ゆずかりん

別れ

その日は、憎たらしいほどの晴天だった。

じりじりと肌を照りつける真夏の太陽は数日前に例年の最高気温を更新したというニュースを観た。

頬を伝った汗が、太陽に焼かれたアスファルトにぽたりと落ちる。


「あつい……」


無意識に零れた文句は、蝉の大きな鳴き声にかき消された。あんなに元気に鳴いているのに、たった七日間しか生きられない蝉の儚さに毎年少しだけ切なさを覚える。

暑さに耐えきれずにコンビニで購入したアイスは、口を付けてから数分でやせ細った棒の姿になった。


アイスの棒をゴミ箱に投げ入れ、空いた掌で額に浮かんだ汗を拭う。拭ったそばから溢れてくる汗に苛立ちを感じながら、少しでも体感温度を下げようと日陰を通って歩いていく。

高校に入学してから二年間通り続けたこの道に、日陰が無いことなど嫌というほど知っている。それでも悪あがきを止められないほど、今日は暑かった。


暫く歩き続けると、何処からかチリンと風鈴の音が聞こえた。風鈴の涼し気な音色は、肌を焼き続ける太陽の日差しを弱めてくれたような気がする。(もちろん勘違いだが)


チリン、チリリン……


歩くにつれて、風鈴の音が近づいてくる。タイミングよく鳴る風鈴はまるで私の足音のように感じて、少しだけ楽しくなった。


チリン、チリン、チリリン


風鈴の音にのって住宅が立ち並ぶ住宅街を抜けると、見たことの無い公園が姿を現した。

私が気が付かなかっただけで元からそこにあったのか、はたまた太陽が見せた陽炎だろうか。少しだけ不気味に思った私が、その場から離れようと一歩踏み出したところで、またあの風鈴の音が聞こえた。しかも、公園の中から。

公園は入口から蛇のような道が伸びていて青々とした葉を茂らせた桜の木がその先を見通すことを阻んでいた。


チリン、チリリン


立ち竦んでいる間にも、風鈴は鳴り続ける。まるで私を呼んでいるようだ。

気がついた時には、私の足は公園の中へ踏み込んでいた。公園内は道に沿って生えている桜の木のおかげで涼しく、先ほどまでの猛暑が嘘のように思えた。


チリン、チリン


風鈴は鳴り続ける。

音に導かれるように進むと、広場のような所に出た。広場には砂場、ブランコ、シーソーといった遊具が置かれているが、もう何年も人の手が入れられていないのか、遊具のペンキは剥げ、所々から赤茶色の錆が見えていた。


その遊具の奥には東屋があった。木で作られた木製の東屋には、一人の女の子が座っている。小学生くらいだろうか。麦わら帽子を被った女の子は、真っ白なワンピースを着ていて、季節外れのピンク色のマフラーを首に巻き、棒が付いた水色の風鈴を持っていた。風鈴は風に揺られ、綺麗な音を奏でている。

その音に誘われるようにベンチの側へ寄ると、風鈴を眺めていた女の子が視線を上げて私を見た。真っ黒なその大きな瞳には私の姿がはっきりと映し出されている。


「……綺麗な音だね」


「ありがとう」


ここに来た理由である風鈴の音を褒めると、女の子は可愛らしい笑顔でお礼を言った。女の子は笑顔のまま自分の隣をぽんぽんと叩いた。招かれるままに女の子の横に腰を下ろすと、爽やかな風が私の頬を撫でた。


「お姉ちゃんは、風鈴好き?」


「うん、好きだよ」


「あたしも!前はね、夏になるとずっと聞いてたの!」


「そうなんだ。その風鈴がお気に入りなの?」


「うん!大好きな人があたしにプレゼントしてくれたものなのっ」


そう言って女の子はチリンと風鈴を鳴らした。凛とした美しい音は、風に乗って流れていく。


何故か、その音がとても懐かしく感じた。


「お姉ちゃん、あたしと一緒に遊ばない?」


唐突な女の子からの誘いだった。

それなのに何故か、私の口からはすんなりと了承の言葉が出てきた。

まるで、最初からそのつもりだったというように。


「いいよ。何して遊ぶの?」


「あたしね!川あそびがしたいの!」


女の子はマフラーを風に靡かせながらそう言った。この近くには浅い川が流れていて、よく近所の子供たちが遊んでいるのを見かける。


「わかった。じゃあ、近くにある川まで行こっか」


「うん!」


女の子は立ち上がって私の手を引いた。女の子が歩く度に風鈴がチリンと鳴る。

公園を出てから五分程歩くと、透き通った水が流れる川に着いた。

いつも見かけていた子供たちの姿はない。


「お姉ちゃん!あそぼ!」


「ちょ、ちょっと待って」


可愛いサンダルを履いている女の子と違って私はローファーを履いている。

このまま入れば間違いなくびしょ濡れになるだろう。慌ててローファーと靴下を脱ぐと女の子と一緒に足を水につけた。

ひんやりとした水の温度にぶるりと震えるが、暑さで火照った体を冷やすにはちょうど良かった。


「……川に入るなんていつ振りだろう」


「あたしは初めて!水って気持ちいいんだね!」


そう言いながら女の子は楽しそうに水を蹴った。


私も女の子の真似をして水を蹴ってみた。小さく上がった水しぶきは太陽の光を反射してきらきらと光っていた。

女の子の方を見ると、変わらず水を蹴って遊んでいる。


(綺麗……)


水しぶきをあげて遊ぶ女の子はまるで、踊っているようだった。

静かに流れる川が舞台、通り抜ける風と風鈴の音が音楽、照明は木と木の間から差し込む太陽の光。

一度そう考えてしまえば、女の子はより一層踊っているように見えた。



────……



「お姉ちゃんアイスありがとう!」


「どういたしまして」


川を出て近くにあった駄菓子屋でアイスを買った。流石に今日二本目となるアイスを食べる訳にはいかず、アイスを持っているのは女の子だけだ。

女の子は袋を開けてアイスを取り出すと、そのまま私に差し出してきた。


「はい!お姉ちゃん!」


「え?」


目の前に差し出されたアイスに戸惑っていると、女の子は笑顔で言う。


「あたしね、お姉ちゃんと分け合いっこしたかったの!」


だからはいっ!と更に近づけられたアイスは、太陽の熱にうかされて少しずつ溶け始めている。


「じゃ、じゃあ、ひとくちだけ貰うね。」


「うん!」


女の子の笑顔に負け、本日二本目のアイスを齧った。ソーダ味のアイスは、口の中であっという間に溶けて無くなった。

女の子もアイスを齧り、真っ黒な瞳を輝かせながら、美味しい!と喜んでいた。



アイスを食べ終え、最初の公園に戻ると先程まで真上にあったはずの太陽が、西の空に傾き始めていた。薄い橙色に染まった公園は、どことなく寂しさを感じさせる。


「お姉ちゃん、今日はありがとう!とっても楽しかった!」


「うん、私も楽しかったよ」


女の子の頭を帽子の上から撫でれば、女の子はぽかん、とした後にはにかんで笑った。


(あれ…………?)


その笑顔に、どこか懐かしさを感じた。

思い出そうとする私の頭に、女の子の風鈴の音が響く。


「あたしね、ずっとお姉ちゃんといっしょにあそびたかったんだ。」


「ずっと?」


「うん!」


女の子には、確かに今日初めて会ったはずだった。

それにしては、時折女の子から感じる懐かしさに、頭の中に眠っている“何か”を呼び起こされている気がする。


「お姉ちゃん。あたしずっと前から、お姉ちゃんのこと知ってたんだよ。」


その言葉を聞いた瞬間に、強い風が女の子の麦わら帽子を攫っていった。

女の子の髪は黒髪ではなく、白に近い灰色だった。女の子は、その大きな黒い目を細めて笑った。遊んでいる時とは違う、どこか大人びた笑みだった。



「大きくなったね、ちーちゃん」


「っ……」


“ちーちゃん”


女の子が発したその名前は、私が小学生くらいの、女の子と同じくらいの歳まで呼ばれていたあだ名だった。

成長期が遅かった私は、周りから「小さなちーちゃん」と呼ばれていた。

今はもう平均的な身長になったのでそう呼ぶ人はいないが、それでも私には記憶に残るあだ名だった。

そんな十年以上前のことを、この女の子が知っているはずがない。

そこまで考えて、はっとして女の子を上から下まで凝視する。


(灰色の髪、大きな瞳、それに、ピンク色のマフラー……)


女の子は私の考えが分かったのか、にこりと笑って再び口を開いた。


「あたしのなまえ、わかる?」


体が震える。決して恐怖を感じたからではない。断言出来る。

でも、なぜ自分が震えているのか、わからない。

頭の中の冷静な部分が、自分が導き出した答えを否定する。そんなことが、有り得る訳が無いと。

でも、心は違う。間違いない、と。私の中で根拠の無い自信が顔を出す。


肯定する心と、否定する頭。


頭も心もぐしゃぐしゃで、半ば自暴自棄になりながら言葉を繋いだ。


「さくら……?」


私と女の子の髪が、風でふわりと舞う。

女の子は、とても嬉しそうに笑いながら頷く。


「覚えててくれたんだね。もう、忘れられちゃったかと思った」


「忘れる訳ないよ。さくらは、私の大切な……“相棒”だもん。」


“相棒”


私とさくらは、本当にその言葉が相応しい関係だった。

私が小学校に入学したての頃、両親が命の大切さを学んでほしいという理由で、一匹のジャンガリアンハムスターを飼うことになった。ジャンガリアンハムスター特有の灰色の柔らかな毛並みに、大きな黒い瞳。小学生だった私の手にすっぽり収まってしまうほどの小さな体。

初めてさくらを手に乗せた時、私は幼いなりに、この命を守らなければいけないと、決意を固めたのだ。

それまで動物を飼ったことがなかった私は、それはもう大変だった。餌やりや水の交換は勿論のこと、一週間に一度の掃除もとても苦労した覚えがある。

でも、それを差し引いても、さくらがいる生活はとても楽しかった。学校から帰るなり手洗いもせずケージまで走り、さくらと遊ぶのが私の日課だった。さくらも私にとても懐いていて、私がケージに近づくと必ず近寄ってきた。ケージから出してやると、すぐに私の手のひらに乗ってきて、撫でてくれ。と催促するのだ。

その姿が愛くるしくて、本当に大好きだった。祖母に貰った水色の風鈴の音色を一緒に聞いたり、名前に因んで桜色の毛糸で小さなマフラーを編んであげたこともあった。私たちはいつも一緒だった。両親は私とさくらを相棒と呼んだ。相棒の意味を母から聞いた後は、ずっと相棒という言葉を連呼していた気がする。


さくらが家族の一員となってから二年が経ち、私は小学二年生になった。あれだけ大きく感じていたランドセルが漸く体に馴染んできた頃、いつものように学校から帰宅してケージの前まで走る。


「さくら、ただいま!」


私が声をかけても、さくらは寝床から出てこなかった。ここ最近、さくらは寝ていることが多かった。今日も寝ているだけかと思ったが、言い知れない不安を感じた私は、悪いと思いながら寝ているさくらの体に触れた。


「あ…………」


さくらの体は、とても冷たくなっていた。そっと寝床から持ち上げると、幸せそうな顔で息を引き取っていた。少しだけ硬くなった体を撫でても、もう温もりを感じることは無かった。



さくらが死んだのは、とても寒い冬の日だった。



────……


今でも鮮明に覚えている。

さくらが息を引き取ってから、私はずっとずっと泣いて、涙が枯れても泣き続けて、さくらのお墓を作った後も花を供えに行っては泣いていた。


(悲しいことを思い出したくなくて、いつの間にかさくらのお墓に行かなくなって……)


最後にさくらのお墓に行ったのはいつだっただろう。確か、さくらが死んでから一ヶ月と少し経った頃だったと思う。さくらのお墓は、今でも同じ場所にある。家から少し歩いた場所にある小高い丘の上。三本の桜の木が植えられていて、毎年満開の桜を見ることが出来る場所。


「ちーちゃん、そんな顔しないで。」


「でもっ……私……!」


「ふふ、ちーちゃんは大きくなっても、泣き虫な所は変わらないね。」


涙で滲む視界の中、さくらが穏やかに笑っている。


「ねえ、ちーちゃん。あたしね、ちーちゃんにお礼とさよならを言いに来たの。」


「お礼?」


頷きながら、さくらの小さな手が私の手を優しく握る。


「ちーちゃん。あたしに沢山の思い出をくれてありがとう。……あたしを、“相棒”にしてくれてありがとう!」


「っ……!」


さくらは、その日一番の笑顔で言った。


(伝えなきゃ……私も、さくらに……)


「さくら、私からもお礼を言わせて。」


「私と一緒にいてくれてありがとう。“相棒”になってくれてありがとう。私は、さくらと過ごす時間が、とても楽しかった。」


目尻から零れ落ちた一粒の涙は、次から次へと溢れ出す。私は涙を拭うこともせず、ただただ笑った。

上手く笑えている自信なんてなかった。でも、今度こそ、さくらを笑顔で送り出したかったのだ。十年前には出来なかった、さくらの最後を、笑顔で。


やがて、さくらの体は透け始め、光の粒子となって消え始める。


「さようなら、さくら。」


「さようなら、ちーちゃん。」


さくらも、泣きながら笑っていた。

さくらの体が、完全に光の粒子となって消えていく。繋いでいた手も、粒子となって消えていった。


顔を上げると、空は藍色に染まり、小さな星たちが輝き始めていた。大きく、まん丸な月も見える。

遠くの方では、小学生の帰宅を催促する放送が聞こえた。



(…………帰ろう。)


長い夢を見ていたような、頭の芯がふわふわとして、まだ微睡みの中にいるような感覚がする。

放り投げた鞄を取りに東屋に近づくと、鞄の近くに、月の光を受けて光る何かが置いてあった。

近付いて拾い上げてみると、それは女の子……さくらが持っていた水色の風鈴だった。意識して見ると、風鈴は祖母に貰った物とよく似ていた。


チリン……チリン……


夜風を受けて、風鈴は昼間と変わらない美しい音色を奏でた。


その音がどこか寂しげに聞こえるのは、何故だろう。





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