キオクショウシツ
れん
キオクショウシツ
「おはよう」
彼女は笑う。
鈴のような可愛らしい声で、彼女は続けた。
「思い出してくれた?」
意識は朦朧としているのに、彼女の微笑む顔だけは、やけにはっきりと見えていた。
くしゃくしゃのシーツの上に、ただ呆然と座り込む僕に、彼女は期待の眼差しを向ける。
ゆっくりと歩いてきた彼女は、僕のいるベッドのすぐそばに、置き去りにされた丸椅子に腰掛けた。
ゆらりと彼女の長い茶髪が揺れる。
「…ごめん、まだ…」
昨日と同じ悪夢を見た僕は、昨日と同じ言葉を繰り返す。
「…そう」
悲しそうに眉を下げて、彼女は昨日と同じように寂しげに笑った。
何やら彼女は僕と関わりがあって、でもそれを僕が忘れてしまっているらしい。
彼女はどうしても思い出してほしいというけれど、どうしても思い出せない。
そもそも、制服を着た女子高生と、もう時期三十代のこんなオッサンに、どんな関わりがあったというのか。
なかなか思い出せない僕に、彼女はいつも「早く思い出して」と言う。
今日だって…、そのはずだった。
「でも、もう、限界」
ごめんね、と付け足した彼女が、不意に扉の方を見た。
殺風景な部屋の、たった一つの入り口。
彼女が、切ない目でそれを見つめる。
「私は、あの日、幸せだったわ」
懐かしむように、唇で弧を描いた彼女が、ポツリと言葉をこぼす。
「誰が何と言っても、幸せだったの。貴方には、感謝してる。もうそれを、証明する手段はないけれど」
彼女がこちらを向く。
光のない目が、真っ直ぐと僕を見つめる。
闇に沈んだその目を、不思議と怖いなんて思わなかった。
…ああ、僕は前にもこんな目を見たことがあった。
「だから、本当に、ごめんなさい。こんな風になるなんて思わなくて、私が貴方を利用するだけになってしまって」
伸ばされた手が、僕の頬にあてがわれた。
触れているのか、触れていないのか、風が頬をなでるよう。
綺麗に微笑む彼女は、その年よりもずっと大人びて見えた。
「貴方を壊してしまったこと、お願いだから、赦してほしい」
瞬きをした彼女の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
それを拭おうと手を伸ばす。
けれど僕が彼女に触れる前に、彼女は僕から離れた。
最後にごめんなさいと言い残して。
最後にありがとうと言い残して。
幸せそうな笑みを浮かべた彼女は、僕に背を向けて消えていった。
白昼夢でも、見ていたのか。
もうそこにはいない彼女の姿を、追いかけようとベッドから降りる。
それと同時に鳴る間延びしたインターホンの音。
扉を叩く音、ガチャガチャと遠慮なくドアノブを回す音。
彼女が消えた方から鳴る音に、僕はしばらく呆然とした。
それから、ハッとして扉を開ける。
同じ服を着た人がニ、三人、僕を囲む。
「すみません、○○警察署の者ですが」
目の前が、白く霞んでいく。
遠くから聞き覚えのある声が僕を呼んでいる。
綺麗な服を着た女性が、僕にふわりと笑いかける。
『ありがとう、私を…―――』
***
『次のニュースです。
先日××山の麓で見つかった白骨死体が、一ヶ月前に行方不明になっていた伊藤 アオ(17)さんのものであることが判明しました。また近くに捨ててあった刃物についていた血痕も、伊藤さんのものであることが判明。刃物にはわずかに指紋が残っており、鑑定の結果、結城 ショウタ(28)のものであることが明らかになりました。死体には打撲や骨折の跡が見られ、警察は結城容疑者が被害者に暴行を加えたのちに殺害したものとして、調べを進めています。結城容疑者は容疑を一部否認、伊藤さんを殺害したことに関しては認めているということです』
***
誰かが言った。「可哀想に」と。
他人事のように、かすかに笑いながら。
彼女が遺した真実を、彼女が書き留めた記憶を、燃やしながら。
「ほんと、どこまでも可哀想な奴」
どこから手に入れたのかも分からない、彼女の全てを燃やしながら、心にもないことを誰かが呟いた。
クスクスと、笑いながら。
キオクショウシツ れん @nanohana_ren
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