第10話
「静かだな……」
速歩で足音を立てないように、気配を殺しながら走っていた螢丸は夜にもかかわらずふくろうも鳴かず静かな森の中に不思議に首を傾ける。それはどこの森も同じなのだが、初月夜の森はいつだって色んな音がする。長年この森の中で暮らしていたのだからそのくらいわかる。なのにもかかわらず、鳥も虫も鳴かず、木々の木の葉擦れの音もない。周りは木々での香りで満ちているのに、目を閉じればまるで何も音の聞こえない箱の中にいるようだった。
おかしいと感じつつも、むやみに走り回って体力を削るわけにもいかず。螢丸はふと自分の足が
「不毛だ……」
ふと自分の口から吐かれた言葉に苦笑しながらも、螢丸はその足を止めようとはしなかった。あのむわっとした血の匂い、ところどころ血に濡れて染みが取れなくなってしまった白いマフラーだけを掴んで。北見蓮に連れられて教会を、森を去ったあの夜以来一度も教会へとは帰ってきていなかった。
だって来てしまえば、そこにはツァルツェリヤが死んだという事実しかなくて。本当は今回の任務でこの森の近くの林に来るのも嫌だったのだ。だって、この林からは、あの岬からはどうしようもなく初月夜の森が見えてしまって。だから必死に海の方を見てごまかして、後ろは振り向かなかったのに。思い出がとうに凍ってしまったはずの螢丸の心を抉ってくるから。
他の教会に比べて低い位置にあるベルが見え、あと少しでたどり着くというとき。螢丸は見えたものにぎょっと目を剥いた。
明かりがともっている。それは別に電気がついているという話ではなく。
暗い母屋の窓辺に、ぼんやりとした小さなろうそくの明かりがともっていたのだ。
「エリ……?」
口を開けて、その足を止めた螢丸。
だが止まったのも一瞬、次の瞬間にはもう残像しか残らないほどの速さで森を駆け抜けた。気配を殺し、足音を殺し、息すら殺していたのもすべて解放して、ただ一心不乱に初月夜の森を駆け抜け教会の母屋へと向かう。
螢丸の中を占めていたのは、1%の悲しみと99%の怒りだった。
誰だ、誰が螢丸とツァルツェリヤしか知らないはずの習慣を真似した。思い出を汚すような真似をした。影族か、影族ならいい。ぶち殺してやる。人間なら叩きのめして駆逐してやる。
そんなどろどろした憤怒に駆られた螢丸は、怒りに顔を歪めながらやっとたどり着いた母屋の扉、月夜に照り返す綺麗なドアノブを掴み思いっきり開けたのだった。
その時点で気付くべきだったのだ。だって誰も来ないはずのこの教会の母屋でなぜドアノブがまるで磨かれているかのように綺麗だったのかを考えるべきだった。
「……みか、ちゃん?」
「エ……リ?」
扉を開けた途端、ふわりと甘いシチューの匂いがした。
綺麗に片づけられた母屋。あの頃と、螢丸とツァルツェリヤで暮らしていた頃とほぼ変わらないように室内は整頓されていて、そこであった惨劇などまるでなかったことのようになっていた。
そして、その中。大きな窓辺から入る月明かりに照らされながら、立っていたのは。
ピンク色のミトンをはめて、黒い柄のおたまらしきものが入った赤い小鍋を両手に持った。
6年前に死んだと思われていたツァルツェリヤだった。
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