第十七話 初めての姉弟喧嘩、そして――。
――それが運命だというのならば、何という皮肉であろうか。
互いを守らんとした者同士が、こうやって相対することとなったのだから。無論、それは本意などではなく、仕組まれたモノであったとしても。この終着点は、あまりにも悲しみによって、包み込まれていた。
俺はそんな二人――アニとユキの姿を見て、唇を噛みしめる。
悔しい、と。このような舞台を用意したあの男が憎くて、憎くて仕方がなかった。
「お姉ちゃん。お待たせ――こうやって話すのは、久しぶりだね?」
「………………」
ユキの声が、エントランスに寂しく響く。
当然のように返事はなかった。【束縛】の能力は、確実にアニの心を蝕んでいる。
それを証明するようにして、彼女は無言のままにダガーナイフを構えた。切っ先が真っすぐに、守ろうと誓ったはずの弟へと向けられる。しかし対照的に、濁ってしまった眼は、焦点があってない。
「ずっと、お話したかったんだよ。お姉ちゃん? 昔みたいに仲良く、ほんの短い時間でもいいから。ボクはずっと、お姉ちゃんとお話がしたかった」
そんなアニに、ユキはいつものような口調で話しかけていた。
「さっきは、助けに来てくれてありがとう。こんな形になっちゃったけど、それは本当に嬉しかった。お姉ちゃんはボクのことを忘れてないって――分かったから」
――だから、と。
弟はそう呟いて、拳を構えた。そして――。
「今度はボクが、お姉ちゃんを助ける番だ! ――行くよ、お姉ちゃん!!」
そう、彼が叫んだ時。姉弟の終わりが――始まった。
両者が一斉に駆け出し、一秒に満たない時間で激突する。
突き出されたナイフを半身で躱し、ユキは掌底をアニの腹部に打ち込もうとした。だがしかし、まるで舞うようにして、彼女はそれを回避する。すると逆に、がら空きとなったユキの横腹に目がけて膝が繰り出された。
――ドスっ、という鈍い音。
一段上の素早さを持ってして与えられた一撃は、強烈の一言。
「かはっ……!」
ユキは苦悶の表情を浮かべて、距離を取った。
対してアニは追撃をしかけることなく、その場で彼の様子を静観する。だらりと腕を垂らし、力感なく仁王立ちしているその姿は、不気味にも感じられた。だがしかし、今はそれよりも重要なのはユキの状態だ。
「ユキっ! 大丈夫か!?」
俺は思わず駆け寄りそうになるのを堪えながら、そう声をかける。
すると彼は、ニッと笑ってこちらを見た。
「……だ、大丈夫だよ、スライくん。お願いだから手出しはしないでね? これは、ただの姉弟喧嘩。それがちょっとだけ、大げさになっただけ、なんだからね」
「ユキ…………」
そしてそう言う彼の表情を見、俺は息を呑む。
ユキの身体はもう限界を通り過ぎている。それは先日、見せてくれた身体の異変からして明白だった。異形となりし肉体。命を長らえさせる、悪魔のようなリベドの薬の副作用だった。そして、今の一撃で分かる。――この闘いは、短期決着だ、と。
そう考えた時――ユキの口から、紫色の血が流れ落ちた。
俺は唇を噛む。拳を強く握りしめる。プツリと皮の破ける音と共に、口内に血が流れてきた。悔しい、悔しい、憎い、憎い――俺はこの【
さりとて、時は巻き戻らない。
それは自然の摂理。世界の常識。必定の理だった。
「さて。それじゃ、次は――本気でいかないと、ね?」
ユキはゆっくりと立ち上がる。そして胸元から、あるモノを取り出し――
「――っ!? バカ、やめろユキ!!」
俺はそれを認めた瞬間に、声を張り上げていた。
何故ならそれは、紫色の丸薬――憎きリベドの薬であったのだから。
本気でいく、とユキは言った。それだけでもう、説明は不要であろう。すなわち彼は、毒をもってしてこの闘いを制するつもりだ、ということであった。
だがそれは、どのような結末を招くかは――火を見るより明らか、である。
あぁ、それでも――ユキの表情は悲しい程に穏やかだった。
「……いいんだよ、スライくん。ボクはきっとこの時のために生きてきた。この時、この場所で、お姉ちゃんを守るために、助けるために生きてきたんだ」
「…………そんなっ! そんな、こと!!」
言葉にならない。
伝えたいことは決まっていた。
それなのに、感情が先走って言葉にならない。
「どう転んでも、ボクは死んでしまう。スライくんがリベドを倒しても、この薬が手に入らなくなるからね? だったら、いっそのこと――ボクはボクの存在理由を示したい。最期まで、この命をお姉ちゃんのために燃やしたいんだ」
「ユキ…………」
「だから、きっとリベドを倒してね。スライくん? ――約束、だよ?」
「――ユキッ!!」
そして、俺は止められなかった。
いいや。もしかしたら内心では、最初から止められるなんて思ってなかったのかもしれない。――だって、そうだろう? 一人の【人間】として、ユキは美しい。
その生き方はあまりにも純粋で、純真で、無垢だったから。
そんなの、卑怯だ。
そんな生き方、あまりにも眩しすぎる。
「それじゃ、行くよ――お姉ちゃん。少し痛いかもだけど、許してね?」
ユキはそう言って、優しく微笑んだ。
彼は最後まで、そして最期まで大切な一人のために生きる。
この舞台はその証明。彼が生きたことの、証明に他ならなかった。
ならば俺はどうすればいいのか――そんなの、決まっている。見届けるのだ。最後の瞬間まで、そして最期の、その一瞬まで。
それこそが、今の俺に出来ること。
ユキという人間が生きたその足跡を記憶する、そのために――。
「――――――――――っ!」
刹那――ユキの姿が掻き消えた。
俺でさえ目で追えない速度で、瞬く間に彼はアニへと距離を詰める。
そして、一撃を。回避不可の、その一撃を自身の姉の腹部に叩き込む――!
「…………………………」
その時。
音が、消えた。
何も、聞こえない。
いいや。それでも聞こえる声があった。
それはきっと、仲の良い姉弟の何気ない会話。
久しぶりに再会を果たした二人の、愛おしいそれであった。
「大好き、お姉ちゃん――じゃあ、ね?」
「ユキ? そう。眠くなったのね――おやすみなさい」
幼きあの日のように。
弟を寝かしつける姉の姿がそこにあった。
二人はほとんど同時に、意識を失ってしまう。だから、その再会は本当に短い時間、束の間の出来事であった。ただ、それでも――なんと心地良い。
だというのに、どうしてだろう? ――俺は、涙が止まらなかった。
そして駆け寄り、二人の寝顔を目にした瞬間に思う。
あぁ、二人は本当に姉弟だったのだ――と。
眠る顔は、そっくりだ。
綺麗な顔。見目麗しい、心清き姉弟愛の体現者。
二人はいったい、どんな夢を見ているのだろうか。願わくは、それは――。
◆◇◆
「お姉ちゃんは、どんな人になりたい?」――と。
一度だけ、ユキは私に訊いてきたことがあった。
その問いに私は困惑してしまったけど、何故だろうか、不思議と簡単に答えてしまったのを覚えている。そう――私は、弟にこんな回答をしたのだった。
「そう、ね。たくさんの人を笑顔に出来る人に、なりたいわ」――と。
あぁ、それはあまりにも。
私の生業とはかけ離れたモノだった。
けれども、どうしてだろう。それが本心からの言葉であったのだと、今でも確信をもって言い切れる。その自信があった。
「そっかぁ! じゃあ、ボクの夢も決まったね!」
「え? ユキの夢は、いったい何なの?」
「ヒミツっ! えへへっ!」
弟――ユキは、無邪気に笑ってみせる。
私はその笑顔に、自分の心が癒されるのが分かる。
そうだった。この笑顔があるから、私は身を削るような任務も頑張れるのだ。今も、そしてこれからも。きっと、この笑顔があれば私は――。
「お姉ちゃんは、もうそれが出来てるよ」
「え――?」
不意に、ユキはそう言った。
それは何とも突然な言葉であって、私はとぼけた声を発してしまう。
そして気付くのだ。世界は白く染め上げられており、私の正面には大きくなったユキであろう人物が立っていた。彼は、綺麗な顔に愛らしい笑みを浮かべて言う。
「それじゃ、ボクの夢も叶ったから。頑張ってね、お姉ちゃん!」
「え、ユキ……?」
――何故?
どうして、涙が頬を伝うの?
私の感情は、自分でも分からないところで勝手に動き出す。
あぁ、それでも分かることがあった。それは、目の前にいるこの子がユキで、そしてこれが別れであることを。それは理屈ではなく、感じてしまうモノだった。
だから、せめて返す言葉は――これしかない。
「うん――お姉ちゃん、頑張るからね! ユキっ!」
そして、ずっと伝えたかった言葉。
これだけは――。
「ありが、とう……っ!」
――言えた。
もう、くしゃくしゃになってしまったけれど、なんとか言葉に出来た。
伝えたかった。ずっと、再開できたら伝えようと思っていた言葉――それは感謝。
――傍にいてくれて、ありがとう。
――支えてくれて、ありがとう。
そして、何よりも――生まれてきてくれて、ありがとう、と。
柔らかい光が世界を包み込んでいく。
それと同時に、私の意識は遠退いて、ユキの姿も霞んでいく。
あぁ、だけど良かった。何年も言えなかったことを、伝えることが出来たから。
これは、幸せな夢。
きっと目覚めた時には、また泣いてしまうけど。
そう。これはきっと、私たちにとっての幸せな夢に違いなかった――。
さようなら。私の可愛い弟。
さようなら。私の大切な弟。
もし、また会えたなら――大好きだよって、伝えたいな。
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