002 - 船上の旅人

 階下や板張りの壁の向こうから聞こえてくる男達の野太い声に眠りを崩され、彼は渋々ベッドから起き上がった。どうせなら、女性の美しく優しい声で目覚めたいものだ、などと思う間も響いてくるのは力強い怒鳴り声や豪快な笑い声。今日はいつもにも増して辺りが騒がしいようだが、およそ3週間ぶりに陸に上がれるのだから無理もない。

 彼は眠い瞼をこすり、何度もあくびをしながら服を着替え、乱れてしまった髪を結い直すと部屋を出た。

「よぉロル! もぅお目覚めかい?」

部屋を出た途端、しわがれた声の大男が立ちはだかった。よく日に焼けた顔に白いものが混じり始めた無精髯、筋骨たくましいこの男はこの船の船員の一人だ。

「あんたの怒鳴り声でたたき起こされたよ。ディオニ」

彼は――ロルは苦笑し、目の前の男に応えた。

「そいつぁ悪いことをしたな!」

ディオニは豪快に笑い、

「それより早いトコ飯食いに行ってこいや。その後にでも甲板に出てみるといい。もぅ丘が随分とはっきり見えるぜ」

得意げに親指で上の方を指す。

「あぁ。わかった。そうするよ」

ロルはそう応えディオニに背を向けヒラヒラと手を振った。

 船窓から差し込む強い日差しに、太陽が既に高いところにあることがわかる。

食堂に向かう途中、親しみのこもった口調で話し掛けてくる船員達とも一、二言陽気に言葉を交わすロルだが、彼はこの船の船員ではない。それどころか見るからに船乗りといった風ではなく、背は高く体もそれなりに鍛えられてはいるが物腰はどこかしなやかで、荒くれた海の男にはありえない気品さえ漂わせている。

 横波を受けた船の大きな揺れを軽く流し、ロルは一階下の食堂へと降りていった。10~20人程が一度に食事を取れるようになっている、今は誰もいない食堂の奥の厨房で一人の年若い青年が大きな鍋の底にこびりついたコゲと必死に格闘していた。

ロルは青年に歩み寄るとひょいとその作業を後ろから覗き込んだ。

「あ~あ~随分派手に焦がしたなぁ~……買い換えた方がよくね?」

「いや、でも……これ、まだけっこー新……!?え"!?」

青年は返事をしかけ聞こえる筈のない声に驚き束子(たわし)を取り落とした。鍋を磨くことに集中していた彼は、背後に立つ人物に全く気付いていなかったのだ。

慌て振り返り、 青年は腰を抜かしそうになりながら後ずさって背後の人物に目をやる。

三つ編みにした長い髪は太陽に照らされ、たわわに実った遥かな麦畑を吹き抜ける黄金の風を紡いだ様。高く通った鼻に淡い紅の唇、整った眉。タレ目がちなその双眸は晴れ渡った夏の日の鮮やかな空の色。楽器や花、宝石のよく似合いそうな長い指の綺麗な手。云うなればどこかの貴族かそれとも吟唱詩人といった風だ。

「ロ……」

陸に打ち上げられた魚の様に、ぱくぱくと何度か喘いだ後でなんとか言葉を絞りだそうとする青年。

「いやぁ……こうも驚いてくれるとわ……」

その様子にロルは一瞬面食らい、それから悪戯っぽく笑った。

「ロル……俺、驚かされんのすっげェ弱いんだけど……」

「悪ぃ悪ぃ。本当にそんなに驚くとは思わなかったんだ。スマン」

涙ぐみ情けない声で言った青年にロルは苦笑し軽く頭を下げた。

「ハァ……まぁ……別にいいけどさ……。あぁそうだ、ところでここに来たってことは何か食うだろ? 酒はもう抜けたのか? 着港前祝とかで随分飲まされてただろう?」

「まぁね。……さすがにあの時誰かさんが打ち切ってくれなかったら今頃まだベッドの中で死んでたよ」

「カードゲームと酒くらいしか楽しみのない船乗り連中と同じ様に飲もうなんて奴があるかよ」

青年は腰に手を当て呆れ顔で言った。

「ははは……でも俺、もうけっこー平気みたいな?」

「そうみたいだな。じゃあ、すぐに用意するからそこにでも座っててくれるか?」

「あぁ」

ロルは返事をし、指されたテーブルに着いた。青年はひとまず鍋に水を張ってそのままに置き、別の小さな鍋を火にかけ、食事の用意を始めた。

ほっそりとした体格の彼、ジャンはこの船に乗る者達の食事を一手に担っている者で、年のころはロルより少し上の、25、6といったところか。それでもこの船の厨房にも随分と慣れているようだ。

 間もなく、よく煮込んだ干し野菜のスープとこんがり焼けたパン、それから昨夜の酒の肴の残りが少し、手を加えられ、ロルの前に並べられた。どれも食欲をそそるいい匂いがする。

「残り物ばかりで悪いな」

「そんなことないさ。十分だよ」

苦笑するジャンに、ロルは出された料理をおいしそうに口に運んで応える。

「あーぁ、そういやあんたの料理も食べ修めだな」

「……そういうことになるな」

ジャンは用意した二つのコップに果物の滋養酒を注ぎ、一つをロルの前に置くと傍の椅子に腰掛けた。

「でも、まぁ、陸に上がれば街でもっとまともな料理が食えるわけだし」

「まともなって。俺、ジャンの料理かなり気にいってるんだケド?」

「……」

ロルの言葉にジャンはコップに唇をつけたまま赤面した。

「街で店開いてもやっていけるって」

「褒めすぎだよ。ロル」

「謙遜すんなって。本当、ジャンが店持ったら俺、歌わせてもらいに行こうかなぁ」

ロルはいたずらっぽく笑い、滋養酒を口に含んだ。

「ホントか!? いいな、それっ!――あ、でもお前の方がそれこそ、どこかの宮廷のお抱え吟唱詩人でもやっていけるのにあっちこっち放浪してるじゃないか」

「そう、それ。そう思うだろ?――ところが俺、もう生まれてからその場所にいたより、旅してる方が長いもんだからさ。一つの場所に留まれないというか放浪癖があるというか……」

「……やらなければならないこともあるし?」

おどけた風なロルに、ジャンは穏やかな口調で言った。

「……あぁ」

ロルは瞳を伏せ、頷いた。

「……早く見つかるといいな」

そう言いジャンは微笑んだ。

 今まで、幾人もの人々と出会い、別れを繰り返してきた中で何度となく聞いてきた言葉。だが今まで確たる手掛かりらしいものは全くと言ってよいほど見つかっていない。優しい励ましも、慰めも、虚しいだけだった。

 だがロルはそのたびに陽気な笑みを浮かべ言うのだった。

「あぁ。何が何でも見つけ出すさ」



 甲板を吹き抜ける強い潮風が黄金の絹糸をなびかせる。

 数日前までは水平線の向こうの不確かな黒い影でしかなかった大陸は、様々な花に彩られた小高い丘と、その麓の街並みが見て取れるほどにまで近付いていた。新緑に萌える木々と紺碧の海に恵まれた、白壁の家々が立ち並ぶ港街エンテス。アムブロシーサ大陸南東部に位置する湾に面し築かれたこの街は、西の王都フェンサーリル方面と北のフリムファクセ方面に向かって伸びるニュクス街道沿いにあり、多くの商人や旅人で賑わう華やかな都だと聞いている。

 ロルは船の舷に背をもたれ、両肘をつくと空を仰ぎ瞳を閉じた。心地よい潮風が頬を撫で、太陽は瞼越しにも眩しかった。


――遠くへ……どこか遠くへ行きたい……。

ふと、鋭い光の中に美しい少女の姿が浮かんだ。

あの時のまま、凍てついたように変わらない、愛おしい少女。

――どこか……遠くで……私と――だけで……。

『どこか遠くって……?』

――どこか……遠い場所……。誰にも知られない……私達だけの……

『私、達?』

――あの子を……。もう二度とあんな目に遭わせたくないの……

――私があの子を……守らなければいけないの……私にはもう……資格がない……けど……

『あの子? 誰……? 資格って……?』

――あの子が……――が微笑んでいて、くれるなら……幸せに、なれるなら……

――私は……何もいらない……唯、そんなあの子の……傍に……

『あの子って、誰? ねぇ……ソニア……!』


 遠ざかる、懐かしい、切ない声。時が経つにつれて薄れてゆくその姿。記憶に刻まれた言葉と思い。

――意志の強い瞳がとても好きだった。

「ソニア……」

ロルは呟いた。応えるものなどいるはずのない空に向かって。

「どこか遠く、か……」


――二……チャ……。ロル……ャン

いつの間にか、少女は姿を消し、現れた漆黒の髪の幼子が今にも泣き出しそうな声で言った。

――オト……サン……オカ……サ……ドコ……?

――ネェ……ドコ……イルノ……?

――ドコ……? 二……チャ……

幼子は現れては消え、消えては現れた。潤んだ瞳が自分を見つめた。

『もう……いないんだ、イザヤ。どこにも、もう……』

「っわぁあ!?」

激しい羽音とともに光は遮られ、唐突に闇が舞い降りた。思わず声を上げ慌てて目を開けたそこには鋭い猛禽の爪が迫っていた。

「わ、わかった。わかったってっ! そう急かすなよっ!」

けたたましい声を上げながらバサバサと頭上で大鷹が羽ばたく。

「すぐ用意するから、おとなしくそこで待ってろ」

ロルの言葉に、船の舷に降り立った大鷹は一度大きく広げた羽を繕い始めた。

「ったく、クァルのヤツ。先に上陸したんじゃなかったのかよ……」

文句を言いつつ渋々船室に向かいながら、ロルは大鷹に感謝した。

思い出したくない、忘れられるはずのない記憶。

『もうどこにもいない』

幾度となく幻影の幼子に諭した、自分の心もまたひどく痛んだ。過去の幻影に囚われ、憂鬱な気分になりかけた自分に友は闇となって舞い降り、この紺碧の海に浮かぶ船上へと連れ戻してくれたのだ。

 ロルは大きく伸びをし船内へと入っていった。

 いよいよ乗組員たちの動きが慌ただしくなり、船はゆっくりと湾内にさし掛かった。


「帆をたため――!」

荷物をまとめながら、ロルは潮騒の音と海猫の泣き声に混じってそう叫ぶ声を聞いた。



 船長に挨拶をし、船の積荷を下ろす作業をする船員達に軽く言葉をかけ、ロルは一足先に船を下り、街へと向かった。

 バザールや大通りには様々な店が並び威勢のよい呼び声が飛び交っている。街で、人や物を探すなら酒場、宿屋、教会、それからレディ達の集まる街角なんかへ行ってみるのがまず第一にすべきことだ。それらの場所には多くの情報が集まる。だが、このような活気に溢れた通りで行き交う人々や、店の人の話を聞くのも悪くない。

 停泊する船はどれも大きく、港や街には船乗りと思しき者達も多く見られる。彼のように異国風の装束を纏った者も少なくはない。だが、その美しさは類稀なるもので、人々の視線は自然と彼に注がれた。耳に触れた、甘い声に誘われその主を探し、見つけてはウットリとそのまま目で追う。そんな者も少なくはなかった。

――おや? 旅の人かい? クヴァシル大陸からかい。よく来たねぇ

――人探し? こんな人の多い街じゃあ大変だろう

――イイ男だねぇにいさん! 安くしとくよ! ほら、寄ってかないかい?

――泊まるならあそこっ! なんつったっけ? 酒と料理がサイコーなんだぜっ!

――ほらほら、見ておくれよっ! イイできだろぅ?

――教会だったら街の北西に大きなのがあるわ。通りをちょっと行って右手の方に入ればすぐ見えてくるはずよ

街の人々は、あるいは陽気に笑いながら、あるいは頬を染めながらロルに話した。 結局その日の宿が決まったのは教会の鐘が16時を告げた頃。宿の名はネクタル。街の人、それから船乗り達の飲み場として評判の店だ。



 その日の夜。

 街の一角、宵闇の中に男とも女とも付かない不思議な、それでいて甘く美しく澄んだ歌声が響いていた。歌声の主は薄暗い小さな酒場の端の椅子に腰掛け、指輪に飾られた美しいその指でシターンを奏で静かに歌っていた。先ほどまでの喧騒が嘘のよう。客達はおろか店員までが魅入られたようにその歌声に聞き入っていた。

「切ない恋歌ガヤね……」

誰かがそっと呟いた。



 色とりどりの宝石をちりばめた様な満天の星空に優しい風が吹き真新しい生命を月の涙が濡らした。とても穏やかな夜だった。

――勿忘草色の瞳の、黒髪の少年を見かけませんでしたか?

――歳は15……。あぁ、それからもう一人……淡紫の瞳の……

薔薇の唇が甘いハスキーヴォイスで紡ぐ言葉。繰り返されるいつもと同じ応えに、ロルは切なさを覆い隠すかのように陽気に微笑む。

 掴みかけた手掛かりはいつも、いつの間にか擦り抜けて消え、その度にどこへとなく旅を続けてきた。今回この街へ、この地方へ来たのも前の場所でこれといった情報が得られなかったからだ。新たな地に、何かを期待している訳ではないが、諦めている訳でもない。突き動かしているのは微かな望みと変わらぬ思い、それだけだった。

 だがこの街でロルは大きな転機を迎えることとなった。

"淡紫の瞳"を持つ者について、今までにない有力な情報を得ることができたのだ。

『フェンサーリルの修道院に魔性の紫の瞳を持つ者がいる』というのだ。

「……ソニアが、教会に……?」

ベッドに横たわり、ロルは一人呟いた。

「王都フェンサーリル、か……」

謀らずもそこは、次の目的地にと考えていた街だった。

 波の音に揺れる揺り籠の中、ロルは静かに瞳を閉じた――。

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