090 - 呼ぶ声
水平線に向かって一隻の帆船が白い尾を引きながら遠ざかっていく。
明るい陽光に海原は煌めき、悠々と空を泳ぐ雲の陰が青に濃淡と不規則の模様を描く。
海から吹く強い風に鴎が戯れ、同じ風に弄ばれた長く伸びた草が馬の足をくすぐっている。
眼下に広がる白い町と海岸線、係留された船の集う港を、そしてもう一度遠ざかる船を見て彼は唇を噛み締めた。
風に煽られ視界を邪魔する髪を掻き揚げて、じっと見つめる彼が動けないのをいいことに、ゆっくりと、だが確実にその姿は小さくなっていく。
――あの、船だ……
白い花の甘く清しい香りを、彼は確かに潮風の中に感じていた。
手を放して、瞳を一度閉じて天を仰ぐ。
酷い焦燥感と叫びだしたい程の悔しさを、苦い思いを飲み下すように。
――間に合わなかった……
そして大きく息を吐いた。
おそらく僅か数刻の差。あと、ほんの少しで追いつけたはずなのに。
これ以上早駆けしても、距離を縮めることはもうできない。
だが――
細めた翡翠の瞳が再びその船影を捉えた。
おそらく、貨客船。しかもそれほど足が速い型式ではなさそうだ。
彼は強く、手綱を握った。
目指している場所は、見当がついている。ならばまだ、後を追うことは可能だ。
「頼むから、あまり先を急がないでくれよ――」
呟くように言って、彼は勢いよく馬首を取って返した――。
「どうしたの? セフィ?」
穏やかな海面を滑る様に船は沖へと向かって進む。
見る間に遠ざかる大陸の陰をじっと見つめる彼に長身の青年が声をかけた。
「忘れ物でもした?」
潮風にその長い髪を遊ばせて青年は覗き込む。
「え……?」
青い色硝子の向こうの瞳が、不意を突かれて驚きに瞬いた。
「時々、セフィってあっちの方見てるよね。何気なくだけど多分いつも同じ方向じゃない?」
言って彼はセフィが見つめていた方――つい今朝方後にした大陸を示す。
緑の丘とふもとの白い町並みが美しい港町、ザクファンスを出航した船上に彼らは居た。
ゆったりと揺らめく甲板、風と陽光を孕んだ帆が大きく膨らみ、眩しい光を湛えている。
「そう、ですか?」
意識していなかったことを指摘され、セフィは緩く首を傾げた。潮風に色素の薄い髪が揺れる。
「うん。そう。ちょっと東寄りの南と思うけど。何か気になることでもあるの?」
船の舷に身体を預け、甘いハスキー・ヴォイスで問う彼のタレ目がちな瞳は、この広い海原や晴れ渡った大空までが羨む程に美しい青。
「そういう訳ではないのですが……」
興味と気遣いの表情に、セフィは苦笑した。
目敏いと言うか、察しのいい彼は自分が気付いていないことに気付かせてくれることがある。
大粒の瞳を細めて、セフィは再度大陸へと目を遣った。
「何か……呼ばれているような気がするんです」
「呼ばれてる?」
「時々、不意に、です。とても遠い呼び声がする気がして。漠然とした感覚なのですが……」
「あっちの方からってこと?」
再度問うた彼に、セフィは淡く笑った。
「そのようですね……。今、あなたに言われるまで意識していませんでしたが」
「……見てこようか?」
言って彼は少し離れた舷に佇む大鷹の方を向いた。その目を借りて彼は遠くのものを見ることが出来る。
「いえ、あまりに不確かな感覚なので――」
突拍子もないことを彼は無条件に信じてくれる。
だが、自分の無意識の行動の意味を確かめるために、意味があるのかさえ分からないのに、彼に負担を強いるわけにはいかない。
時々漠然と、遠くから呼ばれている気がする。それはセフィ自身あまりにも正体の分からない感覚だった。
「もし、近付くことがあるなら、鮮明に明確になることがあるなら、それはその時でいいと思うんです。――ありがとうございます、ロル」
「そかそかー。いいえ~俺は別に何もしてないよ~」
彼は頭の後ろで手を組んでくるりと身を翻す。
「ま、使いっ走りくらいいつでもするから言ってね~」
鷹揚と笑う彼の心が嬉しくて、セフィは微笑んだ。ロルはいつもそうやって軽い調子で話す。だが、そこにある気遣いと優しさはとても暖かなもので、彼が男女問わずよくモテるのが得心できた。
もう一度、ありがとうございます、と小さく言って、セフィは大陸から視線を離した。
船首の方に目を向けると、青い髪の少年と赤い髪の少女が楽しそうにはしゃいでいるのが見える。
どこまでも広い空は青く透き通り、船が海を割る波の音と頬に触れる風の感触が心地いい。
これまで自分たちを包んでいた緑と草花ではなく、濃厚な潮と太陽の香りが満ちている。
そうして船は海原に儚い白の軌跡を残しながら、水平線へと向かって進んで行った――。
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