3/5 捕縛

 夜。

 泣き声のような音を立てる風に、薄い潮の香が乗って流れている。

 良く光る目を闇に向け、老狼らおろうはある一点を指差した。

 昼間に大神廟おおかみびょうを発見してしまった彼は、人目はなくとも万が一ということで獣の形を取るのを避けていた。強い風にはためく着物や黒髪の先まではっきり見えるその姿は彼が妖であると雄弁に語っていたが、完全に人型を取っていれば正体まで知れることはない。

 老狼の指の先にはちらちらと深くで踊る桃色の光があった。

「あれじゃないのか」

 少し伸び上がるようにして湖面を見渡した少年は軽く嘆息した。

「人魚ねえ。綺麗なものだけど、僕らとは折り合いのつかない種族だね。動きを止めたら捕まえられる?」

 狼はふふんと鼻で笑った。

「海ならともかく、こんな場所で俺がひけを取るとでも思ったか?」

 信頼はしてないけど信用はしてるよ、と少年は軽く手を挙げる。そして水面下をくるくると回る光を改めて目で追った。


 ──やがて、澄んだ歌声と共に光は湖岸に近寄って来る。

「……釣り上げられると楽なんだけど、魚じゃないからね」

 怜乱は左手で弄んでいたかんざし代わりの小刀を順手に握る。

「そんなものでどうするつもりだ?」

「見てれば判るよ」

 ちろりと唇の端を舐めるとぐいと右側の袖をまくり、少年はほんの少し身を乗り出して機会を窺う。

 光が近づいてくる。


             *  *  *


 称碧しょうへきは上機嫌で歌を歌いながら、湖岸へ向かっていた。

 そろそろ人間達も水の上は危険だと気付いたようで、夜に漁に出る者はいなくなった。昼間も陸から遠慮がちに網を投げるだけで、しかも大人数で網を引くから少しばかりやりづらくなってきた。

 それでも、まだまだ人を捕まえる術など無数にある。

 人の耳に音としては聞こえない音域で歌うための調整を繰り返しながら、彼女は水の感触を楽しむようにくるくると回る。

 犠牲になった人間の腕や胸に自分の名前を入れるのは楽しかった。自分たちとは違う高い温度の体を撫で回せば、柔らかい肌はざっくりと削れて血を吹き出す。赤い肉に指先を押しつければ、苦悶の声を含んだ気泡が面白いように上がった。

 恐怖に見開かれた眼窩の縁に合わせて指を押し込んで、綺麗にり抜いた目玉を口に入れて潰す瞬間はたまらない。

 人の目玉は人魚にとって、霊力を増やすための妙薬だ。どろりとしたその感触がのどの奥を伝うたびに、霊力が僅かに満ちるのを感じる。

 赤いうしおえらをすり抜けるのは少し不愉快だったが、獲物が命乞いをする姿はそんな気分を補ってあまりある楽しみだった。

 死体が上がった時の、村人たちの怯えの表情も、称碧の心を捕らえて止まない。

 あの表情を見ていると、なんとなく背中の辺りがぞくぞくするのだ。今晩は上手く獲物が引っかかってくれるだろうか? そんなことまで思う。


 本当は、彼女の目的は違うところにあった。

 しかし、それを凌駕するほどに、人間の恐怖の表情は魅力的だったのだ。


             *  *  *


 怜乱の姿を認めたのか、光は少しの間動きを止めた。隣の狼は息を潜める。

 光、称碧は何度か円運動を繰り返すと、一気に怜乱に向かって動いた。

 一直線に向かってくる。

 光の動きを認めた少年は手首に鋭利な小刀を当てると、勢いよく向こうへ押し切った。ざっくりと割れた手首から、血液とは明らかに異なる芳香の液体が噴き出す。

 湖岸の人影を捕らえようと長い尾の力で空中へ飛び上った人魚に、赤い液体は音を立てて降り注いだ。

 液体が触れた瞬間、称碧ははだけるような痛みを感じた。皮膚に張り付き乏しい体の中の熱を奪ってゆくその感触。

 あまりの強烈な芳香に、頭の奥がじんと痛む。

「――!」

 称碧は身体から力の抜けていくのを感じた。

 まさか、まさかまさか、山奥の人間風情が、知っていると言うのか?

 ──人魚にとって、致命的とも言える弱点を!


 風に漂う芳香は強烈な酒精のものだった。純粋で、刺すような酒精の香に微かな血の匂いが混じっている。

 酒精は、当然のごとく自然な状態では海水中には存在しない。そして、海の生物というのは空気の代替物が水であるため、地上の生物よりも僅かな変異で体に異状を来すのであった。

 人魚は、水の中では頂点に君臨する生物だ。ぬきんでて複雑な仕組みは、特に変異の影響を受け易かった。

 「! 怜乱! 大丈夫なのかそんな事して」

 老狼は驚いて少年の手首を掴んだ。弛緩しかんした指先があらぬ方向を向いている。手首のほとんど中心まで達した創傷きずからは、冷たく赤い液体がまだ勢いを保って吹き出していた。普通の人間なら、傷が治ったとしても再び指が動くことはなくなる大怪我だ。

「村の人たちから昼間にいっぱいお酒もらったでしょ。あれを体内で精製して流してるだけだからそんなに心配しないでも大丈夫だよ。さすがに吐くのは嫌だし、この辺が一番直すのも楽なんだよね」

 こともなげに云って、少年は割れた手首を湖面にかざす。ぱたぱたと軽い音を立てて広がっていく赤い色に、老狼は鼻面に皺を寄せている。

「そうか……しかし心にいい光景だとは云い難いから、早めに何とかしてくれよな」

 渋面の狼をよそに、怜乱は小刀を髪に戻して湖面に視線を戻す。

 桃色の光が何かから逃げるようにのたうち回っているのが見える。

「……それより老狼、ちょっと大変な事になると思うけど、頼むよ」

「応、まかせとけ」

 あれは水の中では絶対の強者だから、あまり頭を使って切り抜けるとかそういうことはしなかったはずだ。

 人魚は地上の生物と思考形態が違うらしいが、生物としての本能に変わりはないだろう。

 そういった相手が土壇場になってする事は、そう多くない。その中で一番確率の高いのは、自由でありたいという本能に従って暴れるか、逃げるかだ。

 暴れれば取り押さえるのはそう難しくないし、逃げてもここなら退路を断つことは難しくない。

 得意げに笑った狼は、とんとんと爪先で地面を叩いて、次の行動に備えた。


「──────────!」

 称碧は狂ったように叫びながら、水へ落ちた。ざわざわと蠢いていた水が一瞬静かになる。

 浅い水に潜った称碧は、身体についた酒精の匂いを振りほどこうと必死になった。

 しかし皮膚にまとわりついた酒精は、生き物のように体の奥に浸み込んでくる。それはまるで、弱った生き物の体の中に潜り込んでくる蟲や小魚のようだ。拒めども拒めども、それは執拗に追ってくる。

 ──痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い!

 人魚の声なき絶叫が水と空気を揺るがす。その強烈な音量に、狼は思わず耳を塞いだ。

 湖底をのたうち回る淡い桃色の光の動きが鈍ったのを認め、怜乱は割けたままの右手を湖水に差し入れ、何かを操るような仕草で冷たい水を掻き回す。

 手首から流れ出た液体はまるで赤い海蛇のように、微かに赤い煙を纏いながら称碧を追った。


 水の中の匂いが強まると共に、称碧の危機感は募っていった。

 鰓にまとわりつく酒精が耐えがたい痛みをもたらし、粘膜から吸収されたそれのせいで思考はままならない。

 このままでは殺される、その前にらないと、殺らないと、殺らないと──────!

 追い詰められた称碧は行動を起こした。死に物狂いの集中力で酒精の匂いと痛みを振り切ると、水に命令を下す。

 再び鎌首をもたげた水に、少年はぱっと水際から飛び離れた。

「……老狼、よろしく」

 懐から銀の紙を取り出し傷口に挟む少年の前に立ち、ふさんと黒髪を一つ振った狼は静かに両腕を広げ、地の底から響くような唸り声をあげる。

 ほぼ同時に称碧の叫び声が弾けた。鋭い水の牙が無数に絡んだ水の壁が、二人に向かって殺到する。

 水の壁の向こうに桃色の光が揺らめいているのを確認して、狼はどんと地面を蹴った。

 直後、響き渡ったのは強烈な地鳴りだ。

 支えを失った水がざぁと音を立てて、抜けた湖底の後を追う。一気に落ち込んだ地面に、水は形を保つこともできずに大きく渦巻き波打った。

 酒精にかなりやられていた称碧は、自分を守るための水を制御することもできず、暴れる水と生き物のように漂う赤い液体に周りを取り巻かれて気を失った。



 ぷかりと浮いてきた称碧を認めて、狼はそろりと湖の深さを元に戻す。

 怜乱は使鬼を飛ばして称碧を岸辺まで寄せると、重い躰を引き上げ水槽に浮かべる。


 大地は何もなかったかのように横たわり、夜はそろそろ明けようとしていた。

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