③
それから大した会話もなく歩き続け、やがてアイリスが足を止めた。
「此処だ」
「……此処?」
目の前にあるのは何の変哲もないアパートだった。強いて言うなら随分と年季の入った木造建築……有り体に言えばボロアパートと形容する他ない。
普通の木造住宅に
しかし二階通路の柵にアイリスが生み出した使い魔が逆さに留まっている。道を間違えたわけでもなく、此処が目的地に違いないようだ。
(戸籍とかの問題を考えれば大っぴらに店を開けるわけもないか)
そう納得する事にして、カンカンと音を鳴らしながらいつの間にか階段を上り始めたアイリスを追いかける。
追いついた扉の前に表札はなく、チャイムもない。向こうから覗くドアスコープがあるだけの扉だった。
アイリスは躊躇なくその扉をゴンゴンと叩く。すぐには反応はないが、放っておくといつまでも叩き続けそうだったので手を掴んで止める。
「……」
「……」
沈黙が暫く続いた後、反応があった。
「…………う〝ぁーーーーい」
獣の唸り声のような、身近な物に例えると寝起きの声のような、そんな感じ。
ドアノブが向こうから回され、開かれる。
「家賃なら来週まで待ってくれるって話……」
上下グレーのスウェット姿でぼさぼさになった金髪を掻きながら女性が部屋から顔を出す。
眠たげな瞼をこすり、またも唸りながら来訪者であるアイリスと詠歌へと視線を向けた。
「あー……?」
「……どうも」
仁王立ちするアイリスとぺこりと会釈する詠歌を見比べ、沈黙。
「……うわっとぉ!?」
バン! と音を立てて扉が閉じられた。向こうから慌てた声が聞こえてくる。
「あーあー! えっと、あれだ、お客さん!」
「……ええ、まあ」
詠歌は多少なりとも身構えていた自分が馬鹿らしくなってしまう。
シグルズやアイリスのように一目でそれと分かる雰囲気はない、何というか普通よりも少しズボラな感じのお姐さんにしか見えなかった。
バタバタとした音の後、改めて扉が開かれる。
「……ようこそ、いらっしゃいませ」
この短時間でどうやったのか、次に顔を出したのは美しいショートヘアの金髪を持ち、パリッとしたYシャツを着こんだ女性だった。
「本日は当店にどのようなご用件でしょう?」
◇◆◇◆
とりあえず中に、と二人は部屋に通された。
通された部屋の中は小綺麗だが生活感はあまりない。客の応接間なのだろう、此処だけを見れば木造アパートとは思えない。
張り替えたのか床はフローリングで黒のソファがステンドグラスのテーブルを挟んで向かい合って置かれている。
「初めてのお客様ですね? どなたかのご紹介で?」
部屋の隅に置かれたポッドで紅茶を淹れながら女性が問う。アイリスに任せようとも思ったが、店らしい普通の応対に詠歌が返す。
「いえ、紹介は受けてません」
「なら広告を見てですか、ありがとうございます。どうぞ」
「どうも」
紅茶を二人の前に置いた後、女性が対面に腰かける。部屋に入ってからの応対は出来る女性そのものだ。
「先ほどは失礼しました。私はレスクヴァと申します」
「いえ、僕たちも急でしたから……久守詠歌です。こっちはアイリス」
腕組をしたまま何も言おうとしないアイリスに代わり自己紹介を済ませると、レスクヴァと名乗った女性が営業スマイルを浮かべてボードを取り出してテーブルに置く。
「ご存じでしょうが当店は家事代行を主に行うホームヘルパー派遣のようなものです。勿論、他にご希望があれば出来る限りお応えします」
「……」
残念ながら今の久守家の家計はヘルパーを雇う程の余裕はないし、必要も感じない。
ボードに書かれたコースを見ても選ぶ事は出来ない。しかし便利屋じみた事をしているとアイリスは言っていたが想像以上にしっかりとしたシステムだった。
「お願いしたいのは家事ではなくて……マントです」
このままでは冷やかしに終わってしまう、躊躇いがちに詠歌が依頼を口にする。
「マント……? 申し訳ありませんが、衣服の製作というのは当店の業務内容には……」
レスクヴァの困惑顔に詠歌はアイリスを見る。本当に彼女で合っているのか一気に不安が高まる。
とぼけているだけかもしれないが、その判断がつかない状態でミズガルドや聖剣などという単語を口にするのは度胸が必要だった。
「もしかして別のお店と間違えていらっしゃいませんか?」
何とも言えない空気の中、これ以上どう切り出すべきか、と悩む詠歌だったがアイリスが口を開いた。
「天上に知らされたくなければ私に従え」
「っておい!?」
前置きも何もない直球の、しかも脅しだった。そのあまりにストレートな物言いに流石に詠歌が声を上げる。
これで人違いだった場合、旅の恥と言えど精神的に辛い。仮に合っていたとしてもアイリスの態度は看過出来ない。
「……」
微笑を浮かべたまま硬直するレスクヴァに、やっぱり人違いだったかと顔を覆いたくなる。
だがレスクヴァは笑みを消し、表情を真剣なものに変えてアイリスを見た。
「…………あなた、どちら様です?」
さっきまでよりも低い声のトーン、警戒した様子のレスクヴァにアイリスが言葉を続ける。
「ミズガルドの人間に言っても分かるまい」
「あー、そこまで知ってるって事はハッタリじゃないんだ……」
レスクヴァは片手で顔を覆い、髪をかき上げた手の隙間から詠歌とアイリスを窺う。
その反応から間違いではなく、彼女が目的の人物なのだと詠歌は悟る。
「理解したなら恭順の姿勢を見せるがいい」
「……とりあえず話は聞くよ。ただ脅しには屈しない」
高圧的な態度に詠歌は制止を掛けようとしたが、アイリスの視線を真っ向から受け止めながらレスクヴァはきっぱりとそう口にした。
「ほう? いい度胸だ」
「度胸だけはあるもので」
アイリスが誰か分からずとも人間でない事は察しているはずだが、レスクヴァが怯む様子はない。
ただの人間だと言ったアイリスの予想は外れていたらしい。
「僕たちは頼む側だ。そういう態度はやめてくれ」
「ふん」
聞いているのかいないのか、アイリスは視線を逸らしてソファに背を預けた。
そしてレスクヴァの視線は詠歌へと向けられる。
「あなたは普通の人間? そちらのお嬢様との関係は?」
「地上生まれの普通の人間です。……彼女の
「エインヘリアル、地上の?」
疑いの視線に晒されるが詠歌にはそうとしか答えられない。それ以外にアイリスとの関係を形容する言葉はないのだから。
「本当に? もしかしてどっちかが『ロキ』様であたしを謀ってない?」
レスクヴァの口から飛び出した『ロキ』という北欧神話のビッグネームに思わず驚く。
アイリスも同じだったのか、口を挟んだ。
「あの性悪と一緒にするな。そもそも何故奴がお前を謀るのだ」
「そりゃいつもの事だったし……って、あたしが誰だか知って来たんじゃないの?」
「なに?」
どういう事だ、という視線が詠歌からアイリスに、アイリスからレスクヴァへと繋がる。
何かが噛み合っていない。もしかするとただの人間じゃないどころか、彼女がとんでもない大物なのではないかと詠歌は読み込んだ北欧神話の記述を思い出して辿っていくが、レスクヴァという名前には中々行き当たらなかった。
「はーはーはー。って事は天上からの使いってわけじゃないんだ」
僅かに警戒が緩むのが分かる。どうやら彼女もアイリス同様、天上から追われる立場にあるようだ。
警戒は自分を連れ戻しに来たと思っていたからなのだろう。
「てっきり馬鹿兄貴が泣き言言って、あたしを連れ戻すように頼んだのかと思ったけど、そういう事」
「兄……?」
「そ。こっちの人なら兄貴の事は知ってるんじゃない。身内の恥が伝わってるってのはキツイけど、『シャルヴィ』っていう馬鹿の話、知らない?」
その名前には心当たりがあった。
何せ北欧神話において
「知っているのか?」
「……ただの人間とかよく言えたね」
そしてその名前に釣られて思い出す。媒体によっては名も語られず、ほとんど記述のない妹の名をレスクヴァと言ったのだと。
神話の住人たちの前で地上の人間である詠歌が語るのも妙な感覚だが、レスクヴァの正体をアイリスに告げる。
「北欧神話の神……『トール』の従者だよ」
『トール』。オーディンの息子にして、『ミョルニル』を持つ北欧神話の雷神。
シグルズが最強の勇者なら、トールは最強の戦神。ラグナロクの際、大蛇ヨルムンガンドと相打つとされているがそれでも最強の座は揺るがないだろう。
神としての位は父オーディンに劣るが北欧神話はトールの物語と言っても決して過言ではない。
「元をつけなさい、元を。今の所戻るつもりもないから」
「トール、あの雷神か」
「どうして地上に……?」
「逆に訊くけどなんであたしがいつまでも神様に仕えなきゃならないの?」
シャルヴィとレスクヴァ、二人の兄妹がトールに仕える事になったのはトールとロキが巨人の国への遠征の最中、彼ら家族の家に立ち寄ったのが始まりだ。
トールが所有する二頭の山羊、骨と皮が残っていれば復活するという力を持っていたそれをトールは宿の礼として家族に振る舞うのだが、シャルヴィはその際に骨を割ってしまう。蘇った山羊が足を引きずっているのを見たトールは激怒し、一家の命を奪おうとするが両親の必死の謝罪と懇願により、命の代わりに兄妹を巨人の国までの従者とする事で許した。
兄妹は巨人の国へ到着した後も、そのまま生涯トールに仕え続けたという。
ただ、北欧神話でのレスクヴァの登場はその仕える契機だけで、兄と異なりそれ以後の物語で彼女の名が語られる事はなかった。
「悪いのは馬鹿兄貴だけ。そりゃ神様の言う事だから従ったけど、約束は果たした。トール様と一緒に居たら命がいくらあっても足りないって」
現代人からしてみれば至極当然の言い分だ。
だがトールたちの下を離れた後、何故自分の家ではなく地上へとやってきたのかが分からない。
「くくっ、成程。大方それを聞いたロキに飛ばされたのだろう?」
「……正解。ロキ様が素直に伝えたとは思えないし、トール様はあたしが逃げ出したって大激怒しただろうね。戻る方法も分からないし、戻っても無事ではいられないって事」
神とは理不尽なものだが、彼女の境遇には同情するしかない。怒った様子もなく諦めたように言うのはやはり、神がそういうものだと知っている神話の住人だからだろうか。
「で、あたしの身の上話は終わり。次はそっちの番。まさか一方的に話させるつもりはないでしょ? あなたたちが何者であれ、此処は地上であたしのお店。上とは考え方も生き方も違う、神様でも
中々図太い神経を持っているようだ。アイリス同様地上に染まっていると言えるのかもしれない。
或いは詠歌に咎められたアイリスを見て、問答無用の相手ではないと判断したのか。
「君の考えは甘かったみたいだね」
「……そのようだな。雷神と悪神に仕える人間であればその気概も納得がいく」
北欧神話の悪神、『ロキ』は
そんな神と共に過ごせば神やそれに類する超常存在への見方も変わるのも無理はない。
「であれば客として名乗ってやる。我が名はアイリス、アイリス・アリア・エリュンヒルテ」
「エリュンヒルテさま、ね」
これで本当の自己紹介は済んだ。後は商談だが、事はそう簡単には進まない。
「それで? 具体的な用件は」
「我が翼の具現たるこのマントと我が勇士の剣、それを納める鞘を仕立ててもらおう。神の従者をやっていたなら扱いにも慣れているだろう?」
アイリスがマントを脱ぎ、同時に取り出した聖剣と共にテーブルの上へと置く。マントの下のどくろ柄のシャツを思わず二度見した後でレスクヴァがそれを手に取る。
その様子を眺めながら、詠歌には懸念が一つ。
(アイリスの考えてたのは結局は脅迫だった。とりあえずは客として扱ってもらえるみたいだけど……いくら掛かるんだ?)
鞘の相場など分かるはずもなく、その上普通の人間には出来ない加工をしてもらおうというのだ、一体どれだけの費用が必要なのか想像もつかない。
生活費に関してはアイリスと同居を始めても問題ない程度の蓄えはあるし、旅費も用意は出来た。しかし決して懐が豊かというわけではない。
金額に関わらず、これからに必要なのは間違いないのは確かだ。今後の生活の事を思うと溜息が出てくるが。
「成程ね」
戦々恐々とした心持ちで詠歌が待つ中、レスクヴァが顔を上げる。
「うん、無理」
そしてかわいらしく小首を傾げ、そう言った。
ビキっとアイリスの顔に青筋が浮かぶ。今度こそ詠歌はアイリスの今にも出そうになる手を制止した。
「落ち着いてって……」
「こっちも仕事でやってるから、優先順位ってものがあるのよ。勿論仕事でやってる以上、あなたたちの依頼を断りはしない」
「先約があるって事ですか?」
「そ。後一日早かったらこっちを優先してあげたんだけどね」
レスクヴァの言う事はもっともだし、マントと鞘の製作自体は請け負ってくれるなら駄々をこねても仕方がない。
だがアイリスは納得できない様子だった。
「此処が天上に知れてもいいのか?」
「それはあなたも一緒でしょ、
ミズガルドの人間は知らなくとも、トールに仕えていた彼女には知る機会があったのだろう。アイリスの脅しにそう返す。
「詳しくは知らないけど、あなたってグラズヘイムからは出られないんじゃなかった?」
「……ロキの入れ知恵か」
「訊いてもいないのに話してくれたよ。で、そんなあなたが地上に居るって事はあなたも似たような立場なんじゃない?」
どう見てもアイリスの分が悪い。三度目の溜息と共に詠歌がアイリスに首を振った。
脅しは通じず、仕事としても先約があるならごねても仕方がない。
「時期を改めよう。今の仕事が終わった後でもいいだろう?」
「一週間やそこらで終わるから、予約って形にしておくよ?」
今の仕事が終わるまで滞在する事は出来なくとも、製作してもらえるなら後で取りに来ればいい。何なら宅急便で送るけど、とレスクヴァは具体的な案を出す。仕事であれば断るつもりはなく、きっちりとこなしてくれるようだ。
「それでは意味がない。私たちには今必要な物だ」
だがレスクヴァの提案を切り捨て、アイリスは強情な態度を崩さない。
「アイリス……どうして急に? 今までないままでやって来た、確かに必要かもしれないけど、そんな風に急ぐ必要は……」
「お前は黙っていろ」
そのあまりに冷たい言葉に詠歌の表情がむっとしたものに変わる。
普段なら流しただろうが、今は黙っているわけにはいかない。
「今回の事は君が急に言い出した事だ。僕相手だけならまだしも、頼む相手にまでそんな態度はやめてくれ」
突然来訪し、その上であまりに失礼な態度。いくら天上で悪として生まれたからと言って、此処は地上。相手が誰であれ、今の立場はお願いする側だ。
「悠長な事を言えるのか。前回、私が居なければどうなっていたか忘れたわけではあるまい」
「それは……それは、僕の問題だ。彼女に無茶を言って良い理由にはならない」
言い返す詠歌にアイリスの瞳が細まる。
アイリスの言い分も理解出来るが、頷く事は出来なかった。二人の視線が交差する。
「はぁ、揉めるなら外でやってほしいんだけど。もし先にやってほしいって言うならあたしじゃなくてお客さんと話してよ。明日詳しい話をしに来るから」
「……分かりました。それでいいだろう?」
「……ちっ」
不機嫌さを隠す事無く舌打ちし、アイリスが視線を逸らす。詠歌はレスクヴァに頭を下げて立ち上がった。
「このぐらいの時間に来るって話だから」
「はい。また明日伺います」
「はいはい、お待ちしておりますっと」
最初の態度とは打って変わり、レスクヴァはひらひらと手を振りながら見送った。
しかし背を向けた詠歌はアイリスがついて来ない事に気づき振り返る。
「アイリス、君はまだ……」
「あーいいよ、いいよ。ちゃんとあたしが外まで送るって。あなたも少し頭冷やしたら? 旅先での喧嘩はつまらないでしょ」
「……お願いします」
自分が苛立ちを感じている事には気づいている。レスクヴァに甘え、此方を見ようともしないアイリスを置いて詠歌は一人、先に退室した。
残されたアイリスはもう冷めてしまった紅茶に口をつける。
「……あー、言っておきますけど、どんな事情があっても同情はしませんよ。あたし、神さまって嫌いなんで」
「私は神ではない」
「あたしらからすれば似たようなもんです」
同じようにレスクヴァも紅茶に口をつけ、気まずそうにアイリスから目を逸らした。
「どちらであっても同情も憐憫も不要だ」
テーブルに置かれたマントを乱暴に取り、羽織ってアイリスは立ち上がる。
聖剣を眺めた後、それをマントの内側に納めた。
「明日、同じ時間に来る」
「お待ちしてまーす…………いや、ちょっと待って下さい」
がしがしと頭をかいてレスクヴァがアイリスを止める。視線を泳がせるその態度をアイリスが不機嫌そうに睨む。
――それから五分と経たない内にアイリスは部屋を去った。
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