4/5 人魚
村人たちの朝は早い。
ぼんやり白み始めた空と共に起き出した何人かの村人が、ちらほらと湖岸に顔を出し始める。
半信半疑でやってきた人々は、湖岸にたどり着くと皆一様に驚くこととなった。
昨日のうちに水から引き揚げておいた舟に損害はなかったが、湖面は嵐の後より荒れていた。湖岸にあったありとあらゆる細かい物が、ずいぶんと沖の方までゆらゆらと漂っている。
全てが押し流されたようになくなった一角には、透き通った透明の箱に入れられて浮かぶ何かと、それを背に立つ二人組が見えた。
おっかなびっくりで近寄ってきた人々が目にしたのは、腰から上は人間の女、下は足の代わりに鮮やかな桃色の鱗の生えた魚の姿をした何かだった。
荒い緑の髪は頭の上の方で二つに
目を閉じているために瞳孔のない瞳は見えなかったが、その顔立ちは十分に人とは一線を画したものであることが感じられた。
人間や、妖の変化した姿とは明らかに異質なその姿は、集まった人間達が初めて目にするものだった。
村人たちは人魚を恐ろしそうに見つめていたが、異質であってもその美しさは人の心を揺り動かす。恐れの中にも、何割かは強烈な好奇心が隠れている視線が、人魚を囲んでいた。
称碧は息苦しさに目を開いた。
「起きた!」
「生きてるぞ」
いつの間にか増えていた群衆がどよめく。
(ええい、うるさい! この下等生物が!)
耳障りな音に、称碧は憤りの声を上げた。。
だが、水槽に張られた水は称碧の意思を通すことなく静まり返っている。
どうやら何らかの術がかけられているらしいと察して、称碧はぎりりと歯を鳴らした。
水槽にはかろうじて躰が浮く程度の水しか張られていないから、水から顔を出すのは容易だ。しかし例えそうしたところで、空気を震わせて音を出す器官のない人魚には己の意思をぶつける手立てがない。
見上げても水槽の縁は遠く、首を巡らせて探した湖面はなおさら遠い。憤りに振り回した尾鰭はまるで空気を打つようだ。どこまでも抵抗のない液体は、彼女が水槽から逃げ出すことを禁じていた。
怒りに
恐れと警戒と好奇心の入り交じった視線を投げてくる村人たちと向かい合っているのは、よくよく見れば自分を捕まえた相手だった。
(おい貴様ら! ここの人間ではないな、何者だ!)
いくら叫んでも、意思を通さない水の中では人魚の言葉は言葉にならない。
称碧は歯噛みして悔しがる。
尖った奥歯が厭な音を立てて砕け水に赤いものが混じるのを、少年が横目で見ていた。
「……こいつが、皆を……?」
怒りの炎を目に灯しながら近付いてきた青年が、怜乱に声を掛ける。
「そうだよ。死体の近くに同じ色の鱗が落ちていたのを見ただろう?」
怜乱は水槽の中で暴れる人魚に目をやりながら淡々と肯定する。
「……いったい、何のために」
「さぁ。人魚にとっては人間の目玉が、何物にも代え難い霊薬だとは聞くけれど」
「それだけのために……」
握りしめた拳を振るわせる青年に、少年は緩く首を振った。
「いや、違うだろうね。彼女らは人と違って共有意識の方が強い生き物だよ。まぁ水死者の目玉くらいは役得として失敬しているかもしれないけれど、意識の上では永遠に生きているのと同等だ。なのにどうして、わざわざ人を襲うなんて面倒な真似をして霊力を増やす必要があるんだい?
君たち、何か
言いながら、怜乱はぐるりと集まった人々に視線を送る。
ざわついていた村人たちは皆一様に押し黙った。
何かある。
沈黙をそう読んだ怜乱だったが、
それに、この人魚はどうやら村人たちに何か言いたそうだ。言葉を与えれば勝手に喋るだろう。
水槽に手を当て中の水を操作した途端、称碧の
その勢いに村人たちは驚き、そして、「化け物!」「人食い!」「俺の息子を返しやがれ!」口々に叫んだ。
誰かが投げた石が水槽に当たって、砂の上に転がる。
それが呼び水になったのだろう。何人もの村人が足下の石を拾うような仕草をする。
投石程度で割れる
「黙れ! 貴様ら下等生物にそんな事を言われる筋合いがあるか、この
澄んだ高音なのに腹に響く、不思議な声が空気を打ち据える。
激しく水槽の壁を叩くいた尾鰭から赤い色が広がるのを、彼女は気にも留めなかった。
理解の範疇に達した言葉に、村人たちはびくりと身を強張らせ、一様に口を
「何が、人殺しだ。お前が村人を喰ったんだろう」
一番に反論した若者を、人魚は瞳孔の見えない瞳で睨みつけた。
「村人? そんなもの、ほんの二・三人引きずり込んで目玉を抜いただけだろう。
貴様らがどれだけ我らの子を
ここは長いこと、我らの子が大きくなるまで暮らす場所だった。だのに、いつしか子らは帰ってこなくなった。ちょうどおまえらがここに住み着いた頃からだ。
攫った子らをどこへやった? 次から次へと飽きることなく攫ってどうした!」
目の前に憎むべき敵が雁首揃えている。その事実に再び頭に血を上らせた称碧は、人間たちに復讐すべく水槽の水を操ろうとした。
だが、普段なら自分の号令に従うはずの水はやはり、言葉以外の意思を伝えようとはしなかった。
苛立ちに歯噛みした称碧の視界に、水槽の壁越しに白い少年の姿が入る。
彼は人形のような整った顔に、何の表情も浮かべず自分のことを見つめていた。
完全左右対称系の、
怒り狂う自分を冷ややかに見つめるその。
その表情はあまりにも、彼女の仲間と似ていた。
敵対していた相手をはっきりと見たことのなかった称碧は、驚きに一瞬言葉を止める。
深く深く色だけが湛えられた感情のこもらない目は、静止したまま揺らぎもしない。哀れみも憎しみも怒りも嘲笑も同情もなく、ただ称碧を映している。
それは、彼女にとってはどうしようもない恐怖だった。
「無理だよ、称碧。その水は僕の支配下にあるから、君の云う事は聞かないよ。」
瞳孔のない目を見開いた人魚に、少年は緩く首を横に振った。そして揺らがぬ視線を肩ごとすいと湖に向ける。
「……それより、仲間が来てるよ」
彼の仕草に、称碧の顔からさっと血の気が引く。
「ご足労ついでに聞いたんだけど、
称碧には、淡々と続ける彼が何を考えているかは判らなかった。
いくら透き通った壁に爪を立て刺すように睨んでも、怜乱の表情は変わらない。
称碧の目の前を細い指先がよぎり、はっきりとした復讐の念を込めて自分を睨みつける村人達を指した。
「君の処分は、仲間と、ここの村人たちが決めてくれるだろうね」
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