世話焼き食堂 びいどろ亭

にんじんぷりん

第1話 もこもこ

 天高く馬肥ゆる秋。と言うが、今日は天も高くないし、肥えさせてやりたい客も来ない。

 まろやかな雨垂れが、とことこと頭の中を通り過ぎてゆく。いつもは焼魚の汁が爆ぜる音だの、白飯が炊き上がる湯気だのが店じゅうにひろがっているのだが、今はしんと静まりかえって、かつて家族旅行で訪れた、高原で迎えた朝のような匂いに包まれて、ぽつんとひとり。これはさしずめ隠れ家といったところか。隠れていては商いはやっていけないし、なんとかしたいものなのだが、表通りにはコンビニやらファスト・フードやら、さっさと飯を済ませてしまえる店がずらりと並んでいるのだ。わざわざこんな路地裏の、小さな、さほど有名でもない食堂に来るなんて酔狂は居ないだろう。


 新しい献立でも何か考えるか、と立ち上がると、一瞬、窓の外がまばたきをしたように、白と黒がちかちかと忙しく踊った。一息ついて、がらがら、びしゃあ、と耳をつんざく大きな音。知らぬ間に嵐が来ていたようだ。

 せっかく新しくした看板が雨風でやられては大変だ。慌てて戸を開け外へ出てみれば、道端に置き去りにされた空き缶やらごみくずやらが、右から左、左から右へといいように転がされていた。ほんの少し俺がぼうっとしている間に、随分と天気は悪くなっていたようだ。目の前にざあっと灰色の幕が下りて、前もよく見えやしなかった。


「あのう、御主人。」


 びしょ濡れの看板を引っ込め、戸を閉めようとしたその時、たしかに声が聞こえた。この荒れ狂う風と雨の中で、たしかに、はっきり、声が聞こえたのだ。少しくたびれた、中年の男のような声だった。ところが、あたりを見回しても誰の影もない。盆はもうとうに過ぎた筈だし、今までにのものには遭ったことがない。しかし、耳に残るその声は気のせいだと考えるにはあまりにも生々しく、不思議と恐怖も感じなかった。


「ここです、ここ。」


 草履を履いただけの足の甲に、てち、と何かが触れた。流石に驚いてびくりと肩を震わせ、咄嗟に下を見る。するとそこには、雨雲と同じ灰色の、ちいさな生き物がいた。おそらくは、晴れ空の下では長い毛に覆われた何かなのだろう、今は雨水にべっちょりと重たく濡れて、ちょうど調理場にある、使い古された雑巾のような姿になっていた。


「お見苦しい姿で、申し訳御座いません。嵐に、追いつかれてしまいまして。どうかほんの少し、雨宿りをさせては頂けないでしょうか。」


 かたかたと寒さに震えながらこちらを見つめる瞳は、見た目よりも老いているのか、ぼんやりと白く靄がかかっているように見えた。

 この際、なぜ喋るのか、などはどうでもいいことだ。何であろうが、助けを求めてこの店の戸を叩けば、それは俺の客人なのだから。


「嗚呼、入んな。」


 自分でも驚く程に冷静な振る舞いで、俺はそいつを店の中へと迎え入れた。調理場から、汚れの少ない方の雑巾を持ってきて、がしがしと軽く拭いてやると、やせ細った体つきがよく分かった。そして、ぐぎゅるる、と腹から捩れるような音が鳴った。


「腹、減ってるのか。ちょいと待ってな。ぱぱっと何か…、あー、好物があれば、教えてくれ。」


 ぱっと顔をあげ、喜んでいるとも戸惑っているともつかぬ態度で目を泳がせて、こちらの顔色を伺ったので、いいから、と促してやると、なんとも申し訳なさそうに頭を下げた。


「お恥ずかしい。残飯でも、何でも構いません。あ…ただ、玉葱でなければ…。厚かましいお願いで、申し訳御座いません。」


 下手をすれば人間よりも礼儀正しい、丁寧で腰の低い頼み方に、なんだかこちらのほうが萎縮しそうになるが、取り急ぎ冷蔵庫にあった鶏肉を細かく切り、薄味をつけてさっと炒め、店で一番平たい皿に盛った。


「熱いぞ。気ぃつけな。」


「ああ…!ありがとうございます、御主人、ありがとうございます…。」


 団扇で軽く扇いでやりながら鼻先へ皿を持っていってやると、何度も頭をぺこぺこと下げながら行儀よく端から口をつけていった。


「おいしい、おいしい。ああ、おいしい…。」


 たったの何分かでこしらえた、こんな粗末な、料理と呼べるかもわからないものを、は心から嬉しそうに、美味そうに食らっていた。その姿に、言葉に、俺はガンと頭を打たれたような、妙な喜びと目眩に見舞われた。自分の作った料理が誰かの幸福に変わってゆくのを、こんなに鮮やかに、たしかに感じたことは、ここ最近…いや、暫くなかった。幼い頃はよく母の真似事をして、台所をぐちゃぐちゃにしたり、手にヤケドや切り傷を負いながらも、ただ一言、「おいしい」と笑顔で言ってもらいたいが為に一生懸命料理をしたものだった。あの時感じていたものを、俺は随分と長い間、とじこめてしまっていたようだ。


「ああ、おいしかった。御馳走様でした。御主人、ありがとうございます。御主人は、お優しい御方ですね。」


 先程よりも幾分かハリの出た声で呼ばれ、はっと我に返ると皿は綺麗に空いており、飯の間に体も随分乾いたようで、空気を含んだ毛でもこもこと獣らしい出で立ちになっていた。


「食堂だからな、此処は。『びいどろ亭』っつうんだ。」


「左様でしたか。『びいどろ亭』、素敵な御名前ですね。私は天に味方されていたようだ…。実は、何日もまともに食べていなかったんです。その上、この雨風で…。もう駄目かと思っておりました。本当に、なんと御礼を申し上げれば良いのか…。」


「気にすんな。今日はひとりも客が来なくてな、誰も居なくて退屈してた所だ。」


「こんな素敵な御店に、お客が一人も…それは、なんと勿体無い…!それに、御主人がお独りで働いていらっしゃるとは…!是非、お手伝いをさせて下さい。私はもう、身寄りも、帰る所も無いのです。もう若くもありませんし、喧嘩は苦手ですが、虫けらや鼠くらいなら退治出来ますし、御使いにも行きます。どうか、御主人。」


 さて、どうしたものか。確かに最近は客足も増えて来て、独りで店を回すのが厳しいと思う日もあるが、店員を雇える程の金は無い。その点は金を欲しがる訳でもなく、食い物と寝床があれば働いてくれるだろう。短い時間ではあるが、話をしていて誠意があることは判ったし、きっと良い働きもしてくれるのでは、という淡い期待もある。こちらにとっては、決して悪い話ではないように思えた。


 ただひとつ、気になるのは……


「お前さん、何者なんだ。」


「私は、しがない野良犬です。名前もありません。」


「犬か。犬がどうして、人と話せる。それともこれは、俺の夢かな。」


「いいえ、夢ではありません。どうして、と聞かれては、私もよくわからないのですが、私の声が聞こえる方と、聞こえない方がいらっしゃるようで。勿論、滅多には話しません。女性やお子様は怖がらせてしまいますし、中には私を見世物にしようとする方もいらっしゃいますので。ですが、助けて下さった方には、必ず御恩返しをすると決めているのです。どうか、お手伝いをさせて下さいませんか。私も男として、黙って引き下がるわけには参りません。」


 はきはきと喋るところを見ると、随分と元気になったようだ。それに、思ったよりも紳士的で、なかなか筋も通っている。雨が上がったらこのまま外へ放り出して自由にしてやれば良いと思っていたが、まっすぐに俺を見つめるつぶらな瞳は光を集めてきらきらと輝いていて、俺はそれに打ち勝つことが出来なかった。


「よぅし。分かった。それなら、明日から働いて貰おう。飯と寝床がありゃあ良いだろう、今晩はここで休め。」


「本当ですか!ありがとうございます!一生懸命頑張ります、私に出来る事なら、何でも仰ってください。ああ、それと、宜しければ是非、呼び名を付けては頂けませんか。」


「そうだな…、もこもこだから、モコにしよう。それと、もうひとつ。客人には喋りかけるなよ、いいな。」


 モコは、窓の外から雨雲を一掴みちぎってきたような灰色の体を跳ねさせて、ワン、と賢そうに一声鳴いた。


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