038 - 深夜の地下礼拝堂にて

 王宮の馬車に送られ修道院に帰り着いたのは22時、就寝の時間を過ぎた頃。

 雨が降っていた。

雲の向こうに満月の存在が見て取れる程度の薄曇りの空。

夜の色に染まった石の建物を艶めかせる霧雨は細やかに透き通るヴェールの様。

 マーサは足早に建物内に入り、先ほどまで一緒にいた者達の言葉を反芻しながら中庭の回廊クロイスターを居住区へ向かった。


――あくまでセフィが「行く」と言った場合だ……


皆の真剣な表情。それはどこかで「行かない」と言うことを願っていたのかもしれない。

それはマーサも同じだった。

争いを好まないセフィには、安寧の場所で心穏やかに、幸せにいて欲しいと願う。

フェンサーリルはマーサの知る中で最も「安全」と思える国だった。何よりここにはたくさんの守り手がいるのだから。

 台所の前まで来た時、扉の隙間から光が漏れていることに気付いたマーサは、院の者達はみな自室に戻っているはずの時間だと不審に思いつつそっと扉を押し開けた。

 修道衣の老女がランプの灯の傍で本を読んでいた。

シスター=ジェニス。この院で最も年配のシスターである彼女はマーサの姿を認めると

「セフィが地下礼拝堂にいますよ」

そういいながら立ち上がりランプを差し出した。

どういうことかとマーサが首を傾げると

「さっきまで……といっても少し、前になるけど。……貴女が帰ってくるのを待ちながらここでお喋りをしてたの。……それから、私がそろそろ部屋に戻ろうかしらと言ったら『もう少し考えたいことがあるから』って言ってね――」

――あの子のことを、話し合ってきたのでしょう?

無言で問いかけながらそれでも何も言わなくていいよと微笑みマーサを促した。

 先代の院長である彼女もまたセフィの"親"――寧ろ祖母的存在なのだが――の一人だった。

 そのことを伝えるために寒さをおして自分の帰りを待っていた老シスターに礼を言い、自室へ戻っていくのを見送ってマーサは聖堂へと向かった。


 南側の翼廊トランセプトの一角に地下への階段が設けられている。

南側の入り口から大聖堂に入り、冷たい空気の重い闇を押し退けるようにしながらマーサは更なる暗がりへと下りて行った。

 備え付けのランプに火は灯されているがそれでも十分な光ではない。

階段を下りきり、分厚い木の扉を押し開けると手に持つ小さな光を掲げ、その中に身体を滑り込ませる。

 上の大聖堂とは違い岩盤を切り出して作ったような地下礼拝堂は太い石柱が立ち並び、アーチを描く天井もさして高くはなく――といっても大人の男の身の丈の二倍ほどはあるが――通気口以外に窓も無いため閉鎖的だ。冷たい石と焚かれた香の臭いが鼻をつく。

 こじんまりとした黙想用の祭壇が数箇所、其々に火の灯った蝋燭が数本ずつ、お情け程度に闇の深淵を照らしている。

 マーサは少し奥まった地下の主祭壇に息子がいるだろうと見当をつけていた。


 幼い頃、彼はここに来るのを嫌がった。

 一人で、など以ての外。

 暗闇が怖いとすがった幼子。

 だがいつの時からかその子はたまに一人でここに下り、あるいは祈りあるいは物思いに耽るようになっていた。

 そして思った通り、いつもの場所、祭壇に向かって腰掛ける人影を見つけた。


色素の薄い髪は、だが闇に染まることなく逆に不思議な輝きを湛え美しい。

何かに、隔たれているかのような気になってマーサは思わず立ち止まった。

すぐそこに存在しているのは確かだというのに、なぜかその気配がひどく希薄で頼りなく感じられ、不安になる。

 寂寥せきりょうとした空間に張り詰めたような後姿。

祈りの最中に声を掛けるのは躊躇われたが

「セフィ……」

マーサはそう、呼びかけずにはおれなかった。

どこか遠くへ消えていってしまいそうなその存在を確かなものにしたかったのかもしれない。

青年は弾かれたように振り返り、

「シスター……マーサ……?」

そこに佇む人に気付いた。その瞬間空間が正常な感覚を思い出す。

「シスター=マーサ、あの、私……」

セフィはなにやら慌て立ち上がろうとする。

就寝の時間を過ぎてこんなところにいるところを注意されると思ったのだろう。

だが、マーサはそんなつもりはないのだと微笑み

「いいんですよ、セフィ。そのまま……」

と促す。セフィは長い睫に煙る瞳を瞬かせ従いながらマーサを見詰める

「考え事をしていたのでしょう……?――明日の礼拝の原稿のこと……ではないわね……?」

ランプを置きマーサもまたセフィの横に腰掛け、そして祭壇に灯された不安げにユラユラと揺れる蝋燭の炎を見遣った。

マーサには、青年が何を考えていたのか分っていた。だが敢えて自分からは口にすまいと別の話題を持ち出しながら促す。

青年は頷き、そのまま視線を落とした。

「はい……原稿は、出来上がってます……」

「そう。それならよかったわ」

「……シスター=マーサ……。私……」

青年は組んだ手を強く握っている。続く言葉は想像に容易い。


――……言わないで……

心の奥で誰かが叫んだ。

それは、他でもないマーサ自身の本心。

利己心を捨て、何よりセフィの意思を尊重しようと思い誓いながら、それでも手放したくないと心が叫ぶ。

だが、次の瞬間マーサはそれら全てを飲み込んだ。そうする術を、身に付けてきた。

そして静かに続く言葉を待った。


「……任務を受けようと思うんです……」

絞り出すような声でセフィは言った。

「そう……」

マーサは落ち着き払った様子で応える。気取られてはならない思いの息の根を止めるように。

「――あなたなら、そうするのではないかと思っていたわ」

理解を示すマーサの優しい表情を見、セフィはまた視線を落とす。

「……すみません……」

「あら、何故あなたが謝るの?」

「……私……本当はまだ分からないんです。……自分がどうすべきなのか」

青年の白い肌を炎の光が滑りほんのりと紅に色付かせる。だが懺悔する様な表情は暗い。

「こんな自分勝手な思いで任務を……。それに、シスター=マーサ……貴女は本当によくして下さった。助け、教育し、多くのものを与え……そしていつも我侭をきいて下さった。……与えて頂いた沢山のことに報いることが出来なくて……」

「セフィ、それは違うわ」

申し訳なさそうにする青年の肩に手を置きマーサは首を振った。

「確かに私はあなたがここにいることを望まないことはない……。けれどそれは、ここがあなたにとって安全な場所だと思うから……。でも、もしあなたが他の場所を望むなら、それはそれで構わないのよ。

いつも言ってるでしょう? あなたはあなたの思うように生きなさい、と。

誰もそれを咎めなんてしない。

あなたが思うままに生き、そして幸福でいてくれるならそれが何よりの望み。私に報いると思うなら……思うままに生きなさい……。

"どうすべきか"でなくあなた自身が"どうしたいのか"それが一番大切なこと。――勿論、ひとのためにその身を捧げるというのはとても尊いことだけれど……あなたは十分に思いやりの心を持っているから、大丈夫。

あなたが望む生き方をすることで満たされる人もいるわ。……少なくとも、私はそうだから」

それもまたマーサの本心であった。

「シスター=マーサ……」

母の言葉は静かに心の奥に染み入りそして熱いものが込みあげてくる。

いつもそうやって認め、励まし、包み込むような優しさをもって育ててくれた。

慈しむ心を教えてくれたのは彼女だった。

いくら感謝してもし尽くせない。

今の自分があるのは全て、彼女の――彼女とその親しい友人達のおかげだ。

「セフィ、あなたの気遣いと優しさを心から誇らしく思います……ありがとう」

その思いを言葉にする前に逆に謝辞を述べられセフィは思わず苦笑した。そして

「そんな……私こそありがとうございます。シスター=マーサ……貴女は本当に……」


――私の母が貴女で本当に良かった……


誰もが、思わず見惚れてしまいそうになるような清々しい微笑を浮かべ紡がれたこの上ない賛辞。

それはマーサの理性を吹き飛ばすのに十分だった。

「あぁ、セフィ……!」

我が子の言葉にマーサは胸が一杯になった。

目頭が熱くなり視界がぼやける。堪らず身を寄せ抱きしめた。


 セフィは自分の生命に対する執着が非常に希薄だということをマーサは知っていた。

心優しく、純真で従順。限りない慈愛の心を持っている。自己を犠牲とする事すら厭わない。

自らを押し込めても他人の望む存在であろうとするほどだ。

 その瞳の色故に蔑まれ、また、奇異な者を見る目を向けられながらその性質は変わることは無かった。

まさに"聖職者"なのだ。

だがマーサは従いながらも決して支配されることのないその自由な心を知っていた。

だからこそもっと我侭に、自分本位にいてくれてもいいのにと思う。

もっと、自身の幸せを願って欲しいと。

だがそれは、その死が如何に多くのものを悲しませるか。

その存在が、その命がどれほど多くの者を幸せにしているのか、セフィが分からなければ望めぬことだろう。

自分たちには分からせることが出来なかった。出来ないと悟った。

あるいは聖職位を捨て、ただ"母"として傍に居られたなら違った結果になったかもしれないのだが――。

彼にとっての母である自分は"他のために身を尽くすことを説く"司祭であり修道女でもある。

 それでも、彼は自分を母と慕ってくれている。

――我侭に生きて欲しいと思いながら、ここを離れずにいて欲しいと願う私の矛盾を知らないでしょう。

 だが、その根底にあるものはただひとつ――どうか幸せに――。

――聖職の位にありながら何よりも我が子の幸福を願う、愚かな母の姿を知らないでしょう。


「愛してるわ、セフィ……あなたと巡り逢えたことは私にとって何よりの歓び、この上ない幸福だったわ……」


そしてあなたにもこんな風な至福の出会いがこれから待っていることを願う。

愛し愛され、その命を、自らの命を愛することを。

穏静の地で何者にも傷付けられることなく、ということが望めないなら、どうか。


私は、旅立つというあなたの決断がその因由きっかけとなるよう祈りましょう――。

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