第20話

 一瞬、周りが静寂に包まれる。飯島和音はそれを涙のたまった瞳で、がたがたと身体を震わせて見ていた。


 なにが、なにが起こっている。これはなんだ。違う、みかちゃんは死んでない、これは違うんだ。


 誰にしているのかもわからない言い訳を心の中で繰り返しながら呆然とそれを見ていることしかできなかったツァルツェリヤは。その脆い精神のために作った依存対象を目の前で奪われた哀れな混血児は。

 そこを動いてください、危ないですからと呼びかける師団員の声すら耳に届かず完全に息の根を止めた螢丸の遺体を見ていた。聞こえるのはただ1つ、自分から螢丸を奪ったものの声だけだ。


「死んだか。まあいい、死のうが生きようが天使にえ天使にえだ。……蛇神よ、君臨者よ」

「……まれ、人間が」

「いまこそその錆びた鎖から解き放たれ」

「黙れ人間がぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「影族を塵へと変えよ!」 


 激昂したツァルツェリヤが螢丸の身体を横たえて、顔を上げる。その目にはもうハイライトはなく、ただ虚ろな目で自分から螢丸を奪った対影族の風紀委員長を見ていた。「死のうが生きようが天使にえ天使にえ」そう言った男だけしか見えていなかった。


 ばきん、ごきん、ずるるるるる。


「あ……うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 全身が作りかえられるような激痛。自分で手首を落としたとき、腕を切った時とは違う種類の痛みに意識が遠のきそうになるが、なぜか気を失うことはなかった。ごきごきと音を立てながら骨組みが変わる、自分が自分じゃなくなる感覚。螢丸の方を見れば、外傷は心臓の傷だけで見当たらず何もなっていなくて。それだけにほっと安堵した。天使は死んでも天使じゃない。生きているからこそ天使なのだ。


 だが、その安堵も次の瞬間潰される。


 びくんと螢丸の身体が跳ねたかと思うと、その細い腰からごきんごきんと2回だけ音がして。腰からばさりと白い、天使のような羽が生え、螢丸の身体を宙に浮かす。見世物のようなそれを愉快そうに、嬉しそうに黒馬の上から眺める風紀委員長の姿がツァルツェリヤの目に入る。


「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、ああああああああああああああああああ!!」


 死んでしまった螢丸が、死後もなお辱められている。その事実が、ツァルツェリヤを狂わせた。天使に乗っ取られるはずだった意識を、逆に乗っ取る。脆いはずの精神はずたずたに傷つきそして引き裂かれ生まれ直したのだ。螢丸を傷つけたものを殺せと、ただそれだけの執念に取りつかれて。白い軍服を裂いて腰から生えた羽を畳んで。

 速歩で瞬間に黒馬に乗った風紀委員長に近づくと、その見えないほどに鋭い斬撃を繰り出す。どすっとどこからか飛んでくる弓矢が目に映ろうとも避けることすらせず。腕に刺さろうとも、一瞬の間にそれを抜きさってそんなことは気にせず。気にもならず。ただ一心不乱にその対人間の風紀では右に出るものはいないと言われた剣術で風紀委員長を殺そうとする。


 まず馬の足を一撃で4足斬り落とした。次に落下している最中の男に向かって突きを放つ。身動きの取れない中でそれを避けられるはずもなく、どすりと刺さり肩から血が噴き出る。もう一度突き刺そうとすると馬から転げ落ちて馬を盾にした男に、刺さるはずだった刀は馬に刺さる。それをすぐに引き抜いている間に体勢を立て直した男から攻撃が飛んできた。


 首、手、足、目。当たれば動けなくなる、瞬間にでも隙ができるところを狙って風を切る音ともに剣が振り下ろされる。それを最小限で避けながら、ツァルツェリヤも同じところを狙う。殺される前に殺してやる。その気迫はまさに鬼にも勝る勢いで味方にも敵にも手は出せなかった。それが。


 見えないほどの軌跡の中でその声は確かに聞こえたのだ。



「死んだのか、あいも変わらず。人間は脆いことだ」



 螢丸の声が。

 その声にぴたりと動きを止めてしまったツァルツェリヤに、にぃっと笑った風紀委員長が今だと言わんばかりに剣をツァルツェリヤの首もとに突き刺す。


 と思ったのだ。


「これは、人間の王よ。どういうつもりかな?」

「っち、影族の王か」


 きいんっとそれがツァルツェリヤの横から出てきた剣に防がれるまでは。

 そう、ヒナゲシは嫌な予感がしていた。まるでチーズの入った小箱にネズミが自ら向かうような。自分たちがなにかとんでもないことを見逃しているような気がして、対影族の風紀本部に行く途中で引き返してきたのだった。


 それはとてつもなく当たっていて、帰ってきてみたら腹心の部下がお姫様のように扱う大事な家族が死に天使のような羽を持ち見世物のように浮いていて、同じく羽が生えた部下は怒りで我を忘れていて。その中で聞こえた部下の家族の声に、気が取られた瞬間を狙うと思っていたヒナゲシは予想通りの攻撃を防いだのだった。

 ぎぎぎぎっと油の切れたブリキの人形みたいにゆっくり首を動かして後ろを振り返ったツァルツェリヤは見たのだ。


 乾いた血だまりのように黒い髪だまりの中に、とんっと翼を使い平然と降り立つ。胸に矢が刺さったままの、心臓を射抜かれ死んだはずの螢丸に似た青年を。

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