第六話 潮に訪なう復讐者

0/5 犠牲

 誰が呼び始めたものか定かではないが、その湖は訪湖とうこと呼ばれていた。

 何がおとなうのかは誰も知らない。

 ただ、遠く海から連なる湖は濃い塩水で満たされ、そこから獲れるのは紛れもない海の幸だった。

 湖を囲みそびえる山々と、目もくらむような断崖を満たすのは海までつながる水路だ。深い深い森に囲まれ、人が住まうどころか通うことすらもままならぬ地に、それでも人は生活の場をひらいた。

 決して海ほどは荒れぬ湖水と豊富な海の幸は、内陸にあっては貴重だった。

 湖にただ一本流れ込む川が、奇跡的にもそれほど急流でなかったこともあるだろう。しかし、たったそれだけの理由で、人里から遠く離れたこの地に里を拓こうとする筈がない。何か別の理由があるはずだったが、その理由は忘れ去られて久しい。


             *  *  *


 「誰か浮いてるぞ」

 湖岸の村のいつもの朝は、ただならぬ男の声で一変した。たちまちのうちに人が集まってくる。

 そして村人たちは皆同様に口許くちもとを押えた。さまざまな──それでいて意味はすべて同じ──声が彼らの口から漏れる。

「女子供に見せちゃなんねえ」

「さっさとくるんじまえ!」

 それは、青白い色をした屍体したいだった。体格からして男。二十代から三十代だろうか、顔はうつぶせなので判らない。水屍体の常で体はあちこち妙に膨らんでいたし、服はおおかたなくなっていた。

 それだけなら村人たちは比較的見慣れていた。いくらいだ水であろうと荒れるときは荒れる。夜に漁に出たまま帰らない村人も、不幸な事故ではあるが出ることがある。

 が、この屍体はそういった、彼らの見慣れたものではなかった。

 その体には、皮膚がなかった。

 正確には、すべての皮膚がむしられたように無くなっていた。青白いからだは筋肉組織が露出して、まるで毛でも植えつけられたように毛羽立っていた。

 ゆらゆらと頼りなく揺れる屍体が、風にあおられてごろりとこちらを向く。

 集まった村人たちは息を呑んだ。

 死にかけの老人から生まれたばかりの子供まで合わせても百人と少ししか人のいない村だ。村人たちは皆お互いに見知っている。


 だというのに、彼らには咄嗟とつさにそれが誰だか判らなかった。


 顔の造りなど判ろうはずもない。

 皮膚を剥がれ目玉を抜かれた屍体には、もはや生前の面影を求めることなどできはしない。虚空を見つめる二つのうつろの先には、まるで助けを求めるように、棒のようになった両手が伸ばされていた。

 死後硬直に固まったその手のひらに、旧い文字で小さく碧の字が刻まれていたが、無学な村人たちは知るよしもない。

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