第3話 急転直下のAll-in

「……負けた」

「……先輩?」

 さっきまでの元気はどこへやら、先輩は急に萎れてうなだれていた。単にリアクションがオーバーな特徴の一環なのか、過剰に落ち込んでいるのか区別がつかずに僕はかけるべき言葉に迷った。

「もうだめだ私。おしまいだ……」

 先輩はそう言うと倉庫もとい部室の奥にまで行き、隅に無造作に置かれた、UVレジンなどと書かれている一斗缶の上に腰を下ろした。この世の終わりのような声色に、僕は心配になって駆け寄った。

「あの、先輩?」

「もう嫌だよぉ!」

 先輩がいきなり大声をあげて僕に掴みかかってきた。すわさっきの再現かと僕は慌てて身構え、先輩を受け止める。

 先輩は、泣いていた。顔を涙にぬらして、泣きじゃくるという表現がしっくりくる様子で僕に縋りついて泣き始めてしまった。

「な、なにも泣かなくたって……」

 とは言ったものの大泣きする少女を突き放すこともできず、かと言って気の利いた励ましが思いつくわけでもなく、僕はただ先輩を抱きとめたままの姿勢でじっとしていた。全く今日はなんという日なのだろう。

 数分待っていると、先輩から聞こえてくる嗚咽が小さくなっていった。様子を伺うと、先輩は少し落ち着いたらしく涙を拭いながら僕から離れていった。僕の真新しいブレザーは先輩の涙で濡れてしまっていた。

「ご、ごめん……ごめんなさい八葉君……取り乱しちゃって……」

「いえ、あの、大丈夫ですか?」

 僕はもう一度先輩に尋ねる。先輩は必死に目を拭いながらこくこくと頷いていた。

「あの、これ」

「あぁ……ありがとう」

 泣きやもうとしているのか、あんまりにも強く目をこするので僕はポケットからハンカチを取り出して先輩に差し出した。先輩は弱々しく礼を言ってそれを受け取った。

「本当にごめんね、あの、私ギャンブルすごく弱くて……」

「はぁ……」

「今まで一回も勝てたことなくて……千回くらいは勝負したと思うんだけど……」

「せ、千回ですか?」

 勝率一パーセントの勝負でも千回やれば一度くらい勝てるものだ。一度も勝てない確率は一パーセントをはるかに下回る。千回というのは誇張だとしても、本当にギャンブル弱く運がないのは事実らしい。さっきのルーレットも一回で勝負決まってたことだし。

「それでね、今回のゲームも負けちゃって、勝たなきゃ部活もなくなっちゃうのにって思ったらわーってなっちゃって……パニックに。ごめんね驚かして」

「いえ、もういいんですよ……」

 驚いたのは確かだが、しょんぼりとしてただでさえ小さな体をさらに小さくする少女を責める気にはならなかった。ギャンブルで全てが決まる学校で、一度も勝てなければ精神的にも追い詰められるだろう。

「落ち着きました?」

「うん、ありがとう。優しいんだね、八葉君って……」

 ハンカチを返しながら、潤んだ目で先輩が言った。面と向かってそんなことを言われると気恥ずかしくて、僕は顔をそらしてハンカチを受け取った。

「あ、そうだ。さっきのギャンブルの掛け金なんだけど……」

 先輩が何かを言いかけるのと同時に、倉庫の入り口から金属のこすれる大きな音が響いた。僕と先輩がそちらを慌てて見ると、乱暴に扉が開かれるところだった。春のきらびやかな日差しが薄暗い倉庫に差し込み、僕は顔を手で覆った。

「おお?なんだよ㐂島。今日は一人じゃないのか?」

 眩しくてはっきりと見えない入口の方から、低い男の声が聞こえてきた。その声に僕はなんとなく無礼な印象を覚えた。

「あ、阿部君……」

 先輩がぽつりと呟く。僕は手をどけて、明るさに慣れた目を入り口に向けた。そこには六、七人の男子生徒と一人の女子生徒が立っていた。男子生徒の着ている揃いの白いユニフォームと坊主頭から察するに。

「野球部……ですか?」

「うん。野球部キャプテンの阿部君と部員たちだよ。女子の方はマネージャーさん……かな?」

 僕の疑問に先輩が小声で答えた。彼らはにやにや笑いを浮かべながら倉庫の中に無断で入ってくる。

「ほう、なかなか広い倉庫じゃねぇか。丁度だろ? なぁ今日子」

「そうだね宗ちゃん。道具もたくさん入りそうじゃん?」

 今日子と呼ばれた女子生徒は、ウェーブのかかった茶髪を指でいじりながら、阿部にべたべたくっつきながら倉庫を眺めていた。

「どういうこと……?」

 運動部のマネージャーにしては随分とチャラついているなと僕が考えていると、先輩が少し後ろに下がって阿部という名前らしいリーダーに声をかけた。突然の訪問者に気圧されているようだ。僕も目的がわからない訪問に不気味な感触を覚える。なぜ野球部が生物部の部室に来る? なんでその上部室を物色しているのだろう?

「なぁ㐂島、この倉庫くれよ」

「え、どうして?」

 阿部の不遜な物言いに、先輩が戸惑いながら応じた。阿部の一言で僕は彼らの訪問の目的が予想できた。もしかして、またギャンブル絡みか。

「ほら、野球部って使う道具が多いし人数も多いだろ?今の部室と倉庫だけじゃ足りないんだよ」

「つまり……ギャンブルでこの部室を賭けろということですか?」

「そういうことー……って誰あんた?」

 話に割り込んだ僕に向けて、今日子が怪訝な顔を向けてきた。突然の乱入者に驚いたのか、それとも元々そういう顔なのかぽかんと口を開けている。

「一年八組、八葉永人です」

「あー新入りか。一年坊主がなんでここにいるんだよ」

「ここには生物部の見学に来ましたが」

 僕の言葉を聞いて、阿部や思い思いに喋っていた部員たちが静まり返った。そして、一瞬の停滞の後に爆ぜたように笑い出した。

「あっはっはっは!お前本気で言ってんのかよ! バカみてぇ!」

「……どういうことですか?」

 爆笑の意味が分からずに、僕は阿部に問いただした。阿部は笑ったまま答える。

「今お前が入ろうとしている生物部はなぁ、こいつのせいで廃部寸前まで追い込まれてんだよ!」

 阿部に指をさされて、先輩はひるんだように僕の後ろに隠れてしまう。先輩は今にも泣きそうな顔に戻っていた。

「こいつは今まで一度も勝ったことがないってくらいギャンブルに弱い。その上こいつと一緒にギャンブルすると同じチームになった奴も全然勝てなくなっちまう。要するに疫病神ってやつだ」

 疫病神と呼ばれて、先輩がさらに縮こまった。自分自身を抱きしめてふるふると震えている。何も言い返さないあたり、阿部の言うことはある程度は事実のようだ。

「それで、疫病神の巻き添えを嫌って他の部員が他の部活に逃げちまったってわけだ。挙句ギャンブルに負け続けるもんだから部室も失ってこの倉庫に追いやられた」

「……そういうことだったんですね」

 僕の言葉に、先輩がわずかに頷いた。倉庫が部室になっている理由、部員が二人しかいないという理由がようやくわかった。

「それで、勝負受けてくれるのか㐂島? こっちは野球部の部室を賭けてやるよ」

「……い、嫌だよ。負けたら部室なくなっちゃう……」

 先輩は震える声で振り絞るように答えた。ギャンブルは相手が受けないと成立しない……だっけ。だから先輩が首を縦に振らない限り、勝負にはならない。この部室を失うこともない。けれど……。

「は、なんだよノリわりぃなぁ。じゃあ他にも何か賭けてやろうか? どうせ勝つんだからなに賭けてもいいけどな!」

 阿部の言葉に合わせて取り巻きが笑った。先輩とギャンブルして負けることはあり得ないと確信しているのだろう。

 僕は背後の先輩をちらりと見た。先輩は悔しさと悲しさをない交ぜにした顔で俯いていた。その姿を見て、胸のあたりにふつふつと熱っぽいものがこみ上げてくるのを僕は感じていた。

 B型は自分勝手だと根拠もなく決めつけられたときと似た感覚だと僕は思った。この世を語るべき言葉は観察に基づいて確定されるべきだ。あやふやな直感や、神の御言葉じゃない。これは父の受け売りだけど、それでも僕は疫病神の存在を本気にするほど信心深くもないし、誰かを疫病神呼ばわりして笑っている人間を放っておけるほど正義感が沈殿しているわけでもなかった。

 脳裏を、先輩の顔がよぎった。部室の前で初めて会ったときの、ぱっと明るくなった顔だ。次いで、僕にギャンブルで負けたときの先輩の落ち込みようが思い出された。部室の隅にある一斗缶の上に座って……。

 ……待てよ。

 あの一斗缶にはなんて書いてあった? あの中身は何だ?

 急速に、頭の回転速度が上がっていく感覚に見舞われた。難しい問題に直面して、その解法がわかりかけているときのような、高揚感を伴う感覚。思考力を全てそちらに振り分け、周りが目に入らなくなる感覚。

「八葉君?」

 㐂島先輩の声が聞こえたときには、答えが出ていた。この方法なら勝てる。しかも、ギャンブルなんて不確定な状況に身を置かずに、きっちり確実に野球部を沈黙させられる。

「受けましょう」

 僕は低い声ではっきりと言った。さっきまで大笑いしていた野球部員たちが一斉に黙った。今朝体育館で理事長が話し始めたときの反応に似ている気がする。

「はぁ?」

「そのギャンブル、受けるって言ってるんですよ」

 野球部員たちはお互いの顔を見合わせた。先輩は驚いたような顔で僕を見上げてくる。

「見学の一年坊主は関係ないだろ」

「たった今入部しました。これで文句はないでしょう?」

「えっ……」

 静まり返った部室に先輩の声だけが響いた。予想外の出来事に阿部が狼狽えているのが今は心地よかった。

「で、でも……今の話聞いたでしょう?私と一緒にいると、八葉君……」

「構いませんよ、どうせ勝ちますから。それに僕キリスト教なんで、主の他の、疫病神なんて存在信じてませんよ。サタンならともかく」

 主を信心するほど敬虔でもないけど、と心の中で付け加えながら僕は言った。先輩の顔が明るくなっていく。

「マジ? 本気で言ってんの?」

 今日子の調子外れな声に野球部員たちは正気を取り戻したのか、お互いの顔を見合わせてひそひそと相談し始めた。よもや部長の代わりにギャンブルをやると言い出す人間が出てくるとは思っていなかったのだろう。目には焦りが浮かんでいた。

「こいつマジかよ……頭おかしいじゃねぇのか?」

「本当に頭がおかしいかどうかは、勝負の結果を見てから決めてほしいですね。先輩、宣言してもいいですか?」

「あ、うん。いいよ」

 先輩の許可を得て、僕は阿部に向けて指を突き付けて口を開いた。ギャンブルの開始宣言だ。

「ここに生物部は野球部にギャンブルを申し込むことを宣言します。ゲームはルーレット・サドンデス。負けた方は勝った方に部室を差し出すこと。……ただし勝負は一週間後で」


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