結界に包まれた公園に静寂が訪れる。

 それを最初に破ったのは帚桐だった。


「……どういうつもりだ? 久守」


 怒りは感じない。純粋な疑問の言葉だった。


「お前の言葉に嘘はなかった。お前の怒りは本物で、本心だった。それぐらいは俺にも分かる。だからこそ分からねえ」


 ――ひらひらと地面に落ちる両断された魔導書の断片は黒い炎に包まれて燃えていく。


「どうして……?」


 困惑の声は阿桜さんのものだった。信じられないという驚愕と失意が滲んでいる。それが怒りへと変わるのは一瞬だった。


「どうして……! どうしてどうしてどうして!? ――今更裏切るの!? その悪魔を信じるの!?」


 こんな僕を信じてくれた人に対する、最低の裏切り。それを真正面から受け止める。

 受け止めた上で、僕は彼女の復讐を否定する。


「阿桜さん、六年前の災厄と吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアは無関係です。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア自身も一度も肯定はしていません」


 それに阿桜さんが見たという天使と吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの姿が一致しているなら、初めからそう言っているはずだ。


「それだけで信じられるの!? それだけで止まれって言うの!? 六年間探して辿り着いたのに、それだけの理由で!」


 それだけじゃない、僕も覚えているのだ。

 あの日見た空を、僕らを見下ろすオーロラは吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを示す血のように紅い色ではなく、憎たらしい程に綺麗な色で煌いていた事を。


「そんな事だけでやめられるわけない……君もそうでしょ!? ずっとずっと忘れられなかった好きな人の仇なのよ!? たったそれだけの事で信じられるって言うの!?」


 首を振り、否定する。信じられたのなら此処には立っていない、その言葉に嘘はないんだ。

 アイリスの方を振り返る。肯定もせず、否定もする事がなかったアイリスは何も言わず、此処に現れた時と同じ瞳で僕たちを見つめていた。


「信じたわけじゃないんです。だけどいつからか僕は……」


 初めて出会った時か。シグルズに役割を聞いた時か。本心を暴いた時か。一度別れた時か、再会した時か。いつからかは分からない。

 だけど信じる事の出来ない僕は――。


「――君になら騙されてもいいって、そう思ったんだ」


 真実を隠していたのだとしても、それで構わない。何も知らないまま、騙されたままならそれでいい。

 君が本心を隠すならそれでいい。君が虚勢を張り続けるならそれでいい。君がいいなら、それでいい――そう思ってしまっていた事に気付いてしまったから。



「……馬鹿な男だな、お前は」


 呆気に取られた表情を浮かべた後、アイリスはそれに笑みを加えた。

 その通りだ。僕はどうしようもなく馬鹿で臆病だ。そんな僕が、六年間を怠惰に生きた僕が、変わろうと足掻いた結果がこれなんだ。

 阿桜さんの怒りを知った。阿桜さんの執念を知った。今も尚、僕の中でも燻り続ける憎しみを自覚した。

 蝙蝠のように復讐する者とされる者の間を飛び回り、彼女たちが抱える事情を知った。知らなければならないと思った。

 知らなかったなんて免罪符はない。知る事を望んだのは僕なのだから。

 もう言い訳の余地はない。これは切り捨ての選択ではなく、僕自身が選び取った決断だ。


「…………ああ、そう」


 俯く阿桜さんからは何の感情も読み取れない。僕に許していた心が、向けられていた信頼が完全に消え去っている。


「同じだと思っていたけど……そんな簡単に止まってしまう君はもう、忘れてしまったのね」


 顔を上げた阿桜さんはもう、僕には微笑まない。

 アイリスに向けるものと同じ憎しみを向け、感情を爆発させた。


「だったら思い出させてあげる! 私の炎で、私の熱で! 君が忘れた憎悪と復讐の業火をッ!」


 ……たった一つだけ、彼女に共感できない事があった。でも今は違う。今なら彼女の怒りと憎しみ、その全てを肯定できる。受け止める事が出来る。


「『ふんぐるい むぐるうなふ くとぅが ほまるはうと んがあ・ぐあ なふるたぐんいあ!』――『クトゥグア』!」


 何千という数を複写し続けた彼女は一息に呪文を諳んじ、憎悪を込めてその名を呼んだ。

 変化は明確だった。周囲を歪ませる程の熱が発生し、空間そのものが焦げ付いた臭いを発している。

 事態を静観していた帚桐が目を見開く。僕が斬り捨てた魔導書の断片は完全に消滅した。にも関わらず『クトゥグア』が降臨しようとしているからだ。


吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア


 彼女の勇士でなくなった僕の声に返事はなくとも構わず言葉を続ける。


「僕は君を裏切った。そんな僕をもう一度信じられるなら、僕の手を執って、抜いてくれ」


 聖剣を逆手に持ち替え、柄を差し出す。この問いかけにどう答えるか、それは僕には想像も出来ず、する暇もなかった。

 重ねられた手の平は小さく、まるで少女のようで。しかし浮かぶ笑みはやはり、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアのものだった。


「戯け。お前を信じた事など一度もない――私はただ、お前の求めにならば応じてやっても良い、そう思っているだけだ」


 本来の、至上の輝きを取り戻した刀身に反射する僕の顔は、少しだけそんな彼女に似ていた。


「いくよ、ジュワイユーズ、アイリス!」

「いくぞ、夜影の禍槍ヴェルエノート、詠歌!」


 翼を広げ、戦装束へと身を包んだアイリスと並び立ち、僕は降臨を果たさんとする『クトゥグア』とその召喚者たる阿桜さんへと向かって駆け出した。

 迫る間にも『クトゥグア』は徐々に顕現していく。全てを焼き尽くす生ける炎、無数の光球を従えた巨大な炎。物語で語られる『クトゥグア』は『ウルタールの猫』とも『アイオド』とも違う脅威、多くの配下、眷属を従えるとされている。

 本体に先立って出現したあの光球は『クトゥグア』の一部ではなく、『炎の精』と呼ばれる眷属の一種。なら僕がすべき事は決まっている。


神名裁決しんめいさいけつ――盟神断刀くがだち!」


 僕には神を殺すなんて出来ない。ジュワイユーズでは神に届かない。

 けれど神ではない眷属が相手ならば、ジュワイユーズはその力の全てを発揮できる。

 人間が相手でないならば、ジュワイユーズが僕に伝える必殺の軌跡に抗う必要もない。


「アイリス! 露払いは僕がやる! 君は『クトゥグア』だけを狙え!」


 多少を斬り捨てたところで『炎の精』はまだまだ湧いて出てくる。上等だ、それぐらいじゃなきゃ僕はもう一度勇士だなんて名乗れはしない。


「神殺しの邪魔をするな」


 これぐらいで罪滅ぼしが出来るなんて思っちゃいない。僕がした事の責任を取れるとは思っちゃいない。そんな自己満足も僕には許されない。

 それでも、こんな僕を自分の勇士と呼んでくれた彼女に報いたい。

 もう二度と自分の立つ場所を変える事はしない。黒翼を翻すアイリスの背を見つめて誓う。

 たとえ君の前に立つ事が出来なくとも、君の背を見守る事しか出来なくても。

 結局の所、僕は――。


「ッ――!」


 ジュワイユーズの間合いに入り込んだ『炎の精』の熱が肌を焼く。今も際限なく召喚され続ける『炎の精』、直接触れなくとも僕を焼き殺すには十分な熱量を持っている。取りこぼせば取りこぼしただけ僕の体を焦がしていく。

 いや、それだけじゃない。気付けば阿桜さんを中心として炎の柱が上がっている。直視するだけで眼球が蒸発しそうな錯覚を覚えるあれが『クトゥグア』、アイリスと相対しながらもその敵意の大部分が僕に向けられている。阿桜さんの怒りが目に見えぬ炎となって僕を焼いているのだと理解する。

 それでいい。たとえこの身が焼かれ続けようと燃え尽きるよりも早く、神殺しが為されればいいだけだ。『クトゥグア』は『ナイアルラトホテップ』に匹敵する神性、その力が僅かにでも僕に向く事でアイリスの助けになれれば、それでいい。


「……ったく、弱い奴の戦い方じゃねえだろ」


 新たに向かって来る三体の『炎の精』が間合いに入るよりも早く霧散する。鞭のようにしなる何かが薙ぎ払った事だけが分かった。


「帚桐」


 それを為せるのはこの結界内にはこの男しかいない。いつの間にか僕の前に立っていた彼は面倒くさそうに、厄介そうに嫌々といった様子で頭を掻き、僕に背を向けた。


「僕たちの味方をするのか」

「勘違いすんな」


 その背に問いかければぶっきらぼうな声が返って来る。


「俺は弱い奴の味方だ。暴走した『クトゥグア』を放置すりゃ、関係のねえこの街の住人まで巻き込まれる」

「そうだね、僕のせいだ」

「分かってんなら責任取れ。……ちっ、俺まで信じる心を失っちまいそうだ」


 気付いたのだろう。彼が弱者の味方なのだと僕が確信した事、それが最後の一押しになったのだと。

 斬り捨て、薙ぎ払っても減る事のない周囲を囲む『炎の精』に気付けば僕らは背中合わせに共闘する。


「お前、これで全部解決するって思ってんの、か!」

「まさかッ!」


 口を開けば喉が焼ける、それでも帚桐は僕に怒鳴りつける。それに同じ怒号で返す。


「あの『クトゥグア』を殺せば姐さんの憎悪もなくなる、考えてんのはそんなとこだろ!」

「ああ、そうだよ!」


 こうなった時、帚桐は僕たちと敵対する道は選ばない。そう確信出来たからこそ、僕は阿桜さんと言葉による決別ではなく、行動による決着を選んだのだ。

 もしも言葉だけならば阿桜さんは僕に怒りを燃やす事はしなかっただろう。復讐の相手が居て、復讐する手段さえあれば彼女は良かった。復讐こそが今の彼女の生きる理由なのだから。僕にとって彼女が得難い存在だったように、彼女にとってもそうだったかもしれない。だけど所詮はそれだけなんだ。僕がいようといまいと彼女は止まらない。

 だが僕は彼女の復讐を止めようとした。魔導書の断片を無に帰した。そうなれば僕の存在は彼女にとって許せるものではない。耐えがたい存在へと変わる。


「『クトゥグア』が召喚できる保証もなかったのにか!」

「それならそれでも良かったさ!」


 さっきの帚桐の驚愕からただの一般人でしかない阿桜さんが魔導書もなく召喚に成功する事の異常性は分かる。

 けれど僕は心の何処かで予感していた。何故、教団が聖剣の存在だけを把握し、聖剣の銘とそれに封じられた魔槍の存在だけを知らないのか。それは僕らにとっては都合の良い事だが、あまりに都合が良過ぎる。そこに何者かの意図を感じずにはいられなかった。

 魔槍の存在を隠したまま、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを葬りさりたい何者かの意図を。

 いや、それについて考えるのは後だ。


「あんな真似をしたのも自分に憎悪が向けば吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの負担が減るからか!」


 頭上を通り過ぎる銀の鞭――それは鎖だった。ようやく目で追う事が出来たそれを潜り抜けながら立ち位置を入れ替え、眼前へと迫った『炎の精』にジュワイユーズを突き刺す。統率された意思を感じるものの、消え去っていくそれは生物とは思えない。


「それもある!」


 召喚された邪神の特性を聞いた時に思いついた事だ。ニコラのように訓練された魔術師ならば生贄によって代替し、自らは代償を支払う事無く邪神を思うままに操る事が出来るが、阿桜さんは魔力の代替として感情を喰らわせる、それによって敵意に指向性を持たせる事ぐらいしか出来ない。ならそれを乱してやれば間接的に『クトゥグア』の力を削ぐ事に繋がると思った。後はこうして横やりが入らないように足掻く事しか出来ないけれど、無駄じゃないはずだ。

 それに召喚された邪神が感情が形になったものであり、それを殺す事でどうなるか、というのもアイネの件で分かっている。

 アイリスに対する態度が軟化したのは単に僕や会長に対する感謝の念だけではないはずだ。恨みや怒りが全て消えるわけではないにしろ、少なくとも自らの心を焦がし尽くす程の炎は残らない。


「だけどそんな優しい理由だけじゃないさ!」


 色々と考えはあったけど、それは後付けの理屈でしかない。

 帚桐は最後まで気付かなかった。僕と阿桜さんは互いに共感者であったけれど、決して互いの理解者ではなかったという事を。

 これが僕の信念だと言える程の確固たるものではない。だけど一つだけ、共感も理解もしたくなかった事がある。


「じゃあなんだ!?」

「……ある勇者エインヘリアルが言った! 自分の中に理由を見つけられず、誰かの為にとも誇れないのなら戦う資格はないと!」


 その言葉は僕の中でずっと残っている。きっと誰よりも正しい真の勇者エインヘリアルの言葉が。

 それは正しいのだろうと感じながらも僕は誰かの為だとは誇れない。その言葉は僕には重過ぎる。だから僕はあれからずっと自分の為に戦ってきた。


「帚桐、君が僕と阿桜さんに力を貸してくれていたのは誰の為だった?」

「ああ!? お前らの為だって言ってんだろうが! ふざけんな!」


 やはり弱者の為にという信念を抱く彼は僕なんかよりも何倍も強い。

 力だけではない、心がだ。

 こうも力強く言い切られてしまえばいっそ心地良い。帚桐は生きている人の為に戦っているのだ。


「でも阿桜さんは違う。あの人は復讐は大切な人の為だと言った」


 こんな僕が自分を棚上げにしてでも阿桜さんの復讐が許せなかった。

 それだけは僕にとって譲れない一線だった。信念とは呼べない、ただのエゴだけど。


「生きている奴が死んだ奴の為に出来る事なんて何もない……そんなもの、死者に理由を押し付けて、言い訳にして、誰かのせいにしているだけだ」


 ……どんな過去の上でも、僕たちは生き残った側の人間だ。

 生き延びた事を幸福だとは思えなくとも、それはどうしようもなく幸運な事で、今を生き、明日を生きれる事は幸福なはずなんだ。

 僕は絶対にその言葉だけは口にしない。これ以上死んだ人に、久永に何かを押し付ける事だけはしない。久永を言い訳に使う事だけは絶対にしない。

 そうしてしまったら、僕が僕を許せない。そんな僕にだけは絶対になりたくないんだ。

 死者への弔いも祈りも尊いものだけど、それは生きている者がつけるケジメだ。それでも僕らは生きていくのだという示しだ。

 死んだ人間の為に生きる事も死ぬ事も僕らには出来はしない。

 もしも阿桜さんが自分の為だと口にしていたのなら、きっと僕は彼女に味方していた。戸惑いも躊躇いもなく、彼女の力になれていたはずだ。

 だけどもう遅い。後戻りなど出来はしない。僕は自らの意思で選んだ。


「……んだよ、お前に味方する必要なんてはなっからなかったんじゃねえか」


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