小品集

青砥みつ

お題をやっていく。

音のなかで

 治一はるいちさんが出かけた。いってきます、と手を軽く振って扉を開ける。夏のきらきらとしたひかりが目にしみて、つぎに絵の具のような青い空が入り込む。わたしもひらりと手を振って見送ると、扉がぱたむ、と音を立てて閉まり、治一さんは見えなくなり、いつもの薄暗い玄関が現れた。


 治一さんの足音が遠ざかっていくのを聞き届けたあと、ドアガードを立て、ゆっくりと鍵をかけた。そしてゆっくりとなかに戻り、ゆっくりと畳に寝そべった。せかせかするのは得意じゃない。床の間に積まれた本に手を伸ばし、一番上の一冊を読みはじめた。


 治一さんのいない部屋はとても静かだ。ひとひとり分、ぽっかりと空間ができてわたしはその失われた質量を肌で感じとる。文字を追いながらページをめくり、紙の擦れる音を聞いた瞬間、音の世界はわたしに迫る。いつもそうなのだ。ひとりでいるとき、あらゆる音はわたしに迫る。弱めていた存在を強くして、ここにいる、と、控えめに、でも確実にわたしの近くへとやってくる。クーラーが淡々と部屋を冷やし、冷蔵庫がキッチンでうなり、扇風機が首を振っている。居間のテーブルに置いたままのカルピスがカラン、と鳴いて、またすこし薄まったのを教えてくれた。


 しばらくは無視していたけれど、わたしはとうとう気が散って、本を閉じ、身体を起こした。畳とコットンのワンピースが擦れて、サラサラと話しかけてくる。もう起きちゃうの?と問いかけられたような気がした。


「買い物にいくからね」


ちいさな声で答えて、アヒル柄のポシェットを肩にかけて玄関へ向かう。扉を開ける。出る。ふりそそぐ眩しさと熱い空気に圧倒されながら後ろ手に、すばやく扉を閉めて、鍵をかけた。わたしは、さらに音の多いところへ行くことを自分に言い聞かせて歩き出した。


サンダルをはいていても夏の地面は熱い。日傘の影に隠れながらのんびりと足を前へ動かす。街のにぎやかさは日傘で見えなくてもはっきりと耳に届いた。果物屋さん、八百屋さん、魚屋さん。ああ、今日はいわしが安いらしい。左奥の公園のブランコがきいきい、こどもがはしゃいでいる。傘をほんのすこしあげると、汗を拭きながらエプロン姿の主婦が目を細めながら通りすがっていった。


 ドラッグストアにたどりつき、傘を閉じて店内へ入ると冷気がそっと身を寄せてきてひんやりと熱を逃してくれた。新しいドリンクの試飲を勧める声から遠ざかり、夏用の化粧水をカゴに入れて、入浴剤の棚を眺めにいった。どこかで聞いたことのあるポップソングが大きめに流れているなかで、わたしはオレンジの香りのバスソルトを慎重に選び取った。紙ともプラスチックともつかないそのちいさなパックは、わたしにつままれて乾いた音を立てた。


 湯船に浸かるのは生活のなかでとてもぜいたくでゆたかになれる、お気に入りの動作だった。水の音は倍音をたっぷりと含んでいて、迫られてもこころよい。ここで本を読めたら、といつも思うけれど、窓のない浴室ではどうにも勇気が出ない。かといって、気味のわるい低音を歌い続ける換気扇をつけるのはもっといやだった。なにはともあれ、今日の入浴はすばらしい水音と甘い香りに包まれるのだ、と思うと買う前からもうすでにうれしくなっていた。


 ちらり、と振り向くと化粧品コーナーがあって、気分のいいわたしはふらふらと近寄っていく。ぱたぱたとビニールっぽい床とサンダルが触れ合う。目にあざやかなエメラルドグリーンとカナリアのアイシャドウがするりと胸の隙間に飛び込んできて、思わず手の甲に試し塗りをした。お化粧をあまりしないわたしは、めずらしくきらきらとした気持ちで、そのふたつもカゴに迎え入れた。


 食器用洗剤の詰め替えと、絆創膏を忘れることなくレジに並んだ。ピッ、ピッ、と商品が読み取られていく。疲れた顔のパートさんが合計金額を読み上げて、わたしはキャッシュトレイにお札を並べる。ちゃりちゃりとおつりを受け取って、五円玉の穴をなんとなく確かめてからお財布にしまった。入り口で傘を広げようとしたら、日がおおかた暮れていて、わたしはいったい、どのくらいお店にいたのだろうと疑問符を浮かべた。ひとりでいると、よくあることなのだ。音に迫られ、音を数えるようにひとつひとつなでていると、時間は飛び去る鳩の群れのように遠くへ、わたしを置いていってしまう。でも、わたしは音を無視することができない。


 商店街の真上を埋める藍鼠色あいねずいろの空に、街灯がぼんやりとにじむ。飛行機がずっと高いところから、ジェット音を降らせている。風がつよく吹いて耳を包み、暗く点々と浮かぶ雲を押し流していく。ふわふわとした気持ちで家にはいり、居間の窓を少し開けて煙草に火をつけた。治一さんが帰ってきたら、音たちはまたすこし存在を弱めるのだろう。遠くで花火があがっているようだ。わたしは目を閉じ、明暗のうつくしさに思いを馳せながら、みぞおちあたりに響く振動を受けとめて、空に咲く花を楽しんだ。



――――――――




お題のようなヒントのようなものになってくれたもの:

日比野克彦著 『100の指令』――外に出て、何種類の音が聞こえるか数えてみよう



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