都内にある大学病院、その地下。

 霊安室の隣に設けられた案内図には載っていないとある一室にて、帚桐悠は自身の雇い主に今回の顛末を伝えていた。


「君も苦労人だね、悠。出費を考えれば割のいい仕事でもないのに厄介事に首を突っ込んでいく」

「ほっとけ。もしくは給料上げろ」

「構わないけど、阿桜巴の入院費用その他を払ってもらう事になるよ? 誠意を見せろというなら善意は引っ込めなきゃならないからね」


 上の病室で眠っている阿桜巴の事を出されれば帚桐もそれ以上は言えなかった。魔術による記憶喪失の患者を柵なく受け入れてくれる病院などそうはない。受け入れてはくれても普通の日常へと帰る事は難しくなる。

 今回の件は帚桐のプライベート、それに雇い主である目の前の女は無関係だ。彼女のコネを利用している以上は大人しくけらけらと笑われる事は受け入れなければならない。


「ってか別に善意ってわけじゃねえだろ。姐さんに妙な真似はすんなよ」

「信用がないね。患者として受け入れた以上、役目は果たすとも」

「だったらなんで治療費はこっちで持つなんて言ったんだよ」


 帚桐が気にかかっているのはそこだ。教団の仕事とは無関係な患者を連れて来たのだ、逆に金をふんだくられると思っていたが、女は逆にこちらで面倒を看ると主張した。


「それは君、興味があるからだよ。君から話を聞く為の対価としては安いくらいだ」

「どっちにだ。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアか、それとも」

「久守詠歌にさ」


 その言葉を帚桐は訝しむ。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアと久守詠歌の事は『クタニド派』の一件で女も知っていた。しかし聖剣になど興味を持っていなかったはずだ。


「ああ、君には話していなかったか。久守詠歌はね、貴重な治験患者なんだよ」

「……なに?」

「片手間で進めてる魔術の素養、才能を伸ばす薬があるんだけど、その失敗作を彼は服用している。魂を肉体から剥がれやすくする薬、君にも勧めた事があったろう?」


 記憶を辿れば確かに、お茶に誘うような気軽さで一本どう? と勧められた事があった。無論、断った。


「『審問会』にも提供していてね。バートレット、いやユーリと呼んだ方がいいか。彼女が使ってくれたらしい。『審問会』が晒し上げたニコラの調書に書かれていたよ」

「なんと言うか、あいつも苦労人だな」


 もう助けるつもりはないが、個人的な恨みを抱えているわけでもない。よりにもよってこの女の薬に当たった事に帚桐は心中で同情した。


「どんな後遺症が出ているのかと思ったけれど、どうやら影響はなかったようだね。まあ僕が作ったんだ、それは当然か」

「ならどうしてあいつを気にする? あんたが興味を持つようなタイプには思えないがね」

「疑問に思わなかったのかい? 僕は君を信頼しているからこそ、気になったというのに」


 はあ? と帚桐が疑問と困惑が混じり合った声をあげると女は座っていたキャスター付きの椅子を滑らせ、壁際のソファに座る帚桐の目の前へと移動する。鬱陶しそうに帚桐が離れ、説明を求めた。


「君の悲劇を嗅ぎ付ける嗅覚は見事なものさ。君がいなければ阿桜巴は対攻神話プレデター・ロアの存在には辿り着けず、己の復讐心に身を焦がし続けるばかりだった。阿桜巴が気付いたんじゃない、君が阿桜巴に気付いたのさ」

「そんなんはどっちでもいい。それと何の関係がある?」


 たとえそうだったとしても何が変わるわけでもない。

 真実に近づく事も出来ず、悲しみと行き場のない怒りに囚われているだけの人間の思いが否定されるわけではない。

 だからこそ阿桜巴も久守詠歌を一度は信じたのだ。もっともその結果がこの現状だ。


「騙されてもいい、なんて台詞は本来騙される事はないと思っている人間の言葉だよ。本人が気付いているかは別だけど、けれどそんな人間の心中を君が見抜けないとは思えない」

「現に俺は見抜けなかった。買い被りだっつの」


 だが久守詠歌の躊躇は本物だった。間違いなくあの瞬間まで、詠歌の心は揺れていた。嘘はなかったと帚桐は断言できる。阿桜巴のような共感ではなく、経験と感覚が確かにそう告げていた。

 だからこそ復讐心を振り切り、自らの意志と決断で吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに味方した詠歌を弱者としての括りから外したのだ。


「果たして本当にそうなのかな?」

「どんな反応を期待してんのか知らねえが、解説を用意してんならとっととしてくれ」

「合いの手と訊き手の反応は重要なんだよ、まったくやりがいのない」


 くるりと椅子を回して女は床を滑る。それを面倒くさそうに帚桐は眺めていた。

 こういうマッドな手合いの話に付き合うのは酷く疲れる。


「久守詠歌がどんな人間であるのかは知らないし、興味もない。だが何故久守詠歌は阿桜巴に劣らない憎悪を宿しながらも吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに与する決断が出来たのか。何故、君がそれに気付けなかったのか。これは君への信頼と一つの事実からの逆算でしかないけれど――」


 これだ。こういう無意味なタメが帚桐は嫌いだった。自分でする分にはいいが、他人にされるのはどうにも好きになれない。特にこの女のは。


「『クトゥグア』のようにその感情を餌にしていた存在が居るとしたら、久守詠歌を知らない僕でも納得できるんだよ」


 その言葉に帚桐の瞳が細まる。それこそまさかだ。それに自分が、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが気付かないはずはない。

 如何に潜む事を得手とした対攻神話プレデター・ロアの邪神たちでもそれを知る者の前ではすぐに浮き彫りになる。望む望まずに関わらず、それが深淵を覗くという事だ。


「無理もないさ。巫女のような天然物なら気配も滲み出るが、魂の内側にまで喰い込み、巣食っているのなら誰にも分からない。僕の薬にそういう使い道があるとは思ってなかったよ。その神がいつ彼の腹を喰い破って出てくるのか、どんな神として新生するのか、興味深いね――本当に」




 ◇◆◇◆




 天上世界アースガルズ。

 女神の宮殿ヴィンゴールヴ。


「貴殿が此処を訪れるのは珍しいな、シグルズ」


 元はオーディンがとある女神の為に建てたグラズヘイムに並ぶ絢爛な宮殿の中庭にて、シグルズが一人の戦乙女ヴァルキュリアに傅いていた。


「あなたに尋ねたい事がある、ブリュンヒルテ殿」


 愛し合う男女の秘密の会合か、と吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアがこの場に居合わせたなら揶揄していただろう。

 だがそんな雰囲気など二人の間からは微塵も感じられない。あるのはただ厳格で荘厳な聖域だけ。


対攻神話プレデター・ロアを信仰する一団、教団と呼ばれる者たちに神託を与えているというのは本当か」

「ロキ様に吹き込まれでもしたか」


 言い当てられた事に互いに驚きはなかった。

 彼ならば、彼女ならば、きっと知らないはずはないと知っていた。


「……以前、地上に堕りた時、僅かだが教団の拠点である協会からあなたの聖纏気を感じた」


 対攻神話プレデター・ロアの拠点でありながらも決して侵される事のない、至上の輝き。

 それを持つのは戦乙女ヴァルキュリアの中でも数える程しかいない。

 いずれ終末者となる者の言葉を鵜呑みにせずともシグルズの中にあった疑念はやがてブリュンヒルテへと向けられていた。


「それが事実だったとして、私を糾弾するか?」


 ブリュンヒルテは否定しなかった。ただ無感情に天上が誇る勇者エインヘリアルにそう問うた。


「あなたが主神の意向にそぐわぬ事をするとは思わない。だが、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを滅ぼすだけならば対攻神話プレデター・ロアを使う必要はないはずだ。今一度オレや他の者が地上に堕りればいいだけの事」

「その必要はない。もう対攻神話プレデター・ロアを利用するつもりもない。貴殿が危惧しているような事はなにも起こらない」


 反論も意見も許さぬ否定。押し黙るしかないシグルズに慈悲の心か、ブリュンヒルテは父にしか告げていない事実を伝えた。

 感情は込めず、淡々と定まった運命を告げた。


を稼働させる」


 その単語に顔を上げる。見つめ合うブリュンヒルテの瞳に嘘は一切混じってはいない。

 ブリュンヒルテの言葉は主神の言葉も同じ。それが覆る事はないのだと悟る。

 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに温情はない。主神に背き、宝物殿から聖剣を盗み出す大罪を犯した者に対する慈悲は先の一件で十分に示した。

 だが、とシグルズは言葉を紡ぐ。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアと共に在る一人の少年を想起していた。


「それは時期尚早だ。未だ勇者エインヘリアルには吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに及ばぬ者も少なくない。そんな状況で――」

吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアは装置として破綻した。移行の時が早まっただけだ。元より貴殿らは不滅の勇者、たとえ今は力及ばぬとして心を折るような者も、甘んじるような者もいない」

「……何故、そこまでして吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを滅ぼそうとする?」


 勇者エインヘリアルの愚問に戦乙女ヴァルキュリアは即答する。悩む余地などありはしない。


「天上の正義を汚す者を、戦乙女ヴァルキュリアの名を汚す者を、どうして捨て置けるというのだ」


 そうして、新たな運命が此処に定まった。




 ◇◆◇◆




 景色が流れていく。肌を突き刺す風も身構えなければならない衝撃のない、快適な帰り道。

 後数十分もすれば県を越え、雪景色も見納めになる。来るのも去るのも乗ってしまえば呆気ないものだ。

 結界で隔たれているわけでもなく、海を越えるわけでもない。僕自身が避けていただけであの街は地続きのまま、相変わらずそこにある。

 ただ一つ心残りなのは阿桜さんの事だ。結局、彼女に謝る事が出来ないままだった。

 謝って済む事ではない。恨まれ続ける覚悟はしていた。だけど記憶を失った彼女はそれすら出来ない。僕には自分の罪を覚えている事しか出来ないのだ。責められない辛さというのは六年前のあの人から良く知っている。自業自得、因果応報ではあるけれど。

 罪は消えない。けれど自分を許せる時が来るとしたら、阿桜さんに報いる事が出来るとすれば、それは阿桜さんの復讐を遂げた時だけだ。

 彼女の六年を無駄にした僕が、彼女の六年を無意味なものにだけはしてはいけない。


「また人らしい悩みに頭を抱えているのか」

「別に。荷物は抱えたけど、引きずるよりはマシだよ」


 窓の外を眺めたままアイリスが心を読んだように言うけれど、悩んでいるわけじゃない。


「そうか。やはり言葉にしなければ分からんものもあるのだな」


 心配してくれたのだろうか。僕の答えに安心したようなしみじみとした呟きだった。

 尋ねてもアイリスは教えてはくれなかった。けれどきっと、僕の知らない所でアイリスも得られたものがあったのだろう。

 言葉にしないのは僕も同じだ、自覚してしまったこの思いを言葉にする時がいつかは来るのだろうか。


「詠歌」


 伝えられないままの別れの辛さと苦しさを痛い程知っている。そんなもしもを想像する事すら僕には耐えられない。思いを抱えたままでいる事はきっと出来ない。

 いいや、或いは。


「少し、手が冷えた」


 今にも溢れ出しそうになる思いを隠したままでいる事に、耐えられなくなるのかもしれない。

 重なった手の平の温もりを感じながら、やがて僕たちはどちらからともなく眠りにつく。

 言葉にしなくともこの温もりは確かなものだ。隠す事も騙す事も出来ない、信じる事も疑う事もない、僕たちは寄り添い、共に此処にいる。

 握り返される手が確かに事実である事を証明していた。

 僕たちは今という現実に生きている。そしてこれからも、君と。

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