ささっとお茶漬け

逃ゲ水

「ホント、アキオさんってばマイペースよねー」

 ガチャリと鍵の回る音がした。時刻は長針が上り坂を行く頃合い。

 ミカはぱっと立ち上がり、玄関へと向かった。


 続けてドアノブが回り、コンクリートの土間を踏む硬い足音。改めて確認するまでもなく、そこにはスーツ姿のアキオがいた。


 アキオは靴を脱ごうとうつむいたままミカの方を見向きもしない。

 というより、ミカがここにいることすら気付いていないようだった。


(ま、この時間まで仕事してたんじゃ無理もないよね)


 一人胸の奥で呟いて、それをお腹の中へと飲み込む。

 代わりに、ミカはボサボサ頭のつむじ目掛けて、とびきりの笑顔で声をかけた。


「おかえりなさいっ!」


 そのボサボサ頭が急に持ち上がり、疲れた顔のアキオと目が合った。


「あ……ただいま」


 覇気のない声でアキオが答える。その顔は見るからに疲れていたけれど、目も口もしっかり笑っていた。ならば大丈夫だ。



「お疲れだね、アキオさん。先にお風呂にしとく?」


 尋ねながら、ミカはアキオのカバンへとそろーっと手を伸ばす。

 しかし、ミカの手が届く前に、アキオはカバンを後ろ手に隠してしまった。


「それよりちょっとお腹空いたから、何かささっといけるやつが欲しいかな」


「ささっとね、了解了解」


 そう言ってミカが前、アキオが後ろになって短い廊下を歩く。その間も、アキオはミカにカバンを持たせようとしない。

 曰く、自分のものくらい自分で管理したいとのことで、時々妙な頑固さを見せるアキオはよっぽどの時以外はミカにカバンを持たせようとしない。


 だが、もうミカもこれには慣れたもので、アキオを置いてキッチンまで早足に向かって行く。


 その背後で一際大きなため息が聞こえた気がしたが、気にしない。

 あれは単純に、帰ってきて気が抜けただけなのだ。



 対面キッチンに立ったミカは、ゆっくりとリビングのテーブル前にたどり着いたアキオを横目で確認する。

 そのアキオはというと、上着を椅子の背もたれにかけ、ネクタイを緩め、腕時計を外していた。どうもアキオは締められているのが苦手らしく、一度は薬指のリングまで外そうとしていたこともあった。

 あの時は、流石にそれは、とミカが止めたのだが、果たして今は指輪には慣れてくれたのだろうか。


 そんなことを考えながら、ミカは茶碗にご飯をよそっていく。

 ささっといけるやつとのリクエストだったので、メニューはお茶漬けだ。

 ツナ缶を開け、油を切って調味料と和える。青ネギを切り、タッパーから梅干しを一粒つまんで乗せる。


 そして後はお茶を注ぐだけ〜と急須に手を伸ばしたところで、唐突にアキオが声をかけてきた。


「ミカさん、いつも、ありがとうね」


「えー、どしたの急に」


「いや、なんかね」


 そう言うだけ言って、アキオはふふっと笑う。

 これは聞いても教えてくれないタイプの笑いだなと思いながら、ミカは茶碗を手にリビングへ向かった。



「おおー、お茶漬けだ。いいね、ささっといける」


 目を細めて喜ぶアキオに、ミカはふと疑問をぶつける。


「それにしても軽いのがいいって、アキオさん夏バテ?」


 言われたアキオはまるで予想もしていなかったという顔をした。


「えっ、いやそんなことはないと、思うんだけど……」


「どうかなぁ、アキオさんも二十歳の頃みたいに若くはないんだからね」


 すると、アキオは少し不服そうな顔になる。


「いや、まだまだ体力は落ちてないと思うけどな」


「ふぅん……どうだか」


「まあいいや。いただきます」


「はいはい、めしあがれ」


 アキオは箸と茶碗を手に、しばし固まった。


 果たして梅と青ネギの彩りのコントラストに目を奪われていてくれるのだろうか。

 それとも梅干しとお茶の立ち上る香りに気を取られているのだろうか。

 地味に気を使ったご飯のドームには気付いたのだろうか。


 目を細めたアキオの真意はお腹の中へ。

 何を考えているのかは分からないけれど、ゆっくりとお茶漬けを掻き込むアキオの姿は、ミカには幸せそうに見えた。


「……おいしい」


「そう、よかった」


 疲労を忘れたかのようなアキオの心からの笑顔は、何はともあれミカにとっての幸せだった。

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