049 - 朝霧の森へ
あなたは混沌という名の
小さな白い鳥
お行きなさい
その心一つを持って
シスター=ジェニスの呼び声に、「今行きます」と返事をしてセフィは住み慣れた部屋――いつもと違う眼鏡をしているため、視界が少し青みがかっている――をざっと見渡した。質素ながらも清潔に整えられた室内、しばらく帰ることはないだろうからと片付けたため、生活観が薄れている。
今までの出立とは違う、不思議な感じがした。
外套を纏い、荷物を持って部屋を出ると、そこに静かに佇んでいたシスター=ジェニスと朝の挨拶を交わす。
老女はどこか感慨深そうにセフィを見、そして導くように歩き出した。
無言のまま青年と老シスターは正面玄関へと向った。この時間、他の修道女らは皆それぞれに勤めに当たっているため姿は見えない。皆との別れは昨夜に済ませた。
修道院正面扉の前までたどり着くとシスター=ジェニスは立ち止まり、静かに青年を見上げた。
「セフィ……」
老いて皺深くなった手を伸ばす。優しく垂れた目には僅かに光るものがあった。
青年はその手を取り、寂しさに彩られた微笑を浮かべる。
そして今まで世話になったことを感謝する意を伝えた。
彼が帰ってくる時、自分は変わらずここにいることが出来ないかもしれない――
そう思うとやはり手を離すのは辛い。
「どうか無事で……あなたの前途に幸多きことを祈っていますよ」
最後にもう一度、強く手を握り言うと老シスターは扉を開き青年を促した。
朝霧に白む景色に黒衣の男女。2頭の馬と旅の出で立ちをした金髪の青年が集っている。
「シスター=ジェニス、どうぞお元気で」
お元気で――いつものように微笑む老女。その姿を記憶に刻んで、セフィは扉を閉じた。
振り向くと、長身の青年が「オハヨー」と暢気に手を上げる。
「お待たせして申し訳ありません、おはようございます。――ウィダ司祭様、朝早くからすみません」
足早に歩み寄り朝の挨拶で答え、軽く頭を下げた。
「いやいや、私が来たかったのだよ。渡したい物もあったしな」
短く刈った白髪に切れ長の瞳、左目尻辺りから顎にかけて古いよぎり傷のあるその男は、息子の旅立ちなのだから立ち会いたいのだと優しい笑みを浮かべた。
続けて、戦闘では必要ないかもしれないがと前置いて細長い布の包みを差し出す。
「これは……?」
受け取り促されるままに包みを解くと、それは細身の剣だった。
「威嚇くらいには使えるだろう」
柄は小さく軽い。僅かに鞘から滑らせ現れた刃身は両刃。よく手入れがされており、油が滴るような鮮やかさを見せる。
「いい剣だな」
同じように覗き込んでいたロルが呟き、セフィは頷く。
「いいんですか……?」
「もちろんだ。もとは私のものではないのだが、お前ならば渡してもいいだろう」
そう言ってウィダは黒衣の女、シスター=マーサに一瞥をくれる。マーサは瞳で同意を示した。
自分たちの代わりにその刃がセフィの身を守ってくれるように――
二人の思いを感じながらセフィは深く礼を言い、剣を納めた。
そして、真っ直ぐに二人を向く。
「シスター=マーサ、ウィダ司祭様……今まで本当にお世話になりました」
「セフィ……」
別れは、昨夜に済ませた。長く引き止めることはせず、今はただ見送るだけ――そう分かっていても、やはり心は引き裂かれるような痛みを訴えかけてくる。
見上げた息子の表情もまた決して晴れやかのものではなかった。
それでも、覚悟を決めた者達は強く手を握り締め微笑み合う。
自らの足で歩き始めた子の手を離し、遠くから、ただ見守ってやるというのも親の役目だ。
いつも優しく、時に厳しく育ててくれた母。そしてマーサと供に父親のような存在として自分を愛してくれたウィダ。
その声を、姿を全てを心に焼き付けるように瞳を交わして、互いに別れの言葉を告げる。ロルはただその様を黙って見つめていた。
「それでは――」
残りの荷物を馬に乗せセフィは鹿毛の馬に、ロルは黒馬に跨った。
「どうか無事で……」
「お二人も……お元気で。後のことを、よろしくお願いします」
「ウォルシュ君、セフィを頼んだよ。――そして君の探し人が少しでも早く見つかるように祈っているからな」
「ありがとうございます。承知しました」
「あなたたちの前途に神のご加護があらんことを」
マーサと、ウィダの祈りの仕草が終わるのを待って頷き、二人は馬の腹を蹴る。
「――行ってきます」
とだけ言葉を残して視線を前に移しゆっくりと歩き出した。
晴れない朝の霧は、ひやりとした湿り気と供に甘い香りを孕んで漂う。
真っ直ぐに前を向いて馬を進めるセフィは、二人がまだ、自分たちを見送っているであろうことを知りながら、一度として振り返ろうとしなかった。
「いいの?」
そんなセフィの様子にロルが声をかける。
「いいんです」
セフィは答えた。
任務を終えるまで帰郷は許されないとは言われなかったが、ある程度区切りがつくまで帰るつもりはない。
それでも、二度と帰らないわけではないのだから。
それに自分が見つめれば、彼女は涙を堪えるだろうから。
二人の姿が霧の森に消えていっても暫く、マーサはその場を離れられなかった。
瞬いた途端、頬を伝ったものを慌て拭う。
「マーサ……」
泣けばいい。ウィダはそっとマーサの肩を抱いた。
「ちょ、ウィダっ」
「誰も見てやしないさ」
男は抗おうとする女をそう言って封じる。
気丈な彼女は、院に戻れば、皆の前では、すぐにいつものように振舞うだろうから。
「俺の前でまで、強がる必要はないだろう」
それに、涙を流すのは弱さなどではない。
「……前にもどこかで同じようなことを聞いた気がするよ」
マーサは苦笑し、また零れた涙を拭った――。
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