116 - 見送る者、捨て置かれた者
煌めく水竜の背に乗った船は、遥か彼方の水平線に姿を消した。
レグアラの方角から向かってきた船団、突如崖下の海に現れた3隻の帆船、そして渦巻く海流かと思われたものが、竜へと姿を変えて宙に舞い、船たちを取り囲み駆けて行った。
信じられないような出来事が、次々と彼女たちの眼下の海で繰り広げられたのだ。
「……行ってしまいましたね」
「気付いたかしら」
海から吹き付ける強風が、外套や髪を、馬の鬣を弄る。
娘は鳶色の瞳をもう一人の娘に向けた。
「気付いてなくてもいいの。無事に逃げ切れたことを、この目で確かに見届けることができたんだもの」
編み込んで纏めていた桔梗色の髪を解き、風にかきまぜられるままにしていたその娘は、乱れた髪を両手で押さえながら言った。そして、遠い水平線から傍の二人に視線を移して微笑む。
「一緒に来てくれて助かったわ。さすがに一人じゃ不安で。私の家には、こんな無茶に付き合ってくれるような人、いないんだもの」
「無茶をした、という自覚はあるんですね」
「あるわよ、それはもちろん」
黒紅の髪の男が呆れながら溜息を吐くと、娘はくすくすと笑う。
「こんなことなさるのはヘルガお嬢様だけかと思っていましたが、やはりナタリエ様の血を引いてらっしゃるだけあるというか……」
「アルジュート氏の家系は、冒険心が強いってことですかね?」
「そうかもしれないわね」
灰褐色の髪の娘が言ったのに、楽しげに頷いてエミリアは首の後ろで髪を一つに括り頭巾を戻した。
「さぁ、帰りましょう。みんなが心配しちゃう」
傾いてきた夕日が沈んでしまう前に街に辿り着かなければならない。
往路は、海賊討伐隊の後ろをつけてきたわけだが、復路はそうはいかないだろう。
それに、今見送った船を追うことを諦めた船がレグアラへと戻るはずであるし、市長による詔書の公表を受けての街の様子も気がかりだ。
彼らは手綱を引き、馬首を返してその場を後にした。
草の少ない岩の大地には、相変わらず強い風が吹いていた。
鬨の声と、人馬の入り乱れる光景、目の前に迫った化け物の眼光が、脳裏に焼き付いている。
鋭い痛みを感じ、意識は途切れてそのままになるはずだった。全てから解放されるはずだった。だが、一瞬の暗転の後、すぐに彼は気付いた。そして全身を支配するだるさと末端から這い上がってくる冷気、貫かれた左肩と脇腹の焼けるような激痛が間断無く彼を苦しませていた。
地面が湿っていたのだろう、背中に濡れた感触がある。そして空には流れの早い雲。雨が降り、夜が来てもおそらく自分はこのまま野晒しになっているのだろう、と思った。
身体が動かないのだ。
「……」
大切にしたいと思っていたものを失った時から、あるいは死に場所を探していたのかもしれない。
そう、彼は死んでもいいと思っていた。何かの為に、自分の認めたものの為に捧げられる命なら、惜しくないと。生き延びた意味を見出させてくれたものの為に投げ出せるならば本望だ、と。
だから、あの男の言葉など、痛くも痒くもなかった。
ただ、自分の信じるものが、侮られたことに怒りを感じた。
それから、自分が投げ出そうとしたものを惜しんでくれた者に申し訳ないと思った。
同時に酷く恨めしかった。縋りつきたい気持ちを、自覚したくなどなかった。
心の奥底に確かにあった、だが押し込めて無いことにしていた恐怖を、増大させ突きつけたのは紛れもなく生への執着。とうに失ったと思っていたものに気付かされたからだ。
だがもう、どうしようもない。嗚咽すら、言葉すら、発することが出来ない。
「……」
終わりは、もっとはっきりと来るものだと思っていた。断ち切られるように、潔く訪れるものだと。
こんなにも、激痛と恐怖とやるせなさを感じながら、ゆるゆると訪れるなどとは思ってもみなかった。
本当なら、押し寄せるどうしようもない感情と苦痛に叫び、もがきのたうち回るのだろうが、彼は動けなかった。そして、諦めていた。痛みが消える時が終わりだろうと早くから気付き、ただじっと耐えそれを待っていた。そうすることしかできなかったからだ。
「……?」
足音が近づいてくる。大きな四足の獣はおそらく、先程自分を襲った魔物だろう。
モイールの村に、カーティスと引き続き調査する者達を残して、部隊の3分の2は撤収した。洞窟の外で待機していた者達が、水竜の出現と海賊の逃走、討伐隊の船がレグアラへ引き返すのを目の当たりにし、知らせたためだ。
オブライエンという大男に引きずられて村を後にし、馬で走り出して間もなく、部隊は魔物の群れに襲われた。既に彼の目は霞みはっきりと見ることはできなかったのだが、醜く潰れた豚顔の魔物だった。
他よりほんの少しだが知性を持つ、かの魔物達は普段人が通らない場所を人馬が駆け抜けたのを知り、再度そこを通るところを狙って襲撃をかけたのだった。
数名の犠牲を出したものの、メルドギリス兵らはよく戦い魔物達を撃退した。だが彼は、戦闘が始まって間もなく何かに左肩を、続けて右脇腹を貫かれ馬から振り落とされた。全身を強く打った衝撃に頭がくらみ、起き上がろうして叶わず、次の瞬間彼の身体は白い獣の咢に挟まれていたのだった。
そして意識を手放した彼が気付いた時、周りは静かになっていた。風に乗って漂う焦げ臭いような生臭いような臭いだけが、現実を示していた。
――終わらせるなら、さっさとしてくれ
投げやりにそう願って、彼は瞳を閉じた。自分に死をもたらすものを見ておきたい気持ちもしたが、その恐ろしい姿を目の当たりにして最後に更なる恐怖を味わうのは嫌だった。
まだ暗闇の方がましだと思った彼の意識は、やがてそのまま闇へと墜落して行った。
「お願いだから、無茶をしないで下さい!」
娘が手綱を握りしめながら悲鳴の様な声を上げた。
「あぁ、ギュンター! 囲まれてしまったわ。馬に乗って! 駆け抜けてしまいましょう!」
「だめです! とてもじゃないが、突破できない!」
そう叫びながら、男は慣れない手つきで剣を振るっている。
最初は、ほんの3匹だった。頭部に多数の角を生やした猪の化け物は、さほど大きくもなく動きも目で追える程度で、強敵には見えなかった。
ただ、しきりに唸り馬達の足元目がけて突進してくるものだから、転ばされてはたまらないと彼は降り立って剣を抜いたのだ。
普段手にすることのない重みに手元も足元も覚束ない。だが、使い方を全く知らないわけではないのだからと、彼は自らを叱咤し魔物に挑みかかった。
本当は、逃げ出してしまいたい。馬に飛び乗り脇目も振らず駆け抜けてしまいたい思いだったが、次々に現れた魔物は気付けば十を超えている。後方には、おそらく親猪くらいの大きさのものもいて、すっかり囲まれてしまっていた。
「くそっ!」
騎馬での戦い方など知らない。どうすれば突破できるかの検討もつかない。逃れることが出来ないと心のどこかで気付いているだろう、せめて怯えた馬上の娘達を守らなければと、飛びかかってくる小猪を薙ぎ払う彼の額には大粒の汗、既に息は切れ肩が大きく上下している。
「なんとか、隙を見て、突破して下さい! おれがひきつけます!」
「だめよ、そんなの! あなたを放ってなんていけないわ!」
角か牙が何度か掠ったのだろう、傷を負う男の言葉に、エミリアは強く言い返した。
自分の身勝手に巻き込んだ彼を、こんなところに置いて自分だけ逃げるなどできるわけがない。
「ヨハンナ、エミリア様を!」
「嫌ですよ、そんなのっ!」
連れて逃げろと男が言い切る前に、娘は泣きそうな声で叫んだ。
これがもし、あの旅人達なら、きっと無事に帰ってきてくれると思えるから従える。だが彼は、そうはいかないはずだ。ここに一人置いて行けば、確実に――
「きゃぁぁー!」
猪の化け物の後方を見つめて、エミリアが喉を裂かれた様な悲鳴を上げた。
あぁ、きっと、もっと大きな化け物が現れたのだと予感してヨハンナは咄嗟に其方に目を遣ることを躊躇う。
「ギュンター、無理だわ! 敵うわけがない……」
反射的に向こうとしたのを押し留めたヨハンナだったが、消え入りそうなエミリアの声に恐る恐る其方を見た。そして、その姿を目の当たりにして思わず声を上げた。
「レシファート!!」
娘の声に、同じく叫んだ男の声が重なる。
並の三、四倍はあろうかという大きさの、白い狼の魔物がそこに居た。
猪などより強大な肉食獣の魔物を前にして、普通なら恐慌状態となってもおかしくはないだろうが、その白狼が人に従う使役だと知る二人は安堵のあまり泣き出しそうになった。
「え……?」
喜色を浮かべた二人に、エミリアは混乱した様子で何事かと瞳で問う。
「大丈夫です、エミリア様! 助かりましたよっ!」
ヨハンナが笑顔で頷いた。
「!?」
見れば白狼は大小猪の群れに勢いよく突っ込み、踏みつけ蹴散らしている。
「どういう、こと……!?」
エミリアは訳が分からず呟いた。
魔物が共食いをしているという訳ではない。明らかに自分たちを助けるべく戦っているのだ。
その圧倒的な力の差に、敵わないと悟った魔物達はすぐさま散り散りに逃げ出した。
「あの白狼は、セフィさんの使役なんですっ!」
ヨハンナはそう言うって馬を下りると、最後にもう一度低く唸って威嚇し魔物の群れを遠くへ追いやった白狼に駆け寄った。
ギュンターもまたほっとしたように剣を仕舞い馬の手綱を引いてヨハンナに続く。
『お前達、何故こんなところに居る? 何をしているのだ』
彼らの方を向いた白い獣は、徐々に元の大きさになりながら脳裏に響く声で人の言葉を話した。
その高い知性を感じさせる物言いは冷たく、
「それは……」
鋭い橙の瞳が射抜く様で恐ろしい。エミリアは思わず立ち竦んだ。
魔物との戦い方を知らない身で勝手に街を出、こんなところまで来てしまったのは、イオルズたちの無事を見届けたかったから。だがその無謀は咎めを受けることだと知っている。言い訳のしようもない過ちだ。
言葉を続けられない彼女を、だが意に介すことなく白狼は誘うように背を向ける。
『まぁ、いい。丁度よかった。一緒に来てくれ』
「どうかしたのか?」
問うたギュンターに頷いて答えた。こんなところに居る理由を問い詰めたり非難する素振りを微塵も見せずに。
『人間の男が倒れている。街まで運んでほしい』
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