冬の訪れ

朝礼で大森 鈴香が挨拶をする。

「一年間お世話になりました。今年一杯で契約終了です」傍にいる上司が続けて話す。

「本当は、来年も契約更新して頂きかったのですが、ご婚約されたとの事で」結構準備の為に、きりの良い今年中に終了。という形をとったと話していた。

「鈴香ちゃんがいなくなると寂しくなるね」口々に男性職員が、輪を作り言い合っていた。

「後、一ヶ月と少しあります。 最後まで宜しくお願いします」

 美智の職場は、派遣でもひと月前に公表する。業務の引き継ぎ等があるからだ。美智は、鈴香と、後一ヶ月で顔を見ないで済むと思うと、何故かホッとしていた。美智は、横のデスクにて業務中の鈴香に聞いてみた。

「お相手って以前からの彼氏?」その言葉で、鈴香は業務を中断させた。

「実は、皆さんご存知の方なんです。以前来られていた、四方博文さんって覚えておられます?」

「え! 鈴ちゃん、四方さんって、あのエンジニアの四方さん?」里美はかなり驚いたらしく、大きな声を上げてしまっていた。美智は予測していたものの、身体中が心臓では無いかと思う程、鼓動が激しくなっていくのが解る。昏倒せずに、座っていられるのが奇跡的だった。


 昼食時に鈴香の周りに、五名ほどの輪が出来ていた。

「片岡さんもお邪魔する?」先輩が少し離れていた美智にも声をかけた。

「どこにですか?」輪の中心にいた鈴香が、照れ臭そうに「そんなに広くないですが、良ければどうぞ」と言いながら、簡単な手作り地図を美智にも渡す。

 二人で生活を共にしている。との事。

「有難う。あまり沢山でお邪魔しても悪いしね。又、機会があれば伺います」顔が強張っているのを感じた。

「へえー新居って、会社と同じ沿線なんだ。よく見つかったね」里美が地図を見て、感想を言う。

「あ、私の方が、彼の部屋に移り住んでいるんです。子供が出来る迄は、ここでって」そこは、美智の住む最寄りの駅より二駅離れていた。もちろん美智は、初めて見る住所だった。そして幸福な娘は、二次会の案内状を手渡す。

「来年の春なんですが。お返事は、私に手渡して頂いても良いですし、この住所に返信して頂いても大丈夫です」と言いながら。


 誠は美智が時折、涙を流しているのは判っていた。細い肩がさらに細くなっているのを、誠は寝たふりをして見守る事しか出来なかった。そしていつしか、ある想いが芽生え始めた。

『お前の望みなら 何でも叶えてやる』と。しかし今の誠には、美智の涙に濡れた頬を、拭ってやる事さえ出来ずにいた。


「はい。簡単なものしか出来ないけど」美智がテーブルの上に親子丼と味噌汁を置く。時々二人は美智の手料理にて、食卓を囲む。誠は日頃から何も言わずに食すが、「うまい」思わず発してしまう位に、美智の料理の腕前は、かなりのものだった。

「毎日、食べられたらいいな」誠はぼそっと呟いた。美智は、後片付けをしていたので、耳には入っていなかった。


 いつも無骨な事しか言えない誠が意を決して誘ってみる。

「明日 。何処か出掛けないか? 一緒に」美智が誠の事を『惚れていない』事は百も承知。何かワケがあって、誠と一緒にいるのも理解していた。でも 逢うたびに、歯止め無く『心が欲しい』と願ってしまう。

 片付けを終え、その言葉が耳に入ると美智は「もう帰るね 」と言った。「同じ服で人前を歩きたくないから 」と、続けた。


 次の日二人は、穏やかな陽射しを浴びていた。いつも浴びている月明かりよりも、随分温かい。誠は美智からの心地良い薫りに酔いしれた。以前に、アロマオイルを組み合わせて香水を作る。と言っていたのを、誠は思い返していた。美智のもち肌に、青色のセーターはよく映える。スカートにブーツ姿は、今の季節ならではの装いだった。

 ウラ暖かい日曜日のスカイツリーは、家族連れが多い。

「展望台どうする?」

「任せる」

 誠は美智が、この世のものとは思えない位に、輝いているのを感じていた。誠は何度も身体を合わせているのに、今の美智は、手を繋ぐ事でさえも、ままならなかった。


 二人は、混雑する展望台を諦めて、 ツリーの周りを堪能する。暫くするとカップルから、写真を撮る様に要求され、美智は笑顔で応じていた。

「良かったら撮りましょうか?」カップルの男性が気を使ってくれる。美智は少し微笑んで、

「すいません」の言葉と共に、スマホを男性に渡していた。そして、美智から、誠の手を繋ぎツリーを背に横に並ぶ二人。誠には信じられない心情だった。二人で並び写真を撮る。いつ果てても良いとさえ思った。

「なんか、気持ちいいね。久しぶりに青空を、見た気がする」美智の楽しんでいるであろう、明るい声が誠の目を細めさせた。


 美智は不思議な感覚だった。以前の美智なら考えられない。あの蛇の様な眼差しで、見つめられていた、工員と並んで手を繋ぎ、写真を撮って貰っている。今はアロマの香りもしない、油まみれの仕事着でさえも、嫌な感情は持ち併せてはいなかった。

 美智は、まるで中学生の初デートの様に、緊張している誠が面白かった「折角だしお土産買う?」

「あっ! ああ」その言葉を聞いて、何故か笑ってしまう美智がいた。

「なんだ?」怪訝そうな顔で聞いてきた。

「そんなに緊張しなくっても大丈夫よ」少し誠の口角が上がる。美智に初めて見せる顔だった。青空の下での二人の会話は心地よい風が吹いた。


 混雑する土産屋で美智は、お決まりのスカイツリーの型したキーホルダーを二つ持って、レジに向かおうとしている。

「俺が払う」美智からもぎ取り、レジに向かう誠の姿を見守る美智の心は、どこか穏やかだった。


 しかし次の瞬間。急に胸が苦しくなった。博文の香りのジャスミンが鼻についたから。美智は博文本人のモノではないと承知していた。しかし未だ、博文に対して『思慕の念を抱く』自分と、対なる『私怨を抱く』自分とが入り乱れてしまい、過呼吸症状になり、心の中で叫んでいた。

『苦しい。胸が壊れそう。誰といても、 何処にいても思い出す。記憶を、私だけが覚えている、あの人の記憶を、全て消しさってしまいたい』そして今迄、美智の中の成りを潜めていた感情が出現し、再び身体全体を満たしていく。『貴方を許さない』と。


 レジを済ませた誠が、しゃがみ込む美智に気付いた。

「美智! どうした!」多くの眼差しの中でさえ、誠は気にも留めない様子で美智を抱きしめ続けていた。

「大丈夫だよ。美智。俺がいるから」何度も何度も、言葉を送っていた。


 翌日の事。美智は驚く。スマホの伝言にメッセージランプが点滅していたから。それを確認をすると、誠の無骨な声だった。そして短い言葉で『部屋に来い』と入っていた。おそらく、昨日の事が心配だったのだろうと、美智は安易に想像が出来た。仕事の帰宅途中、工場のシャッター横の従業員出入り口付近で、誠が包み紙を持って待っていた。

「今日、誕生日だろ」

「えっ? どうして」知っていたのだろう。そして、いつの間に……誠は何も答えなかった。


 それは、お互いが初めて身体を合わせた日。美智が持っていた資格者証に、生年月日が記載されていたのを見つけていた。

 誠は美智の好みが、何かが解らない。要らないと言うかも知れない。それでも美智と言う名の天女に、何かをプレゼントしたかった。誠が売場の女性に見立てて買った品だった。


「帰れ。これを渡したかっただけだ」

 誠はいつもの様に、俯きながら言う。暫くして見上げると、既に包み紙の中からスカーフを取出し、首元に巻いている天女が少し微笑んでいた。誠は美智の、物寂しげな表情を見ると、急に欲しくなり、いつの間にか抱きしめていた。

「今日は、私の部屋に来る?」美智は誠の胸元で消え入るような声で囁いた。『例え俺を見てくれなくても構わない。愛している』誠は、そう心の中で叫びながら、 美智の部屋へと向かっていくのだった。


「美智 最近なんか 変わったね。色っぽくなった」

「そう? 自分ではあまり変わってないけど」

「変わったよ。美智、元々綺麗だけど、さらに艶っぽくなったというか」昼食時の他愛も無い、美智と里美の雑談だった。いつもの様に自分のデスクにて、食している。今日は珍しくお弁当の鈴香が割り入ってくる。

「片岡さんって彼氏いるのですか?」美智は少し微笑んで、やり過ごした。

「美智はあまり、自分の事、言わないもんね」里美が笑いながら言う。暫くすると「吉野さんコレ説明して」と上司からの呼び出しが来た。里美は「何かやらかしたみたい」といいながら、お弁当箱を片付けて、離れていった。

「片岡さん綺麗だから、男性が欲ておかないでしょうね」そう言いながら、スマホをいじる鈴香。それを、冷ややかな目で見ながら、 言葉を交わす。

「結婚準備 進んでいるの?」鈴香はスマホを持ちながら答える。「それが中々細かい事が、大変でして。式は未だ先なんですけどね」

「でも知らなかった。四方さんとはいつから?」美智は鈴香の口から、聞き出そうとしていた。しかし彼女はその問には応じずに、

「凄く不思議なんです。初めて見た時から、運命的な何かを感じたんです。 彼も私と同じモノを、感じていたみたいでした」と幸せそうに話していた。

「そう」美智は、話しを終わらせようとしたが、帰ってきた里美が興味本位に続けた。

「鈴ちゃん。以前に四方さんの事、彼氏の友達って言ってなかった?」

「そうだったのですが、私覚めるの早くって。ちょうどその時に彼も彼女と別れたらしく」

「へぇそおなんだ」里美はもう興味ないらしく、化粧直しをしているが、幸せな鈴香は話し終わらなかった。


「きっと最初から、一緒になるの、決まっていたんだろうね。って言ってくれて」美智は一連の会話を聞き、形相が変わらない様に 、必死で取り繕っていた。

『この娘ほど無知と言う罪に、気付かない人物はいない』微かに繋がっていた理性と言う名の糸が、切れていくのを感じた瞬間だった。それを機に、美智の身体の半数を支配していた憎悪という感情が殺意という感情へと変わっていった。


 帰途につく美智は、誠の居る鉄工所での様子を、ひっそりと見入っていた。もう、鉄を切断する音も不快な感覚は持ち合わせては、いなかった。


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