1/5 歌声
険しい山肌を、黒銀色をした狼が下っていた。
標準の何倍もある狼だ。高木や巨石に囲まれているせいでさほどの大きさにも見えないが、背に白い人型が乗っているのに気付けばその巨大さが判るだろう。
狼は危なげない身のこなしで、倒木や崩落の多い地面をひょいひょいと渡っていた。時折いくつもの岩が積み重なった場所を選んで乗っては、飛び
狼の背中に乗っているのは真っ白な印象の強い少年だった。
歳の頃なら十四五歳。葬色とされる白い着物に身を包み、銀に近い白色の髪を紫の金属と布で止めていた。
小柄な少年は自分の何倍も大きな狼の背に横座りして、太い
狼が普通に歩いているうちは組で作られた人形のようにじっとしていたが、狼が危険な場所で遊び出すと首元の
しばらくして岩場から抜け出すと、少年は狼に話しかけた。
「
狼は荒れた地面を歩きながら、背中の少年を振り返る。
「
「よかった」
少年は安心したように狼の首筋を叩く。
老狼と呼ばれた狼は長い尻尾を振った。黒い毛皮が木漏れ日を反射して銀色に光る。
「それより
「十五里四方にはいないね」
怜乱と呼ばれた少年は即座に答えた。彼の索敵範囲はそこまでだと聞いていた狼はふんふんと頷く。
「成程、ならば特に問題はないな」
「まぁね。……妖はいないけどいくつか山を越えたところに村があるよ。何て言ったかな、街道からひどく離れた村で、
記憶の地図を
「甘い物はあまり期待できそうにないよな」
「あー、まあ、そうだね」
甘党の狼ってのは考えものだ。怜乱はどこか呆れた息を吐いて、狼の首にしがみ付いた。
* * *
その日、暮れかけた陽の長い影が落ちた湖岸には、五十人からの人間が集まって
人垣の真ん中からは、若い女の泣きじゃくる声が続いている。
女の前には真っ白な物体が転がっている。それは皮膚が残らず
女の周りには、大きな白い布を持つ男たちが沈鬱な顔で立ち尽くしている。死者を包み隠すために用意された布は、所在無げに風に揺れていた。
────、── ──────♪
重くはためく布や女の嗚咽に混じって、何処かから高い音が聞こえてくる。人の可聴域の上限に近い音は、注意して聞けば歌だとわかるだろう。
それを気に留めたらしい誰かが、音の出どころを探すようにふらりと歩き出した。
一歩、二歩、三歩。夢遊病者のような足取りで波打ち際に向かう。
群衆の最後尾にいた彼の異変に気がついた者はいなかった。
──、────、──────♪
耳の奥で囁く得体の知れない声に誘われるままに、彼は水に足を踏み入れた。冷たい潮水が足元を濡らすが、歌に気を取られた彼はそちらに意識を向けられない。足首を撫でていた波が脛を叩き膝を濡らしていく。
ぱしゃぱしゃという軽い音が波を掻き分ける重い音に変わったところで、ようやく群衆の誰かがその音に気付いた。
「おい、何やってんだ!」
太い怒号に、彼はびくりと身を強張らせた。滑る岩に足を取られて、波の下に体が沈む。
なんで、と思う間もなかった。水の中から伸びてきた何かが彼の脚を掴む。
最初に感じたのはざらりとした感触だ。鮫の肌に近い、荒い感触が足首を握った。
ぐい、と猛烈な力で沖へ引かれる。
驚きに息を詰め、男は反射的に己の脚を引くものを確認しようとした。
──
明らかな殺意を抱いた双眸の向こうから、人の手に近い形をしたものが伸びて自分の脚を掴んでいた。
「────!」
悲鳴にならなかった空気が、口の端から溢れていった。
このまま引きずり込まれれば自分もあの犠牲者の一員だ。本能的に理解して、男は必死でそれを振り払おうとした。
しかし、いくら蹴りつけてもざらついた手は貼り付いたように離れない。抵抗に強められた戒めに、足首が鈍い音を立てた。
振り払うのが無理なら少しでも岸に近付いて仲間の助力を乞おうと、男は必死で水を掻いた。
男も漁師の端くれである。泳ぎはそれなりに達者なはずであったが、いくら水を掻いても後ろへ後ろへと引きずられて行く。
「掴まれ!」
再び怒声が響き、頭の上でざばりと音が鳴った。闇雲に振り回した手に何かが触れる。投げ寄越された網に、男は必死にしがみついた。
大勢で引く力には勝てなかったのだろう、ある程度引き比べをしたところで、足がふっと軽くなる。
ずるずると陸に引き上げられた男は、肩で荒い息をついた。
助け起こされて後ろを見ると、ちらちらと踊る桃色の光が見えた。
透明度の低い湖水の、ぎりぎり見渡せるあたりの深さで光が
──────、──、──、────♪
高く、誘い込むような歌声はそこから響いていた。
「た、
誰かが怯えたように声を上げる。一斉に蒼白となった村人たちは、弾かれたように散っていった。
家に帰って戸につっかい棒を立てた男は、無事に帰ってこられたことに安堵の溜息をついた。
土間にへたり込むと、急に足首が痛んだ。
腫れ上がった足首に苦労しながら裾を上げると、何か粗いものに強く擦られてついたような傷が目に入る。
足首を取り巻く傷は、よくよく見なくとも人の手の形をしていた。
* * *
誰もいなくなった湖岸に、桃色の影が姿を現す。
それは両腕の力だけを使い、岸から程良く離れて点在する
髪というにはきめの粗い頭髪、人に近いようでいて程遠い雰囲気のある顔の造作、ぱくりぱくりと口を開ける首筋の赤い切れ込み、ぬめりのある肌、そしてなだらかな腹から腰にかけて、徐々に桜色の鱗にかわってゆくその胴体。
魚でも人でもないそれは、鮮やかな紫に発光する瞳で辺りを見回す。
そして人には発音することのできない微妙な響きのある音で、長いこと『笑った』。
いや、それは笑い声ではなく歌だったのかもしれない。
だがそれは、恐ろしく人の笑い声に似たものだった。
その音は到底遠くまで響く種類のものではなかったが、辺りの空気にとけ込んで
まるでそれが、恐怖という何かを広めるための儀式のように。
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