数日とはいえ何日滞在するかはっきりと分からなかった為、出来るだけ安いビジネスホテルにでも泊まるつもりでいた詠歌だが、それを察した彩華に止められた。お金の問題があるのは分かるが、せっかくなのだから日本らしい宿をアイリスに体験させるべきだと諭され、予約を取った古い温泉宿。其処に至るまでの道のりも二人の間に会話らしい会話はなかった。

 チェックインを済ませ、案内された部屋は十畳ほどの和室だった。窓からすぐそばに山の木々が見える。立地は詠歌の家と大差ないが、視線を下に向ければ清流が流れ、風流な雰囲気が漂っている。


「……お昼、どうする?」


 少ない荷物を置いた後、微妙な雰囲気の中でアイリスに問いかける。決して険悪というわけではないが、普段と違い少し居心地の悪くなる静けさだった。


「……いや、今はいい」


 アイリスはぼんやりとした調子で首を振った。食事を断るなんて初めてだと思いながらも、詠歌の事を気にしているのではなく、レスクヴァの事を考えているのだろうな、というのは何となく理解できた。


(何をそんなに焦ってるんだ)


 口には出さない。アイリスは詠歌の選択を否定する事はほとんどない、だが同時に自分で決めた事を曲げる事もない。レスクヴァの前で答えなかったのなら今訊いても同じ事だろう。


(……駄目だな。僕ももう少し頭を冷やそう)


 レスクヴァの心遣いむなしく、詠歌はまだ自分が平常心を取り戻せているとは思えなかった。身勝手な事だと思うが、にべもなく拒絶された事が後を引いている。


「僕、少し出てくるよ」

「ああ。……待て、これを持っていけ」


 壁に背を預けて座るアイリスに背を向け、一度も腰を下ろす事無く詠歌が部屋の外に向かうとアイリスがその背に何かを投げつけた。

 振り返って手を伸ばせば、バサッと黒いマントがかかる。擦り切れた彼女のマントだった。


「何があるか分からん。聖剣であればお前でも取り出せる」


 言われた通り、マントが被さった手に硬い感触がある。どういう仕組みかは分からないが、このまま掴んで引き抜けば聖剣はその姿を現すはずだ。


「でもこれは」

「良い。持っていけ」

「……分かった、借りるよ」


 出来るだけ丁寧に折りたたみ、肩にかけた鞄の中、一番上に仕舞い込む。家の外では肌身離さず身に着けているマントをこうも簡単に詠歌に預ける事に違和感はあったが、アイリスは詠歌に目も向けずに何かを考え込んでいる。本人がそう言うのなら聞き返さない方がいい、そう判断する。


「それじゃ、また後で」


 それを見送る言葉も視線もなく、詠歌は部屋を後にした。

 旅館内には時間を潰せそうな場所はない。精々小さな土産物屋があるぐらいだが、そんな気分にもなれない。詠歌の足は自然と外へと向く。

 旅館の外から出ればその足取りは淀みない。当然だ、詠歌はこの道を知っている。


「変わってないわけじゃない……元に戻りかけてるんだ」


 所々、『災厄』の跡を残す道と修繕された真新しい道が景色の中で同居している。詠歌の知っている景色とはその割合が逆転していたが、懐かしさはある。

 外を歩く人の姿はあまりない。此処は田舎と言える場所でましてや民家の少ない山間部、外出するなら車がほとんどだからだ。詠歌も自分の足で歩いた記憶はない。だが十五年近く場所、迷う事はない。


「……やっぱり冷えるな」


 震える指先を押さえる。寒さのせいか、それとも体調を崩したのか、少し視界も揺らぐ。行く当てはないがそれでも足を止める事無く進んでいく。

 どこか見覚えのある景色が延々と続く田舎道、迷う心配がないのならと頭が冷えるまで歩き続ける。

 それから十五分程歩いただろうか、詠歌は高台にある緑地公園の入り口前の階段で立ち止まった。


「……?」


 思い入れがある場所ではない。足を止めたのは階段の上から声が聴こえて来たからだ。話し声ではない、女性の歌声が風に乗り、詠歌の耳に届く。自然と詠歌は階段を上っていた。


「――――」


 一段上る毎にその歌声は大きくなる。歌と言っても歌詞はないただの旋律。母音だけで形成されたメロディー。

 詠歌には歌の良し悪しを語れる程の知識はないが、その音は心に響いていた。

 階段を上がりきった先は公園とは名ばかりの遊具の一つもない砂利の広場。ただ街を見下ろす展望台が設置され、数脚のベンチと石碑が一つ置かれている。

 歌声の主はその石碑の前に立っていた。


「Ah――――」


 ポニーテールに束ねられた茶髪の髪がリズムを取るように風に揺れる。街を見下ろしながらその女性は歌を石碑へと捧げている。

 石碑の横に建てられた木製の看板が慰霊碑である事を示している。

 こんな物があっただろうか、と記憶を辿ろうとして気付く。大災害の後に訪れた事などないのだから知らなくて当然だった。


「――」


 砂利を擦る足音に女性が気付き、振り向いた。歌声が途切れ、詠歌は言いようのない罪悪感のようなものに囚われる。神聖な儀式を邪魔してしまったような、そんな感覚。

 思わず一歩後退った詠歌に女性が微笑む。


「あ、っと……」


 女性は黒のスーツ姿で歌姫などではない事は明白だ。歌手を目指して練習していたのか、それとも本当にただ歌を捧げていたのか。

 何かを話そうとして言い淀む詠歌に女性が口を開いた。


「こんにちは。あなたもお参りかしら?」

「こん、にちは……」

「それともただの散歩? それなら悪い事をしちゃったわね」


 詠歌の罪悪感とは裏腹に女性は気分を害した様子はない。むしろ申し訳そうだった。


「いや……歌が聴こえて来たので」

「ああ、ごめんなさい。ちょっと熱が入りすぎちゃったみたい」

「今の歌は慰霊碑に?」


 先程までの神聖な雰囲気が霧散し、ようやく詠歌も調子を取り戻して会話に応じ、気になっていた事を尋ねる。尋ねてどうなるわけでもないと知っていながら、それでも訊かずにはいられなかった。


「ええ、まあね。日課なの。自己満足だけど」

「……」

「その顔、あなたも同じ用件みたいね」

「僕は……」


 そんなつもりはない。此処に慰霊碑が建てられていた事すら知らなかったのだ。そう否定しようとしたが何故か言葉が出て来ない。


「見れば分かるわ。此処で色々な人を見て来たから」

「……偶然通りがかっただけです」

「隠さなくてもいいのに。辺鄙な場所だから此処に来るのは散歩する老人か、お参りする人ぐらいだから。子供も減ったからね」


 どうにかそう絞り出すが、女性は笑って首を振る。

 ああ、そうか、とすとんと胸の内に言葉が入り込む。


(考えてみればそうだ。別に此処でまで隠す必要はない。この街の人は皆、僕と似たようなものだ)


 女性が慰霊碑に触れ、何処か遠い目をして言う。思い出かそれとも忌まわしいあの日の記憶を馳せているのかは分からない。


「あれから六年も経っているんですもの。冷やかしに来る人なんていないわ」

「六年……」


 その年月を改めて口にしても詠歌に実感は湧かなかった。それだけの月日が過ぎているなんてまるで冗談のようだと思った。

 けれど駅の横断幕も街の景色も、世界は確かに時を刻んでいる。


「もう、そんなに経ってたんだ」

「そう思うのも無理はないわ。……私たちにとってはまだ何も終わってないもの」


 ――かつてこの地を災厄が襲った。多くの死者と僅かな行方不明者を出した大災害。

 建物は倒壊し、地面は割れ、火災に水害、様々な被害が出た。

 地殻変動によって起きた局地的な地盤沈下が原因とされ、街の一部は大きく沈み込んだ。それによって起きた二次災害で県を跨いで多くの犠牲者を出した事が大災害と呼ばれる所以。

 いくら時を刻もうと、いくら月日を重ねようとそれは終わらない。遺された者たちにとっては終わりなどない。


「あなたは……」

「私は阿桜あざくらともえ。見ての通りの未亡人よ」


 見ても分からないか、と片目を瞑り、茶化すように名乗った巴の瞳には深い悲しみが宿っている事が詠歌には分かった。

 彼女と自分は似ているのだと自然とそう受け入れられた。


「僕は久守詠歌、です」

「詠歌君か。良い名前だね。せっかくだからあなたも一緒に祈っていく? 人に聴かれるのは少し恥ずかしいけど」

「……はい」




 ◇◆◇◆




 ――これは、これから起きる一連の騒動に関しては、僕が語るべきなのだろう。

 神の視点ではなく、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの視点でもなく、他でもない僕が結末までを語るべきだ。

 幾重にも張っていた見栄を脱ぎ捨て、虚勢を剥いで、僕という人間として。


「Ah――――」


 阿桜と名乗った女性の歌声を何処か遠くに聴きながら僕は黙祷を捧げる。

 こんな風に誰かと共に祈りを捧げるのはどれくらいぶりだろう。六年前の大災害はこの国にとっても大きな爪痕を残し、人々の心にも刻まれた。今も大学では毎年祈りを捧げているし、テレビ等でもそう呼び掛けているけれど……こんな風に心を込めて祈るのは多分、初めてだった。

 彼女の歌声のおかげだろうか、今はただ心からの黙祷を捧げた。


「Ah――」


 彼女の歌声が僕の心に訴えてくるのだ。思いは決して届かなくとも祈りを捧げる事は出来る、それは無意味ではないのだと。一人でただ抱え続ける必要はないのだと。

 我ながら単純な事だと思う。六年ぶりに訪れたこの街がそうさせるのか。こうして祈りを捧げていると思い出せる。

 思い出はいつしか記録となって感情を伴わなくなる。愛情であれ憎悪であれ、実感がなければ薄れていく。僕の中でもそうなっていたと思っていたものが内から溢れ出る。僕の中にまだ『彼女』が居るのだと実感と共に湧いて来る。


『――詠歌』


 懐かしさと共に思い出せる。彼女の声、彼女の吐息。記録は色を伴って思い出と共に僕の名を呼ぶ。

 ……久永ひさな

 心の中で彼女の名を呼ぶ。それすら随分と久しぶりに感じる。

 忘れた事はなかった。彼女の事は今も覚えている。けれど周囲にはずっと隠してきた。会長が知ればきっと悲しむ。あの人は誰かの不幸を悲しめる人だから。そんな気を遣わせたくなかった。そうしている内にいつの間にか薄れていたのだと気付いて、酷く苦しくなる。

 六年前に起きた大災害。実感が湧かない程の多数の死者が出た。そのほとんどは発見され、手厚く葬られたがたった数十人だけ、被災者は数万人にも上りながらもたった数十人だけ行方不明者が出ていた。

 伊月いつき久永ひさな――僕の幼馴染はその数少ない行方不明者の一人だった。


「Ah――」


 ……いいや、違う。ただの幼馴染じゃない。


「久永……」


 僕にとって……彼女はきっと、初恋の人だった。

 そうだ、だから僕はこの街を出た。彼女の居ない街の景色に、日常に耐えられずに逃げ出した。運命なんて信じていないけれど、今こうしてこの街を再び訪れる事になったのは因果な事だとは思う。

 今でも覚えている。久永は僕の目の前で瓦礫の向こうに消えた。避難所へと向かう途中だった。もしも立ち位置が逆だったなら、もしも違う道を通っていれば、そんな後悔が何度も浮かんでは消えた。


「Ah――」


 君のせいじゃない。周囲の人間はしきりにそう言っていた。分かっている。

 君だけでも無事で良かった。大人たちは僕にそう告げた。分かっている。

 誰も悪くない。それは分かっている。……地獄のような光景の中を歩いた。あれを見れば分かってしまう。あれは誰かがどうこう出来るものじゃなかった。誰か一人が頑張ってどうにかなる、そんなものじゃなかった。


「……」


 いつの間にか歌は終わっていた。その事に気づかずに黙祷を捧げる僕を阿桜さんは待ち続けていたらしい。

 瞼を開き、改めて慰霊碑を眺める。そこに刻まれた『慰霊祈念碑』という文字を手の平でなぞる僕に阿桜さんは言う。


「ただの石に祈る事に意味なんてないと思っていた。この下に誰かが眠っているわけでもなければ、死んだ人に声が届くわけでもないって」

「……」


 少し驚いた。祈りを捧げる事を日課にしている人が僕と同じように考えていたなんて。


「失った悲しみや行き場のない怒りが消えるわけじゃなくとも、心の整理には丁度いいですよ」


 少しずつ少しずつ、かつての記憶を心の奥底へと仕舞い込む。そうする事で人は強くなくとも歩いて行ける。

 向き合う強さがなくとも、時間が過去を置き去りにしてくれる、なんて。後ろ向きな考えだけれど。


「私はさ、恋人を失ったんだ。今もまだ見つかってない」


 不思議と驚きはなかった。何となく彼女は僕と同じなのだと感じていたから。


「それじゃあ行方不明になった中に……」

「そう。二万人近く居る被災者の中の一人、二万分の二十三の確率に当たるとか、運がないよ」


 彼女と僕は似ている。それは今まで出会った人たちの中での話でしかないけれど。

 彼女は僕と同じ、立ち直りながらも前に進めない、あの日で立ち止まったままなのだろう。


「君も似たようなものじゃないの? ただテレビの中の出来事に心を痛めてるって風じゃないよね、君」


 短い会話と祈りの中で彼女も感じていたのか、確信めいた物言いだった。

 会長やアイリスに隠していた事を見抜かれた事に驚きはない。僕の様子を見れば簡単に察せられる事だ。

 ……これはきっと、いい機会だ。終わりがなくとも一つの決着をつける時なのだ。

 彼女の歌声に安らぎを感じ、理性によって設けた柵が綻んだ今こそ僕が変わる時なのかもしれない。


「僕は――」

「おーっす、お待たせー」


 全てを吐き出して、曝け出してしまいたい。その衝動に身を任せかけた時、公園内に新たな人影が現れる。

 間延びした口調と共にいつの間にか僕の背後に立っていた男が僕の横を通り抜け、阿桜さんの肩に手を置いた。


「……あなたねえ」

「あれ、タイミング悪かった?」


 枯れ葉色の褪せたモッズコートに身を包んだ若い男。僕と歳はそう変わらないように見える。男の手を払い、呆れた表情で阿桜さんは眉間を押さえる。知り合いには違いないようだが、あまり好ましくは思っていないらしかった。


「空気の一つも読めないの?」

「ええ? だから空気読んで歌が終わるまで寒空の下で待ってたんだって」


 日本人らしい黒髪の中に混じる一房の白い髪、まるでバンドマンのようだな、なんて場違いな感想を抱く。


「やれやれ、あー、なんだ、君もごめんね? お話し中だった?」


 機嫌を損ねた事に肩を竦めつつ、男は苦笑しながら僕に声をかけた。僕も曖昧に笑い返す。

 ……少しだけ安心した。彼が出て来なかったら僕は空気に流され、彼女に醜態を晒してしまっていた。どこか夢見心地だった世界が現実味を取り戻し、自らの軽率さを呪う。


「って、んん?」

「……何か?」


 僕の顔を見て男が首を傾げる。ジロジロと品定めするような視線に不快感を覚え、思わず一歩退いてしまう。


「もしかしてなんだけどお前、久守詠歌って名前だったりする?」


 半信半疑といった様子で男が口にした僕の名前に、鞄の中のマントに手を突っ込み、聖剣の柄の感触を確かめながらさらに二歩、距離を空けた。




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