第3部

089 - 雨の檻

 その空に、太陽はなかった。

分厚く垂れ込めた灰色の雲は常に黄昏時のほの暗さを湛え、時折駆ける稲妻が雷鳴と共にそこにヒビを入れている。

彩度の限りなく低い大地に息づく生命は、異形。

空を舞うものもいるそれらは、あるいは美しく、あるいは醜く、だがどれも禍々しくおぞましい姿をしていた。

剥き出しの岩肌と判別などつかない瓦礫の山々に覗く人工物は、かつての文明の残骸。

立ち枯れ、あるいは焼かれた姿のままの木々の森、そして毒々しい色をした湖沼の数々。

 今、それらを見下ろす塔の露台に立つ彼の頬を、生暖かい風が撫でた。

艶やかな漆黒の髪が揺れ、微笑めば少女と見紛う愛らしさを見せるだろう整った顔立ちをしたその少年は、勿忘草色の瞳をやや不快げに眇めて、見るとはなしに見ていた景色から露台の奥へ視線を移した。

 磨き上げられた硬く冷たい床に稲妻が描いた自らの影を踏んで、室内に入る。

長椅子と卓、そして大の大人が三人は軽く寝転がれるであろう寝台のそこに、小さな生物が居た。

 羽を畳み、丸くなって眠る紫銀色の子竜。

「……」

 少年はその傍らに腰を下ろした。

それに伴い寝台が沈み込むが、気に留める様子も無く子竜の小さな身体は呼吸に合わせて微かに上下している。

鐵色の翼、すべらかな鱗に覆われた体躯、頭頂部から尾の先まで続く長い鬣は金属的な光沢を湛えて美しい。

この小さな竜が神獣と呼ばれるほど人々を惹きつける美しい生物だということは理解に容易く、美醜に疎い少年だが、子竜がとった幼い人型の姿もまた、綺麗な子供だと感じていた。

「……?」

耳だけが、ピクリと何かに反応を示したかと思うと、部屋の扉が機械的な音と共に開いた。

「――様子はどうだ?」

部屋に入ってきた男が、音もなく歩み寄る。低い声が問い、少年はちらと其方を一瞥した。

 襟足を隠す程まで伸びたまっすぐな青緑の髪は、秀でた額で左右ほぼ均等に分けられ輪郭を縁取っている。

涼やかな目元と薄い唇、怜悧な印象を与える容貌に感情は読み取れない。

彼は、少年が物心着いた頃からそこにいて、だがまるで時を刻むことに倦いたかの様に何一つ、外見的変化が無い。

 もっとも、傍に居る子竜もまたずっと幼いままだから、少年はある時まで変化(成長)する自分の方が奇異なのではと思っていた。

 今更それを不思議に思うことも無く、20代後半と思しい容姿を見つめた後で、

「……眠ってる」

見れば分かることだが、少年は答えた。

 時々子竜は、前後不覚の眠りに陥ることがあった。

そしてそれは幼生であるが故のことで、本来なら竜はその長い眠りによって急激な成長を遂げるはずであることを、少年は傍らの男から聞いて知っていた。

だが恐らく、この眠りから覚めても子竜の姿は変わることはないだろう。

 大切なものを見失った瞬間から子竜もまた、時の流れを忘れたのだという。

「そうか。そろそろ目覚める頃かと思ったが、まぁいい。枢密院には遅くなる旨私から伝えておこう」

「……」

無言で頷く少年。

見下ろす男の鋭いペリドットの瞳が、薄明かりの中で黄金のようにも見える。この男もまた、どこか人外の気配を漂わせていた。

「セス。聞いてもいいか」

子竜を見つめる彼が立ち去る素振りを見せないので、少年は不意に心に過ったことを聞いてみたくなった。

「なんだ」

感情の読み取れない瞳は、子竜に注がれたままだ。

「……ヤツら……枢密院って、何なんだ……?」

深い闇の空間に浮かぶ、幾人もの気配。高圧的で侮蔑に満ちた声と嘲りの笑い。

 男は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにそれも消えた。

「……太古の遺物。肉体という器を失ってもなお生に執着する哀れな魂……いや思念と言うべきか。永きまどろみと刹那の覚醒を繰り返しながら、輪廻に因らない転生と再生による永久<とこしえ>という、不叶うの夢を求める愚かなりし人の成れの果て。……自らの消滅を知らぬまま不滅という甘い夢を見続ける幸いなる魂……」

「……?」

明確な答えを期待していたわけではないが、不可解な物言いに少年は眉間に皺を寄せる。

「アレがなにであるかなど取るに足りないことだ。お前はただ"その時"まで健やかに在ればいい」

「……」

だが、取るに足りないと言いながら、会談せよと彼は言う。その真意が未だに全く読めない。

 男は薄い唇に笑みを浮かべて少年を見、それから踵を返した。

「わかっていると思うが、アレにお前たちは何だと問うても無駄だぞ」

長衣を纏った背でそう言って、男は部屋を出て行った。



 大粒の雨が激しい音を立てて窓を打つ。

暗い夜空に降る雨は彼らを小さな檻に閉じ込めていた。

「そんなに睨んでも、雨は止まないぞ。イザヤ」

窓の外を見つめ、少し前の出来事を思い出していた少年に幼い声が言った。

 不意に焦点位置が変わり、窓硝子に映った自分の姿と目が合って彼は視線を逸らすように声のした方を見る。

「逸る気持ちはわかるけどな」

寝台の上で丸くなり、眠る姿勢のまま子竜は薄らと瞳を開いた。

「別に、そんな気はない」

早く雨が止むように、早くこの地を出立できるように。そう何かに祈っていた訳ではないと、少年は緩く首を振る。

子竜は顔を上げ少年のどこか不機嫌な、何か言いたげな顔を見ると、身体を起こし話を聞く姿勢を取る。

「――ブラッディ。セスが言ったことは、真実だと思うか?」

既に冷めた茶で咽喉を潤してから、少年は問うた。


――お前の探し人は"西"に渡っている。――かなり確かな情報だ

――……つまり――生きているということだ

――お前の兄、確か名をローレライと言ったな……?

――そいつもまた、"西"にいるらしい

――最近確証を得た。"西"<ティグレ>だ


 イザヤには、ブラッディがセスに寄せる信頼が理解できなかった。

命を助けられたから――それだけではない何かが、あの男とこの子竜の間にはある。

その"何か"がいつまで経っても不明のままで、少年はセスに対する不信感を拭えずにいた。

 ブラッディがイザヤを守り育てるのに精一杯で、その間兄であるローレライ=ウォルシュの足取りを把握しておくことが出来なかったと言ったことは、無条件に信用できたのに。

「……セスが俺に偽りを言う理由がない」

少年の問いの意味を少し考えた後で、ブラッディは答えた。

「仮に俺を騙したとして、それが露見した時に被る不利益の方が大きいだろう」

自分は、あの男にとってまだ利用価値のある存在だとでも言いたげな表情。

「露見しなければ?」

「それは無いだろうな。その真偽はいずれ必ず分かることだ」

「――捜し求め続ける限り、か」

人の姿より、幾分表情は読み辛い。だが子竜は真剣な眼差しで言った後僅かに頬を緩める。

「俺が求める答えに縋っているというのも、勿論あるだろうが。それでも、生きているということだけは真実だと感じるんだ」

「……何故?」

呟くように少年は問うた。激しい雨音にかき消されそうな声は、だが確かに子竜に届いていたようだ。

「もうこの世に居ないとしたら、俺は生きていないから」

小さな竜は、黄金と深紅の瞳をどこか遠くに向けて言った。

あまりにも確信に満ちた声音が、何故か不安を掻き立てる。

「どこかで生きていると、無意識の俺が感じているからこの胸は鼓動を刻んでいる。それが、セスの言葉で確信になった。それだけだ」

きっぱりと言い放つ未だ幼い声。その、思いの深さは計り知れない。

 だが少年は、子竜が今まで何度も捕らわれそうになった暗い感情を知っていた。

もうこの世にはいないのではないかという絶望感がもたらす暗澹とした思いに幾度となく取り込まれそうになったのを知っていた。

 そのたびに、縋りついた希望。

そしてそれが現実だと明言したセスの言葉。

「……だとしたら、気持ちが逸っているのは俺よりもお前の方だろう」

やや呆れたようなイザヤの言葉にブラッディはフッと瞳を細めた。

「それは否定しない。だが、急いても仕様がないんだ、イザヤ。雨雲の上を飛んで大陸を渡れるほどの力は今の俺にはない」

「! そういう意味じゃ……」

幼いが故に制限される能力。自嘲気味に首をすくめた子竜に、少年は慌てて首を振る。

そんなことが言いたかったわけではない、と。

 少年には、それほどまでに恋い慕う気持ちが理解できなかった。

物心ついた頃から、お前には兄が居てお前が大きくなったら探しに行くのだと言われていた。だが、その唯一の肉親なる人物に、彼は関心も興味も、ましてなんら親しみも思慕の情も持ってはいなかった。

 彼にとって兄を探すということは、自身の望みというよりもむしろ与えられた義務のようなものだった。

子竜は決して、自身の探し人に対するその思いを常に顕にしているわけではない。だが同じ様に誰かを探し求めていても、突き動かす思いは全く異なっていると少年は感じていた。そして時折垣間見せる激情とそれは、どれほど傍にいても、子竜の心を遠く感じる要因だった。

「お前のことだから、俺の方を優先させるべきだとでも思ってるのかもしれないが、お前の兄を見つけることも俺にとって果たすべきことだ。おざなりにするつもりはない」

子竜がそう言うのが、単なる責任感故ではないことは分かっている。大切にされていると感じる。それでも――

兄を見つければ、子竜のもとを離れて人間達の中で、ひととして生きなければならない。

子竜の探し人が見つかれば、自分はもう彼にとって要らなくなるかもしれない。

どちらであってもそれは、少年にとって嬉しいことではなかった。

 だがイザヤは了承の意を込めて頷く。それが本意ではなくとも、兄を見つけることを望んでいないと駄々をこねる訳にはいかない。そんなことをしても、彼を困惑させるだけだ。

「……あぁ」

雨が止まなければいいと、見つからなければいいと、心のどこかで囁く声がする。

「……わかってる」

この醜い思いを、子竜は恐らく知らないだろう。

ひととして生きることに対する不安を見せるのは、人間を憎む自分の傍に居たせいで持ってしまった感情故だと子竜は思っているはずだ。

 少年の答えに満足そうに瞳を細め、子竜は一度羽を広げて体を伸ばした。

獣の仕草で欠伸をして、また丸くなる。

 イザヤは視線を窓の方へ戻した。

激しい雨は、相変わらず辺りを閉ざしていた――。

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