第24話 ヘンリー(7)濡れた翼の天使
シュレーの部屋はどうやら、ここからさほど遠くないらしい。しばらく歩いてたどり着いた場所は、どうやら低所得者が多く住む区画のようだった。
「これでもささやかなアトリエを構えてるんだぜ、ヘンリー」
シュレーはそう言うと、錆びついた階段を降り始めた。アトリエとやらはどうやら、地下にあるらしい。階段を降りて招じ入れられた部屋は、何かの倉庫だったらしい石造りの空間だった。
中に入ったヘンリーの目に真っ先に入ったのは、所狭しと立てかけられたイーゼルと、そこに置かれた制作中の作品だった。薄暗く、壁は黒ずみだらけだが、作業に集中するにはもってこいの部屋だった。
「どうだい、僕の作品は?君には刺激が強すぎるかな」
シュレーがどこか面白がるような口調で言った。アトリエを埋め尽くす作品の大半は、若い女性の人物画だった。女性は皆、下着姿か半裸に近い格好で、中には胸をはだけた絵や、下半身をあらわにしたものさえあった。
「君は一体……」
ヘンリーがそう言いかけた時、部屋の奥に置かれたソファーの上で、何かが身じろぎした。やがて茶色のソファーに被せられた毛布が、もそりと膨れるような動きを見せたかと思うと、その下から予想だにしなかったものが顔をのぞかせた。
「うっ」
ヘンリーは思わず目を伏せた。退色した毛布の下から姿を現したのは、下着姿の少女だった。少女はくしゃくしゃのブロンドをかき上げると、不思議そうな目でヘンリーを見た。
「おどろかせてすまない。今、制作中の新作のモデルなんだ。名前はレイチェル」
下着姿の少女はソファーの上に四つん這いになると、上目遣いで笑いかけた。ヘンリーは警戒を強めた。この子は若いがもう「少女」じゃない。何か別の生き物だ。
「ヘンリー、先ほどの君の「作品」を見て思ったんだが、君は現実の女の子をよく知らないのだろう?僕はそう直感したよ」
ヘンリーは閉口した。からかわれたと思ったからではなく、現実の女の子に関して知りたいことなど、これといって無かったからだった。
「君がもし、自分の作品の世界を広げたいと望むのなら、君は今の幻想から抜け出して現実を知る必要がある。それこそ、君が大事にしている少女たちの汚れた部分も含めてね」
――汚れた部分だって?僕がいつ、そんな物を知りたがった?……そこにいる少女の偽物も、キャンバスに描かれた小さな娼婦たちも、僕には一生無縁の存在だ。シュレーにはそれがわからないのか?
「ヘンリー、僕には君が望んでいることが手に取るように分かる。君はつまらない大人たちなど、いなくなってしまえと思っているんだろう?だがそれは、間違った考えだ。なぜだかわかるかい?」
ヘンリーは頭を振った。わかる必要があるのか、という意思表示の代わりだった。
「大人たちがいなければ、君の好きな少女たちだって、生き続けられない。少女の美しさを支えているのは大人の経済力だ。少女の価値に対価を支払うことのできる大人がいて、初めて少女は少女たり得ることが可能なんだ。そうでなければ、裸の女の子など、ただのわがままな獣に過ぎない。そんな物に僕は一セントだって支払いたくはない。
わかるかい、ヘンリー。僕が彼女に魅力的な下着を与え、価値ある仕草や表情を教えるんだ。そしてそれをキャンバスの上に焼きつけるのさ。そこまでして初めて、ただの女の子が魅力的な少女になるんだ。君の少女たちは悲しいかな、少女の形をした子供でしかない。男の子に女の子の服を着せただけの妄想の女の子に過ぎないんだよ」
シュレーは一気に語ると、血走った目でヘンリーを見据えた。
「うん。そうだね。そうかもしれない。……でも、それの何がいけない?」
ヘンリーは一方的にまくしたてるシュレーに対し、初めて異を唱えた。どんな中傷をぶつけられようと、自分の王国が穢されることはない、ヘンリーはそう確信していた。
「ヘンリー、大人を否定するな」
唐突に、シュレーが真顔で言った。口調もそれまでとはうって変わって真摯な物になっていた。
「大人が死に絶えたら、必ず子供も巻き添えになる。これは保証していい。子供には一定数の保護してくれる大人たちが必要なんだ」
「一定数って……どのくらいの人数だい」
「そうだな……子供十人に対して、少なくとも二人くらいの大人は必要だ」
ヘンリーの脳裏にふと、養護施設にいた時の事が甦った。好き勝手に騒ぐ子供たちに、言う事をきかせる役割の大人がたしかに、一人か二人はいたようだ。ひどい場所だったが、その大人たちがいなかったらもっとひどい場所になっていたかもしれない。
「わかったよ。たしかに少しは大人も必要だ。……ただし、子供たちをいじめたりしない、賢い大人に限るけどね」
「素敵……あなた、意外にいさましいことを言うのね」
気が付くと、レイチェルという少女がいつの間にか、すぐ近くまで来ていた。レイチェルはヘンリーの顔に自分の顔をふっと近づけた。ヘンリーが反射的に顔を背けると、追いかけるようにレイチェルの顔が寄ってきた。
「ヘンリー、逃げちゃ駄目」
そういうと、レイチェルはヘンリーの頬に、自分の唇を押し付けた。
少女の唇の感触は、ヘンリーにふと、幼い頃の記憶をよみがえらせた。おそらくは母親か、妹。そう言った身内とのスキンシップの記憶だった。
「ヘンリー、あなた年はいくつなの?」
「たぶん、二十五だ」
「二十五?その年で小さな女の子にしか興味がないなんて、なんて可愛そうなのかしら」
大きなお世話だ、とヘンリーは思った。
「今度、制作中のアトリエで、私がモデルをしているところを見るといいわ。無邪気な子にしか興味がないのは、あなたが女の子をよく知らないだけだってことを教えてあげる」
――なんだろう、この娘は。僕よりも七つか八つは年下だろうに。一体何を知っているというのか。
「いい?ヘンリー。必ず来るのよ」
レイチェルはヘンリーの手を包みこむように握ると、軽くウィンクをした。ヘンリーは、彼女のあまりうまいとは言えないウィンクに、なぜか胸が高鳴るのを覚えた。
〈第二十五話に続く〉
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