風説のスケアリー・キッド

『代行者』

 まばらに立った電灯が闇を照らし、路地裏には猥雑なネオンがそこかしこに点在している。海外ブランドのファッションビルが我が物顔で鎮座する大通りを抜け、観光客が群がる中華街をすこし脇道に逸れれば、そこは迷宮だ。

 中田はその道を歩き慣れていた。普段なら部下を率いて訪れる飲み屋街である路地裏は、彼の庭と言っても差し支えないほどだ。

 しかし、現在の中田は血相を変え、膨張した下腹部を鞠のように弾ませながら、全力で疾走している。時折怯えながら背後を一瞥し、深く考えてはいられない様子でまた足を進める。否応なく逃げることを選択させられているようだ。

 背後を追う影の正体を、中田は詳しく知らなかった。街角ですれ違った瞬間、一言も発さずに追い始めたのである。たぶん異常者の類だ、と中田は思い、逃げつつ何度か警察を呼ぼうとした。

「悪漢ニ裁キを……」

 彼が携帯を取り出そうとした瞬間、後ろからは不明瞭な合成音声が響く。中田は腰を抜かし、アスファルトにへたり込むように倒れた。

 改めて追跡者の正体を確認すると、彼は何度か目を擦り、自らの認識を疑う。

 足の爪先まで隠れるほど長いローブは擦り切れ、ところどころ破れている。それを引きったまま追い続ける姿は、人間というより幽鬼のようだ。

 何より違和感を掻き立てるのは、追跡者が被っている珍妙な覆面だ。中田が幼い頃に放送していたヒーロー映画の主役の顔が目の前に立っている。縁日で売られているお面に似たチープな品質の、塩化ビニルかセルロイドで作られた安価なお面である。

「悪漢ニ裁キを……!」

 不協和音で形作った音声を垂れ流しながら、追跡者はゆっくりと迫る。手にはアイスピックが握られていて、中田は身体が急激に力を失っていく感覚に陥る。

「な、何が目的だ!? 私は誰にも恨まれるようなことは」

「罪にハ報イを……」

「罪ィ!?」中田は目を剥く。「あ、あれか? 総務のミカちゃんを飲みに誘ったことか!? あれは円滑なコミュニケーションのために……」

 追跡者は首を振り、覆面越しに息を漏らした。溜息を吐く仕草に近いことに気づき、中田はたじろぐ。

 アイスピックが眼前に振り落とされる瞬間、中田の意識はぷつりと途切れた。


「やった! ははっ……ざまぁみろ!!」

 目の前で泡を吹いている上司を見下ろしながら、ナオユキは手早く覆面を脱いだ。

 ここ数ヶ月前から起こっている連続殺人事件の犯人を、ネット上では「スケアリー・キッド」と呼んでいる。昔の特撮ヒーローのコスプレをして人を殺める動画がSNSで拡散され、その格好になぞらえた名前をつけられたシリアルキラーは、法律で裁けない悪人を標的にするという特徴を持っていた。悪を裁くダークヒーローとして隠れた支持者が生まれるのは当然だった。

 ナオユキがこの計画を思いついたのは、つい数週間前に遡る。上司からの理不尽なパワハラによって、三回目の無断欠勤をした朝のことだ。何気なくスクロールした通販サイトの一角に、スケアリー・キッドのコスプレ衣装が販売されていたのである。

 これだ、と彼は思った。あのダークヒーローが大きな悪を殺す英雄なら、小さな悪を正す自分は代行者だ。この格好で中田部長を脅し、謝らせよう。

 彼はさっそく衣装とアイスピックを購入し、ニュースキャスターの音声を録音して丁寧にトリミングをした。誰にもバレないという自負があり、作戦を遂行するという覚悟があった。


 鋭いチャイムの音で目が覚め、ナオユキは昨夜の達成感を胸に抱いたまま、アパートの玄関を開ける。

 彼の目の前には、警察官の一団がいた。

「すいません、とある事件について少しお話を伺いたくて……」

「えっ、なんですか一体?」

「あなたの上司の中田さん、殺されたんですよ」

「……えっ?」

 警官は逮捕状をナオユキの眼前に突きつけ、部屋に突入する。彼の困惑を意に介することなく、コスプレ衣装とアイスピックが回収されていく。

「安堂ナオユキ、連続殺人の容疑で逮捕する」

 警官は憎々しげに手錠を取り出し、ナオユキに向かって叫んだ。


「だから、俺は無関係ですって!」

「遺体はアイスピックでメッタ刺しにされていた。お前は被害者にパワハラを受けていた。お前じゃないなら誰が殺したって言うんだ?」

「……確かにあの人のことは恨んでましたよ。でも、アイスピックは脅そうと思って用意したものなんです!! それに、ほかの被害者と面識なんて……」

「あのアイスピック、鑑定したんだよ。被害者の血痕が付着していた。丁寧に拭き取ったようだが、警察の科学技術を侮らないほうがいい……」

 取り調べを担当した刑事は冷たい目をしていて、目の前の殺人容疑をかけられた男を軽蔑しきっている様子だ。彼は溜息を吐くと、部下に耳打ちをし、ナオユキの方を向いた。

「真実を話すまで、君を拘留することに決めた。十八件目の殺人なんだ。これ以上の暴走は警察の沽券に関わるんでね……」

「違う!! 俺は無実なんだよ!!」

 必死の叫びも虚しく、ナオユキは二人の警官に囲まれた。追い出されるように取調室を抜け、留置所の中に押し込まれる。


「俺はやってないんだよ……誰か信じてくれよ……」

 ナオユキの訴えは壁に反響し、簡素な住居スペースである檻の中でエコーのように響く。返事をする者はこの場には居ず、彼は頭を掻き毟った。

「違う、俺じゃないんだよ……」

 確かに中田は嫌な奴だった。あんな小悪党、誰だって恨んでいたはずだ。殺されて当然なんだ。彼はここまで思考を重ね、確かに殺意があったことに気づいて首を横に振った。

「そウ、彼は死んで当然の悪漢ダった……。君はそウ思っテいたんだろう?」

 聞き覚えのある合成音声が響き、彼は声のするほうを振り向く。

 その声は、確かに留置所の中から聞こえていた。彼が入れられた檻の隅に、長身の身体を窮屈そうに折り曲げて『本物』が立っている。

「…………!?」

「私は執行者でアり、代行者ダ。だかラ、君に代わッて悪を討った……」スケアリー・キッドは音を立てずにナオユキの正面まで接近し、人を不安にさせる合成音声で呟く。「君もそレを望んでいタんだろう?」

 ナオユキは失禁していた。全身の毛穴が開き、呼吸の方法を忘れてしまったかのように苦悶の声を上げる。

「違う……違うんだ……」

「私は君ダ。君の脳が見セた虚像かもしれないし、君の猿真似に興味ヲ持った本物の殺人鬼かモしれない」

 スケアリー・キッドはローブ越しにナオユキの手を掴み、自らの首筋を触らせる。ナオユキはただ冷たさだけを感じ、それに実体があるかの判別をつけることは出来なかった。

「恐れるなよ。私の正体が気になるんだろう? この覆面を剥いで、何者かを知ればいいじゃないか」

 合成音声が徐々に明瞭になっていくと同時に、その声がナオユキにとって親しみ深いものであることに彼は気づく。生まれてから今までずっと聞き続けている、精神に染み付いた声だ。

 ナオユキは手を震わせながら、セルロイドのお面に指を掛ける。悪寒がして、彼は何度か嘔吐えずいた。

「目を背けるな。自分の罪を自覚するんだ」

 覆面がゆっくりと落ち、ナオユキは気絶しそうになりながらもその正体を見定める。

「言っただろう。私は君の『代行者』だ、と」

 その顔は、その声は、ナオユキ自身のものだ。表情はなく、手には押収されたアイスピックが握られている。

「肥大化して歪んだ正義は、ある種の悪だ……」

 唖然とするナオユキの首に、アイスピックが突き刺さる。スケアリー・キッドは絶命したナオユキから凶器を引き抜くと、留置所の壁に血文字で『19』と描いた。

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