ヒメゴト―秘め事もしくは、姫事？―

第23話 二人っきりの暗闇の中で

　もうすぐ、陽が沈む。

　ただですら光の射し込みにくい谷底は、夜になればきっと容赦のない暗闇に包まれる。まだ夕暮れの今でさえ、カーテンを引いた部屋くらいの明るさしかない。

　ヤバイな。

　このまま陽が落ちれば、ここから移動するのは難しくなる。だいたい、ここが街からどれくらい離れた場所なのか、それすら判らない。

　ソモルはちらりと、隣のラオンの様子を窺った。

　ぼんやりとした薄闇の中で見るラオンの表情はいたって落ち着いていて、焦ったり不安そうな感じはない。

　本来ならば、ラオンはすでにマーズ城に来賓として訪れているジュピター王族の元へ戻る筈だった時刻。

　予定よりもずっと、ラオンと長く一緒に居られる。けれど今は、それを悠長に喜んでいられる事態ではない。

　最悪、真っ暗闇のこの場所で朝までじっと身動きすら取れないなんて事にもなりかねないのだ。

　しかも、あの正体不明の三人組に見つかってしまう可能性もゼロではない。

　どうしたもんか……。

　ソモルは、考える。

　俺が、しっかりしなきゃだ。

　ラオンを守るのは、俺なんだから。

　まだ視界が確保できてる間に、少しでも進んでおいた方がいいのかだろうか。

　トロッコでだいぶ飛ばしてきたからなあ。

　ここから近い街とか、見当もつかねえ。

　山で遭難した時には、むやみに動かない方がいいと聞いた事がある。けれどそれは、あくまで捜索隊などが見つけてくれる事を想定しての話だ。

　この情況では、ジュピターのSPが見つけてくれるという望みは薄い。

　迫り来る夜が、じわりじわりとソモルを焦らせる。

「……とりあえず、進んでみるか」

「うん」

　ソモルの言葉に、ラオンは素直に頷いた。

　ソモルは、ラオンの方に手を差し伸べた。

　ラオンがそれに応じて、手を伸ばす。

「あっ、待って」

　ラオンは急に何かを思い出したように伸ばしかけた手を引っ込めると、ごそごそとズボンのポケットを探り始めた。

「良かったあ！　ちゃんとあった！」

　ふにゃっと安堵した笑顔で、ラオンがほっと言葉を洩らす。

　ポケットから出した手のひらに握られてたのは、ソモルがファインの街の露店で買ってあげたモコモコの羊（メリー）のぬいぐるみだった。

「途中で落っことしてたら、どうしようと思った！」

　ラオンが云いながら嬉しそうに眼を細め、綺麗な細い指先でぬいぐるみを撫でた。

「それ、すげえ気に入ってくれたんだな」

　本当、買ってあげて良かった。ソモルは心の底からそう思う。

「だって、ソモルが買ってくれたんだもん」

　そう云ってラオンは、ふふっと笑った。

　……やべえ、抱き締めちまいてえ……。

　ついつい、ラオンの言葉の意味を深く探ってしまいたくなる。自分はやっぱり意識過剰気味なのだろうか。

　ラオンは片手にぬいぐるみを持ったまま、もう片方の手で差し出したソモルの手を握った。柔らかくて僅かにひんやりとしたラオンの手の感触が、ソモルの神経を刺激する。

　……いいムードだなんて思うのは、この情況で不謹慎だぞ。

　ソモルが、浮かれ気味の自分を窘（たしな）める。

　けどやっぱ、甘めだよな、この雰囲気は。

　それに俺たち、いつの間にか自然に手を繋げる感じになってる。

　この情況が招いた事かもしれないけど、ほんのだけでも仲が進展したのかもな……なんて。

　友達以上、恋人未満。

　今の俺たちの関係。

　そう思って、いいかな。

　高い樹の枝が空を遮るように伸びた場所に入ると、ますます視界が悪くなった。足を踏み出す度に、下に落ちた小枝の折れる乾いた音が、パキパキと響く。

　道の先はすっかり闇に覆われて、安全なのか危険なのかすら判断できない情況になっていた。

「参ったな、ちきしょう……」

　やべえな、潮時か。

　完全に足止めを食らってしまったようだ。

　ああ～、くそっ！　なんか先を照らせるもんでも持ってくりゃ良かった。

　けどまさか、こんな事になるなんて想定もしてなかったし。

　ラオンとのデートに浮かれ気分だった今朝の自分に、『蝋燭ろうそく一本持って出掛けろ』と一言忠告してやりたい。ソモルは悔やむ。

「ラオンすまねえ。これ以上先に進むの、無理そうだ」

　後ろのラオンを振り返ったソモルは、一瞬息を呑んで固まった。

　周囲を支配し始めた闇の中で、ラオンの大きな両眼が……ほんのり光を宿していた。

「…………」

　淡いライトのように、ぼんやりと光るラオンの翡翠（ひすい）の眼。

　あからさまに驚かなくて済んだのは、前にも一度その様子を見た事があったから。

　一年半前、ラオンと初めて過ごしたあの時も、今のような暗闇ピンチの情況で、ラオンの眼がぼんやり光るのをソモルは見ていた。

　そうだ、確か……。

「ラオン、そうだお前、確か暗闇の中でも眼が利いたよな？」

　ソモルは思い出した。

　ジュピターの人間は皆、夜目が利くのだった。

　ラオンと出会った一年半前、ソモルはそのトリビア的事実を初めて知った。

　そんな事を知らなかったソモルは、暗闇の中で光るラオンの眼を見て、驚いて派手に尻餅（しりもち）をついてしまった。しかも、悲鳴まで上げて……。

　非常に格好悪くて、帳消しにしたい過去だ。

　できればラオンには、あの時の事は忘れていて欲しい。

　けれどあの時、ラオンの夜目が利くおかげで暗闇ピンチを脱出する事ができた。

　また、何とかなるかもしれない。

「ラオン、悪い。こっから先は、お前が俺をリードしてくれないか」

「うん、いいよ」

　ラオンが、ソモルと入れ替わりで前に来る。

　ラオンに先を行かせるのは、心苦しい。

　何かあればすぐに守ってやれるように、せめてぴったりと寄り添う。

　断じて、下心じゃねえ。

「じゃあ、進むよ」

　淡く仄かに浮かぶラオンの翡翠の眼が、ソモルに合図を送る。

　ラオンは、ほとんど前が見えないソモルを気遣うように、ゆっくりゆっくり足を進めていく。足元を確かめるすべのないソモルは、真っ直ぐ前を向いたままラオンに誘（いざなわ）れながら歩く。

　小枝を踏み締める感触と音だけが、確実に移動しているのだという実感をソモルに伝えてくる。

　歩く度に、ソモルの腕がラオンの肩の辺りにぶつかる。

　繋いだ手も、時折ラオンの太もも辺りに当たる。

　見えないけれど、多分……太もも。

　……やましい事なんか、なんにも考えてねえからな！

「この辺、根っ子が多いから気を付けてね」

　掛けられたラオンの言葉のすぐ後に、ソモル足の裏にごつりとした感触が続く。

　デコボコと固い樹の根っ子。

　慎重に行かないと、コケるな、こりゃあ。

　こんなピンチの情況なのに、ソモルは心の真ん中でほんのり幸せを感じていた。

　普通にデートをしていたならば、もうとっくに一緒に居られるタイムリミットをオーバーしている。

　俺、もしかして浮かれてる……？

　自分に嘘はつけない。

　自分の本音を誰より一番知ってるのは、このソモル自身。

　こんな情況の中で幸せ感じてしまうなんて、本当に自分はどうしようもない奴だ。

「ソモル、気を付けてね」

　ラオンの声とほぼ同時に、ソモルは何かごついものに足を取られた。

「うわっ」

　そのまま、勢い良くつんのめる。

　ラオンの小さな悲鳴が、ソモルの声に重なった。

　見えないから、情況が判らない。

　日常生活で、自分がどれだけ視覚に頼りすぎていたか改めて気づかされた。

　感覚や衝撃から、恐らく転んで前に倒れたのだろうなとソモルは判断する。

　……けどなんか、腕の辺りが妙に柔らかい……。

　どうやらソモルは、ずっこけたどさくさに紛れて、ラオンの事を草の上に押し倒してしまったらしい。

　どんな状態になってるのか、見えないからはっきりと判らない。

　判からないけれど伝わってくる感触から、ソモルの体半分はラオンの上に覆い被さってるのは間違いないようで……。

　なんか……、とんでもねぇ事しちまった。

「ごっごめん！」

　云いながら、柔らかいものの上に乗った腕を、さりげなく退（どか）す。

　ラオンに怪我とかさせてねえだろうな、俺。

　ラオンの肩に手をかけ、ゆっくり優しく抱き起こしながら、ソモルはもう一度謝る。

「平気だよ、なんともないよ」

　事故とはいえ、ラオンにとんでもない事をしてしまった。

　ソモルは、動揺と酷い罪悪感に取り込まれていく。

　巻き添え食わせて、故意じゃないとはいえ、……押し倒しちまった……。

「本当、悪りぃ」

　謝りながら頭を下げた拍子に、ソモルの額がラオンの頭に軽くゴチッとぶつかった。衝撃と同時に、ソモルの心臓が跳ね上がる。

　うわっ、もしかして今、顔、すげえ近い……？

　ソモルは動揺して、ほんの少し体を後退させた。

　相次いでのハプニングに、ソモルの心臓の鼓動がどんどん速さを増していく。

　落ち着け、落ち着けっ！

　ラオンの表情は、ソモルには見えない。

　見えるのは、ほんのり淡く光るラオンのふたつの眼だけ。

　けれどラオンの方には、ソモルの表情や無様な様子やらが全部見えている筈で。

　なんか、格好悪いな、俺。

　せめてアホ面にならないように、意識して表情を引き締める。

「ソモル、あれ」

　不意にラオンが、二度瞬きしながら言葉を洩らした。

「人、人が来る」

　なんだって、人が？

　ソモルは、ラオンが見ているらしい方向を向いた。

　白い光。

　人工のライトだ。

　こちらに近づいてくる。

　ソモルは、反射的に身構えた。

　ラオンの肩を引き寄せようと思ったが、また変なところを触ってしまいそうだからやめておく。

　近づく、光。

　ラッキーな展開と、最悪な事態の両方を想定しておく。

　パキパキ

　小枝を踏み締める音が響く。

　足音からして、二、三人。

　揺らめく人影。

　次第にその形が、はっきりと現れる。

　最悪、の方……か。

　光が照らし出したその顔は、ラオンを狙うあのわけの判らない三人組のものだった。

　　　　　　　　　　　　　　　to be continue