ちて地面を叩く。
息をする事を忘れるほどに、その少女を見つめた。
他人の空似と言うにはあまりにも似すぎていて、これまでもう長い間思い出すことのなかった昔の記憶が頭を駆け巡る。
「…ウミ…?」
『ウミ、あんまりそっちに行くな。落っこちちまうぞ』
ウミはその名前のせいか、海岸沿いの歩道を歩く時はいつもフェンスのギリギリで海の近くを歩いた。
まだ幼く小さな足に、彼女お気に入りのサンダルがピコピコと音を鳴らす。
テンポよくピコピコと音を立てながら、ウミはいつだってニコニコしながら歩いて居た。
そもそも冷めた人間だった俺もまだ手も背も小さく、ウミのもっと小さな手を握り、言葉少なく隣を歩く。
ただひたすら耳につくピコピコ音と波の音。
田舎の海岸沿いのよくある景色だったはずだった。
ふと靴紐が解けていることに気づいて立ち止まる。
手を解いたウミがちょこちょこと先を歩くのを確認し、気持ち急いで靴紐を括っていた時だった。
ーキキィィイ!!!
劈く様な音に振り返ると意味の分からないほど乱暴な運転の車が、ガードレールで車をすり減らしながら迫ってきていた。
(危ない)
そう感じた時には遅く、車は真っ直ぐに少女を隠した。
人はあまりにも脆く儚く、一瞬で潰える。
その中に慈悲はなく、慈愛もなく、加護もない。
人生というものはそういうものだと悟った。
興味もない。意味もない。
ただひたすらに、全てが終わる事を望んだ。
自分の荒んだ日常の中で、ただ一つの希望だった少女が、知らない所で成長して目の前に現れたかのように、その少女はウミを彷彿とさせた。
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