050 - いつかくれた言葉を
時々、自分がそこにいることが不自然に思えることがあった。
自分には帰る場所があり、迎えてくれる人がいる。
優しい人たちに囲まれているのに、ひどく寂しいような、切ないような、逢いたいという気持ちにも似た回帰願望。
それは、ここではないどこか、まだ見ぬ世界への憧憬。
古書物に描かれた、美しき生命への愛著。
言いようのない疼きと
癒えない渇き――
心残りなのはあれ以降リオンに会えなかったことだ。
昨日城に挨拶と友人宛ての手紙を頼みに行った時、リオンは姿を見せなかった。
やはり彼は自分の身勝手を怒っているのだろう。顔も見たくないほどに。
少し寂しい気もしたが、無理に会うことはしなかった。
お気に入りの二人が一度にいなくなることを皇女マリーはひどく悲しみ泣きじゃくったが、終いにはきちんと笑顔で「絶対帰ってきてね」と言って見送ってくれた。
ロルが来た東の方は農耕地が広がっているのに比べ西側、修道院からこちらは木々が多く残されフェンサーリルの森と呼ばれる。
そんな森の中の小道を北北西の門へ向って二人は馬を進めた。
辺りは徐々に背の高い木々が目立つようになり、時折遠く鳥の囀りや風の起こす葉擦れの音が響くだけの澄んだ静けさ。馬の蹄が地面を捉える単調な足音も、すぐに大気に溶けていく。
少しして、その雰囲気に耐えかねたように
「そーいやさ、眼鏡違うよね? 言ってたやつ?」
横から覗き込んでロルが問うた。
僅かに青みがかったという程度だが、セフィの白い肌はその色を露にする。
フェンサーリルを離れ余所へ行く際、出会う人々の反応を気にして瞳の色が分かり難い、青い色味の入った眼鏡をするようにしているのだと、セフィは話していた。
「えぇ。まだいいかとも思ったのですけど、慣らしておこうと思いまして」
「やっぱ見え方違うもんなの?」
首を傾げたロルにセフィは頷き、少し青いです、と笑う。
ロルは納得したように、ふぅん、と小さく言い
「ピアスも変えた?」
視線を移してまた尋ねた。
セフィは瞳を瞬いて、
「目敏いですね。――あれは聖服の一部のようなものですから」
微笑しながらそう応えて髪を耳にかける仕草。緑の小さな石が光る。
「
「えぇ。友人に貰ったものなのですけど」
「あ、もしかして、リーって人?」
ヴァレリーア=イーリス。セフィの周りの者から何度か出た名だ。そして昨日国王に託した手紙の宛名も、シャンティエ=アイギレアンと、その名だった。
「そうです。――リーのこと、どなたかにお聞きになったのですか?」
「あぁ。名前と、聖職者だってくらいだけど。あと、最近姿を見せないって」
ロルの言葉に苦笑しセフィは頷く。
リデンファーの任務に忙しいらしく、この所会っていない。今はトラロックの方へ行っているはずだが、その後の任務の状況ではもしかしたら旅先や聖都で会えるかもしれない。
その時には、どんな話を聞かせてくれるだろうか。そして彼の語った世界の姿を、これから自分はどのように目の当たりにするのだろうか。自分はそれを、どのように彼に話すのだろうか。
遠征先から帰ってきた彼の語って聞かせてくれる物語が好きだった。
いつでも思い描くことのできる、その姿を思い浮かべて思わず頬が緩むのをセフィは手袋を嵌めた手で覆い隠した。
「あ、そういえば私も、お聞きしたいことが……」
「んー?」
「あなたは本当に右利きですか?」
「は……?」
先日の皇子との決闘の際の戦い方と、今彼が携える二振りの剣。それを見て生じた疑問をセフィは口にした。
問わずとも戦闘に入ればわかることなのだがやはり、同行者の戦い方は分かっていた方が安心できる。 一瞬何のことかわからないというような表情をしたロルだが、すぐに「あぁ、そのことねー」と頷き呟いた。
「確かに、最近左ばっか使ってたからなぁ……」
「最近? 左?」
「や、一応俺、右利きよ? 食事と物書きは右だし。でもまぁ、剣はどっちでも使えるかなーって」
「両利きですか」
「剣に関してはね。あ、ついでに言っておくと魔法は風……つーか、大気系なんでヨロシク」
陽気に言って低く挙げた手に、僅かに黄金の放電が走る。
大気全般に関する魔法、風雷両方――精霊魔法の四属性の中でも特に大気と大地は「風か雷」「土地か植物」というように、どちらかに偏る傾向があるから、そのいずれもというのはかなりの術者ということになる。だがセフィが驚いたのは、そのことだけではなかった。
「あなたも、詠唱無しで魔法を使うのですか……!?」
自分とあの黒髪の友人以外に詠唱全く無しで、しかも今の様にいとも簡単に魔法を使う者とは、これまで出会ったことがない。学生時代は奇異だと言われ、定められた詠唱文句を覚えさせられすらしたのだ。
「も? ってことはセフィも?」
きょとんとしてロルが返す。セフィは頷いた。
「へぇ~そりゃスゴイ。珍しいんじゃない? こっちではさ」
此方ティグレでは珍しい、つまりロルの世界ゲルダではそうではない、ということだろうか。
戸惑うセフィにロルは
「少なくとも俺は、細かな分類や詠唱っていう概念が絶対のものとは教えられなかったけど」
その意を知るように答える。
より強大な力を使おうとする時、詠唱というものが精神の集中に適している事を知り、憶えたりもしたのだが、よほどのことでなければ言葉は使わない。信念などではなく、それがロルにとって有利な方法だからだ。
魔法に関して、分かたれた世界は別々の進化を遂げたのだろうか。
――そして、自分は?
「まぁ、どの方法がいいかってのは個人の好みだし。ねぇ?」
「え? えぇ、そうですね……」
思考がまた妙な方向に行きそうになったところをロルに呼び止められセフィは苦笑した。
「――もうひとつ、お訊きしても?」
彼が別の世界の住人であるということで思い出したことがある。
「なんなりと」
ロルは笑みながら快く応える。
「あなたは、竜に……出会ったことがありますか?」
「竜、って? 翼竜や地竜、海竜のこと? では、なくて?」
「違うと思います。……以前読んだ本に描かれていたのですけど……全身をすべらかな
どこか陶酔した瞳で話すセフィの語り口は、まるで実際その姿を見つめているかの様。
「シェ・エラツァーデ……シャハラザードは"竜の守護を受けし土地"と言いましたよね? だから……」
もしかして、あの生物を知っているのではないか。
ロルは少し考えた後で
「……鳥のような翼を持った竜は一種類しかいないはずだ。幻獣類竜属の竜……神獣とすら言われる高貴な生き物……。確かにシャハラザードを守護する竜はそうだということも聞いたことがあるけど、ひとの愚行に数を減らし、やがて姿を消したと伝えられているな。もうずいぶんと昔の話だと思うけど」
どこか申し訳なさそうに声を落とし答えた。
「姿を、消した……?」
「あぁ。近年においてもその存在が確認されたって話は聞かない。だから俺も実際に出会ったことはないよ」
「そうなんですか……」
消沈しセフィは俯く。残念でならなかった。
「なんで? てか、セフィは、どこかで見かけたことでもあるの?」
先ほどの語り口はその姿を知っているかのようではなかったか。そんなはずはないのだろうがと思いながらロルは問う。
「いえ、そういうわけでは……」
セフィは首を横に振り、自嘲の様な、それでいて悲痛な笑みを浮かべる。
「子供みたいだと笑われるかもしれませんけど……何度か夢に見たことがあるんです。あんなにも美しい生き物が本当に存在するなら、一度でいいからこの目で見てみたい、会ってみたいと……でも」
姿を消したと伝えられている――つまり、もう存在しない――。
何故だか分からないが、セフィはその生命に懐かしさを覚えた。
掻き立てられる、帰りたいという気持ちと同じ様に。
竜。この世の何よりも優美な生き物――その姿は聖職者である自分にも、それを神と崇める人々がいることは自然と思えるほどに魅力的だった。
セフィの表情にロルは「笑いやしないよ」と優しく言う。
太古の生物に思い馳せる気持ちは理解が出来た。
セフィはありがとうございます、と嬉しそうに微笑み、
「……ところで、その"ひとの愚行"と……」
言いかけて言葉を切った。
話すうちに随分と先へ進んだようだ。前が拓け、大きく開かれた門と側に設けられた小屋が現れた。そして、そこに集う4頭の馬と王家の紋章を刻んだ衣を纏う人影。
「あれは……?」
馬を歩ませながら目を凝らす。と、一人、馬上の人物が凛とした声を発した。
「やっと来たな」
聞き紛うはずのない、その声の主は。
「リオン様!?」
セフィは驚き思わず名を呼んだ。昨日姿を見ることの叶わなかった、まともに別れを告げることも出来なかった少年がそこにいた。
歩みを速め駆け寄ると、
「……待っていたぞ。セフィリア=ラケシス、ローレライ=ウォルシュ」
馬上の彼は、いつもの法衣ではない旅装束を纏った司祭の姿に一瞬複雑な表情を浮かべたが、しっかりとした口調で言った。
セフィ、ロルの二人は馬を降り、続け降りた少年の前に立つ。
金茶の髪を前から後ろへ撫で付け、意志の強い瞳と眉を露にし、どこか大人びた雰囲気の少年。身につけているのは、元は戦闘時の着衣であったものを儀礼用に、胸元の細かな刺繍や袖の大きな折り返し、たっぷりとした外套等と意匠したフェンサーリル王家の正装だった。
「リオン様……!? どうして、ここに……?」
まだ朝も随分と早い。一国の皇子が、何故このような時間、このような場所にいるのか。
「ここから北方の町へ向うと聞いて、見送りに来た。――心配は要らない。ちゃんと許しは得ている」
訝しむセフィにリオンは視線で背後を示した。確かに彼の後には皇子付きの近衛。さらにその後方には、緊張した面持ちの門の番兵が立っている。だが、
「……」
皇子は、勝手に出て行く自分に腹を立てていたのではなかったか。
戸惑い言葉の出ない青年に皇子は言い渡す。
「きちんと別れを言いたかったんだ。本当はどんな手を使ってでも引き止めたいけど、それが叶わないことぐらい分かってる。それに、そんなことをしてお前に嫌われたくないからな」
「嫌うなんて、そんな……」
皇子の言に慌て首を振り搾り出す様に言うセフィ。
「――今まで本当に世話になった。感謝している」
リオンは微笑んだ。声すら違って聞こえるような威厳に満ちた表情で。
「セフィ、僕は……私は、良き王になる。父や偉大な先人に教えを請い、この国を、その名に恥じぬよう守り治めていく術を学ぼうと思う。民が、お前が、そして私自身が誇れるような王になる。――だからセフィ、帰ってきてくれ。必ず――。
お前のことだ、そう簡単には帰らないつもりなのだろうけれど……いつになってもいい。必ず、無事な姿を私に見せてくれ」
見つめ上げる水浅葱の瞳には射るような強さと、労りという優しさ。
瞳を逸らせないほどに真摯な様はセフィの心を打つ。
「リオン様――」
かつて幼かった彼を、そして今目の前に立つ彼を見る。そして
私の帰るべき場所はここです、リオン様」
優しく、穏やかに微笑んだ。それはいつも思っている、真実の言葉だった。
「っ……!」
一番見たかった、セフィの綺麗な笑顔。
心が、喜びに震える。
リオンは崩れそうになる表情をどうにか引き締め頷くと、セフィの半歩後ろに控えたロルに視線を移した。
「ローレライ=ウォルシュ、セフィをどうか頼む。危なっかしいヤツだから……。そしていつかセフィと供にここへ帰り着いた時、その時はゆっくりと話を聞かせてくれ。父に語ったような興味深い物語を――」
彼の言にもまた学ぶべきことがある。今、リオンはそれを理解していた。
「承知致しました。私もその時を楽しみにしております」
ロルは臣下の態度で恭しく頭を下げる。
リオンは頷き近衛に目配せした。
「父から
言って近衛から皮袋を受け取り、差し出す。
「……」
「いいから、受け取れ」
セフィの手を取り無理やり押し付けるとそのままぐいと引いた。
「えっ……!?」
そしてそのまま身を寄せ首根に腕を絡めて抱きついた。ロルくらい背丈があれば"抱き締める"ところだが、今の彼にはそれで精一杯だった。
「セフィ。お前が思う以上に、僕は……お前のことを想ってる。いつか、言ったよな。『自分を大切にしろ』って。
その言葉を今、返すよ。――無事を、祈ってる」
強く穏やかな声でリオンは囁いた。
心からの言葉を。
ありがとうございます、とセフィは微笑み、手を塞いだ物をロルに託して、まだ幼さの残る身体を抱き締めた。
胸がじんと熱くなる。
――嬉しかった。
リオンと近衛らに見送られセフィとロルはフェンサーリルを後にした。
辺りに張られた霧のヴェールはいつのまにか取り払われ、緑の森の中を行く道が鮮やかに続いていた――。
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