第8話 Mr.Houseと遊ぼう
何か悪いことしたっけ? というのが最初の感慨だ。自分で言うのもどうかと思うけど、僕は優等生なので今まで職員室に呼びつけられたことすらない。ましてや校長室をすっ飛ばして理事長送りなんて空前絶後だ。一体僕が何をしたというのだろう?
と、ここまで考えて「ああそういえば野球部とのギャンブルでイカサマしたっけ」ということを思い出した。自分に都合の悪いことだったので、すっかり忘れてしまっていたようだ。あのギャンブルのあともいろいろなことが起こり過ぎた、というのもあるだろう。変な部活に入り、先輩と渡り合って、なんか告白までされて……高校生活のノルマを一学期で全てさらわんとするほどの大急ぎっぷり、生き急ぎっぷりだ。
だけど野球部でのイカサマは、当事者にもばれていないはずだ。知っているのは僕と㐂島先輩と、あと山笠先輩も気がついているかもしれないけど、その程度。山笠先輩が気づいていたとして、あの場で見逃したものを後になってわざわざ報告するとは思えないから(自分が立会人なのに、それでは自分の目が節穴だとカミングアウトしているようなものだ)、あの人が理事長に漏らしたということはないだろう。
じゃあ㐂島先輩か? けれどそれもあり得なさそうな話だ。自分が勝って利益を得た勝負に不正があったと報告しても得はない。そこまで規則に厳しいタイプにも見えないし、僕が理事長に呼ばれたという話を山笠先輩から聞いてもきょとんとしていた。あれが演技なら大したものだが、そういう器用なことは出来そうにない人だ。
以上のことから考えれば、僕が呼ばれた理由は少なくとも野球部とのギャンブルでのイカサマとは関係がない……はずだ。そう自分に言い聞かせて、僕は理事長室の不必要なまでに立派な扉の前にいた。
「失礼します。八葉です」
重々しい木の扉をノックする。ノックしたときの音まで設計の考慮に入っているのかと思いたくなるほど軽妙でいい音が響いた。
「入りたまえ」
部屋の中からはっきりとした、中年男性の声が聞こえてきた。体育館でも聞いた、理事長の声だ。僕はドアノブを捻り、厚い扉を開いた。
理事長室は想像していたよりも狭かった。中央に置かれたテーブルを挟むように来客用のソファーが設置されていて、それで部屋の幅が限界といったところだ。奥にはこれまた重厚な執務机があって、そこに理事長が鎮座していた。
「よく来たね。八葉永人君」
「どうも……今日は何の用件ですか?」
僕は挨拶もそこそこに本題に入れるように、理事長に尋ねた。偉い人の部屋というのはやっぱり落ち着かないので、できれば長居したくない。
「まぁまぁ、かけなさい」
理事長は僕の問いかけを無視してソファーを進めてくる。これは長丁場になるかもしれないと覚悟を決め、僕は黒革のソファーに身を沈めた。柔らかいはずのクッションが針山のように感じられてすわりが悪い。
「どうかね、高校生活は。慣れたかな?」
「まぁ、そうですね。だいぶ慣れました」
当たり障りのない質問をしながら、理事長も移動して僕の正面に腰かけた。真っ直ぐに向かい合う形になり、居心地の悪さが加速した。早く部室に帰りたいけど、そういえば今日も先輩はバイトなんだっけ。
「そうかそうか、そうだろうねぇ。なにせ早速野球部とギャンブルをして勝ってしまったのだから」
心臓が跳ね上がり、一緒に体が飛び跳ねるのではないかと思われた。一番触れてほしくない話題に話が及んでしまい、嫌な汗が流れた。理事長が温和な笑みを浮かべているが、別段僕を責める気がさらさらないのか、笑いながら人を殺せるタイプの人間なのかの判断が出来ない。教育者のはずなのに後者の可能性が捨てきれないのが嫌すぎる。
「お耳が早いですね……もうご存知ですか」
「過去二年間一度もギャンブルで勝利できなかった、どころか一緒にゲームをする人間をも敗北に引きずり込んでいた㐂島奈々君を勝利に導いた生徒となれば否が応でも噂になる」
そっちの話だったかと、僕は心の中で安堵の息をついた。噂に尾ひれがついて僕に妙な評価が下されるのも困ったものだけど、イカサマ云々の話をされるよりよっぽどいい。
「偶然ですよ。運が良かっただけです」
「私はそうは思わないな」
僕の謙遜を、理事長は短く一蹴した。
「私が君たちと体育館で初めて会ったときに言ったことを覚えているかな?」
「私はギャンブルが強すぎるので、一つサイコロが少ないのはハンデ……とかでしたっけ?」
「それよりも後の話だよ」
「えっと……」
僕は体育館での出来事を頭の中で反芻した。わざわざ思い出させるということは、理事長は何か格言めいたことを言っていたはずだけど、急転直下に敗北を突き付けられた不良生徒たちの印象が強くてそれ以外が記憶の彼方だった。
「えっと確か……運というのは、人を選んでやってくる……」
「その人の意志の強さが、運を引き寄せる」
理事長が僕のあやふやな言葉を引き取った。
「君が勝てたのは、君自身が勝利を強く望んだからだと私は思っているのだよ。君の勝ちたいという意志の強さが、勝利を呼んだのだよ」
「はぁ……」
静かに力説する理事長に、僕は曖昧な返事を返した。勝利を望む意志の強さが確立に影響をあたるなどということはあり得ない。サイコロはどんな精神状態でふっても一つの面が出る確率はそれぞれ六分の一だ。ポジティブな人間が手にした途端六ばかり出るなどということは起こり得ない。
「信じていないという顔をしているね。無理もない……君のご両親は科学者だったね。確かお父さんが物理学者で……」
「母が生物学者です。だからというわけではないと思いますけど」
「しかし君でも、目の当たりにすれば信じざるを得ないだろう?」
理事長は自信ありげに言いながら、スーツのポケットからトランプの箱を取り出した。マジシャンが使いそうな、正統な柄のトランプだ。箱の封はまだ切られていない。理事長は箱を開いてカードの束を取り出し、軽くシャッフルしてからテーブルの上に置いた。
「君も混ぜたまえ」
「はぁ」
理事長の意図がよくわからないまま、僕は言われた通りトランプをシャッフルした。軽妙な音と共に固いトランプが混ぜ合わされていく。こっそりトランプの様子を調べてみたが、何か細工がされているようなことはなかった。
「では八葉君、私と賭けをしようじゃないか」
「え? 賭けですか?」
混ぜ終わったトランプをテーブルに置くと同時に、理事長が驚愕の提案をした。僕はのけぞって聞き返す。
「まぁ賭けと言っても、君が何か差し出す必要はないよ。戯れだからね。だが何もなしというのも寂しいだろう?」
「そうですか……じゃあジュースとか奢ってくれるんですか?」
山笠先輩とのギャンブル以降、軽い賭けといえばジュースというイメージが定着してしまった感がある。健全でいいことだけど、理事長は僕の牧歌的な予想を首を振ることで否定した。
「いやいや、そんなちっぽけなものではない」
「では何を?」
「そうだな……君が勝ったら三年間学費をタダにしてあげよう」
「学費を?」
また生々しい提案だなと、僕は驚くよりも呆れが先に来てしまった。ただ、学費がタダになるのは決して悪いことではない。私立高校である鳥羽高校の学費はけっこう馬鹿にならないのだ。いくら両親が学者とはいえだ。学者だってそこまでいい給料じゃないみたいだし。
なによりリスクが皆無なら、断る理由がないな。
「わかりました。それで、どんなギャンブルを?」
「ルールは簡単だ。この山札からお互いに一枚ずつカードを引く。数字が大きい方が勝ち。これをそうだな……十回繰り返して一度でも勝てれば君が勝者だ」
「一度でいいんですか?」
「ああ、一回で十分だ」
相変わらず、根拠もないはずなのにとてつもない自信を理事長は見せつけてくる。まぁ理事長にしたって、負けたところで大勢いる収入源のほんの一人がいなくなるだけなのだから、損失を恐れてびくびくする必要はないはずだけど。
「一回くらいなら、勝てると思いますけど? 確率的には十回全部負ける方が難しいんじゃないですか?」
「普通はそうだろうね。でも私は幸運を手繰り寄せる。この私自身の意志でだ」
理事長は自信を崩すつもりはないらしい。イカサマをしている気配もないのにここまで確信を持っているというのも、こちらから見るとかなり不気味に感じられる。僕はかつて教会のミサで見かけた、神に祈っているから自分は救われるのだと信じ切っていた一人の教徒を思い出していた。あの人に感じたのと同じ気味の悪さだ。確かその人は、事故か何かで亡くなったと聞いたけど、それは彼にとって救いになったのだろうか。
「じゃあ、引きますね」
ともあれ、こういう話は議論したところで決着がつくものじゃない。ゲームを進めれば自ずと結論が出るはずだ。確率的には、僕が勝つことになっていると。
僕は積み上げられたカードから一枚を引いた。ハートの七。㐂島先輩をトランプに例えたらこのカードだろうか。
「では私も」
理事長もカードを引いた。カードがそのまま表返されテーブルの左に置かれる。スペードの十だ。まずは一敗。僕も理事長に倣ってカードをテーブルに置いた。
「八葉君は、トランプのスートではどれが一番好きかな?」
「……別に、今まで考えたことはなかったですけど……」
僕は理事長の唐突な質問に窮しながら、二枚目を引く。ダイヤの二。
「八葉君ならそう言うと思ったよ。あまり意味のないことを考えるタイプには見えないからね」
理事長もカードを引いて表に向けた。スペードの三。二敗目。
「そんな風に見えてるんですか、僕は?」
「まあね。でも意味のあることには目ざといだろう? 九十九先生から聞いたよ。生徒手帳の空白に気づいたとね」
お互いの三枚目が開かれる。僕はハートの十、理事長はスペードのQだ。三敗目。
「読んでいたらたまたま目についただけですよ。落丁かなと」
「だが第十五章の空白に気づく生徒はほとんどいないのだよ。この三年間に君とあと一人しかいなかった」
「誰ですか?」
四枚目だ。僕がクラブの五で理事長がスペードの七。四敗目。
「㐂島奈々君だよ」
僕は予想していなかった名前の登場に、カードを引こうとしていた手を止めた。理事長はそれに構わず、自分のカードを引いた。スペードのK。
「先輩が?」
「意外かな?」
「まぁ、そうですね……」
僕は手を再び動かしてカードを引く。ハートの十。あっという間に五敗目だが、今は関心が勝敗からずれてしまっていた。㐂島先輩が生徒手帳の空白に気がついた? 失礼ながら、僕の出会った人の中でのトップクラスにぼんやりしていて危なっかしい、目ざとさとは無縁に見える㐂島先輩が?
「あの子は、ああ見えて敏いし要領も決して悪くない。学業の成績も中の上だ。君から見れば想像もつかないだろうが」
「そうだったんですか。てっきり不運が過ぎて試験が受けられないみたいなトラブルに見舞われているのではと」
当人には聞かせられないようなことを言いながら、六枚目を引く。クラブのAだ。
「ははっ、そういうことがなかったわけではないけどね。でも彼女の不運はおおむねギャンブルに限った話だろうと私は考えているよ」
理事長は僕の見解に笑いながら、カードを引いた。スペードの四。六敗目。あり得ない。
「ギャンブルに限った?」
「ああ。彼女はギャンブルに限って恐ろしく不運になる……私生活でも不幸な傾向はあるようだが、ギャンブルほど徹底的じゃない」
「それは……㐂島先輩が勝利を求めていないということですか?」
理事長の言葉を、「その人の意志の強さが、運を引き寄せる」を借りて言うならばそういうことになる。
「そういうことになるかな」
「そうでしょうか? あの人が勝利を求めていないとは思えません……というか、ゲームで勝ちを求めない人なんているんでしょうか?」
勝ちを求めないというのは、裏を返せば自身が損害を被る敗北を求めているということだ。そんな非合理的な願望を持つ人がいるのだろうか。
「私はいると思うよ。例えば、自分が勝つことで他の誰かが損をする。そのことを嫌がる人とかね」
理事長は七枚目のカードを引いた。スペードの九だ。
「㐂島先輩がそんなことを考えているということですか?」
僕も理事長に続いてカードを引いた。ダイヤの七。七敗目になる。
「そうは思えませんよ。現に僕に対してギャンブルで負けたら命令を聞けとか言ってきましたし」
「その人が考えていることを、その人自身が全て把握できるとは限らない。自分でも知らず知らずのうちに願い、それが成就するように行動することはあるだろう」
「じゃあ、㐂島先輩が無意識のうちに自分が負けるように願っていて、だから先輩は今まで一度も勝てていないと?」
「そういうことになるかな」
「ちょっと待ってください……仮にそうだったとしても、意思とか無意識の願いには左右されないギャンブルもあるじゃないですか」
「例えばこれとか」
理事長はカードを僕に見せて言う。八枚目のカードはスペードのJだった。
「ええ、そうです。山札からどのカードを引くかなんて、自分ではどうしようもできないはずですから」
僕は理事長に反駁してカードを引いた。ダイヤの九で八敗目。一体どうしてだ!
「私はそうは思わない。次に引くカードもサイコロの目も、ルーレットの数字だって自分で手繰り寄せることが出来る。勝ちを願いさえすればね」
「そんなことはあり得ませんよ。意思や願いが試行を歪めるなんてこと……あり得ないのに!」
僕の九枚目のカードはハートの三で、理事長のカードであるスペードの六に敗北した。九敗目に達し僕は絶叫に近い声をあげてしまう。
「まだ十六年しか生きていない君にはわからないかもしれないが、この世界には理屈では理解できないこともあるのだよ」
「理屈とか理屈じゃないとか、そういう問題じゃないでしょうこれは! カードに細工でもしましたか?」
「していないよ。必要がないからね」
「そうですか……」
理事長の言葉に皮肉めいた響きを感じながら、最後のカードを引いた。クラブのKだ。流石に負けるはずがない。
「あぁしまった」
理事長は自分のカードを見て、呻いた。ようやく、確率通りの決着がついたのか?
「ジョーカーが出たときのルールを決めていなかったな。これは私の勝ちでいいのかな?」
というわけではなかった。理事長の手の中には黒の道化師が握られていた。僕は脱力して無言で首を縦に振った。
「これでわかったかな? 私の意志が幸運を呼び込むということを」
「……もうそれでいいですよ」
僕は圧倒的に有利なルールの上で叩きのめされ、白旗を揚げざるを得なかった。理事長は満足したのか、さっさとトランプを片付け始めた。
「……じゃあ、なんで僕は㐂島先輩とギャンブルをやって、野球部に勝てたんでしょうか」
「君の意志が、彼女の意志を上回ったからだろう」
違う。僕がイカサマしたからだ。それとも理事長はイカサマも意志の中に含んでいるのだろうか?
「でも、他の人だって㐂島先輩とゲームをしていますよね? そして負けた。その人たちに比べて、僕の意志が強かったとは思えないんですけど」
「じゃあ逆だろう」
「逆?」
「㐂島君が、勝ちたくないと思っていた自分の考えを変え始めているのではないかな」
「知らず知らずのうちに? でもどうして……」
「それは……」
理事長は綺麗にトランプを箱に戻すと、知った風に笑った。
「かわいい後輩が自分のために戦ってくれているんだ。勝利くらい願うようになるんじゃないかな」
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