3/6 犠牲者の跡

 森はひどく歩きやすかった。

 鬱蒼うっそうと茂った森は昼なお暗く、下草は数える程しか生えていない。そのかわり地面には木の葉が厚く積もって、ふわふわした腐葉土になっている。

 先に立って歩く狼は、少しづつ血臭が強くなってくるのを感じていた。妖の気配は感じなかったが、そもそも狼自身、危険を感知する能力が低いのは何となく自覚している。

 強大な妖である彼は、自身に降りかかる危険なら、ことが起こった後でも十分に対応が可能だからだ。それにそもそも、狼に死ぬほどの損害を負わせられる相手など存在しない。

 ――しかし、そのせいでずいぶん苦い思いもした。いくら自分に力があっても、大切な相手を守れないことには意味がない。


 同行者が苦い過去を噛みしめているとはつゆ知らぬ怜乱は、相変わらずの無表情で狼の後を歩いている。

 地につくくらい長い服を着ているにもかかわらず足音一つ立てずに歩くものだから、狼は途中何度か少年が本当に居るのかどうか、後ろを振り返ることになった。


             *  *  *


 ──それを死体と表現するのはいかがなものだろうか。

 原形を留めぬ程にぐちゃぐちゃの細切れになった肉片は、まだ生々しく地面に散乱していた。

 屍肉の臭いを嗅ぎつけるとたちどころに寄ってくる蠅すら見あたらないので、本当についさっき解体されたに違いないと思われた。

 少し向こうの樹の枝には、視神経の付いた眼球が仲良くぶら下がってあらぬ方向を眺めている。

「何だこれは」

 土の上に落ちている割にはまだ鮮やかな色を保っている粒が散乱するその光景に、狼が怪訝けげんな顔をして地面にしゃがみ込む。ふんふんと臭いを嗅いで、おかしいな、と首を傾げた。

 同じように地面にしゃがみ込んだ怜乱は、赤い塊に混じって白い塊が落ちている事に気がついた。

不思議に思って拾い上げてみると、それはあっけなく崩れ、妙にざらざらした感触が手の先に残る。

「筋かな……」

「いいや、骨だ。引きつぶされた奴がもう一回固まったって感じだな」

狼は少年の指先に載せられたそれに鼻を近づけると、ぺろりと舐めてそう言った。直後、まるで汚いものでも口にしたかのように鼻面にしわを寄せて唾を吐く。

「うえ、気持ち悪りぃ」

「老狼。断りもなく人の指を舐めておいて、気持ち悪いはないんじゃないの」

 気分を害した怜乱に文句を言われて、狼はちょっと驚いたように目を丸くすると、困ったように笑った。

「あ、すまん。最近あまりこの姿を取っていなかったもんでな。

 この姿でいても獣でいる時と感覚があまり変わらんから、つい癖が出る」

「……人がいるところではつつしんでいただけますか」

「う。気をつける」

 わざと狼の嫌う敬語で念を押すと、狼は自信がなさそうに尻尾をちろちろと振った。

「しかし、妙だな。人間がこんな、石臼いしうすいたように粉々になったりするものなのか」

「いや、よっぽど力を掛けても、骨がここまで粉砕されることはないよ。老狼、これって本当に人間なの」

「あぁ。最初に言っただろう、人間の男だ。そこにぶら下がっている目玉を見てみろよ。俺はそっちには詳しくないが、お前なら判るんじゃないのか」

 まだ気持ちが悪いのか、しきりと胸をさすりながら狼は鼻先で樹の枝に引っかかった目玉を指す。怜乱はそれにちらりと目をやると、溜息を吐いて首を振った。

「いや、君のことを疑ってるわけじゃないんだ。でも、どうやったらこんなことになるんだろう」

「さあ、俺には判らん。……やっぱり、確かめるためとはいえ元は肉だと判っているものを舐めるものじゃないな。気持ちが悪くて仕方がない。というわけで、俺は寝るから、後はお前一人で考えてくれ」

 怜乱の声を無視して歩き出した狼は、血の臭いの届かない風上の、少しばかりくぼんでいるあたりを探して地べたに寝転がった。その辺の切り株を枕にして目を閉じる。

「えぇ……老狼、老狼ったら!」

 たちまちのうちに寝息を立て始めた狼は、いくら揺すろうが引っ張ろうが目を覚まさない。少年はしばらく狼を起こそうとあれこれ尽力していたが、やがて諦めたのかその隣に腰かけて、思案を始めた。


 相手が『あやかし』なのか、『』なのか、それともそれ以外の何かなのかすら解らない。しかし少なくとも、人間を軽く粉砕する位の力の持ち主である事に間違いはなさそうだ。

 それに対してこちらは、甘い物好きの狼と、紙と筆が頼りの自分だけ。しかも狼は何かにつけて眠りたがるし、今の話を聞くとどうやら血肉の類は苦手そうだ。

 先日見た大地を操る能力を見れば、力の強い妖だということは容易に知れる。しかし強大な妖というのは得てして危機感知能力が低い。そういう面を狼に望むのは無理だろう。

 加えて自分は、相手の正体が分からないことには八割方打つ手がない。

 封妖画師というのは、相手の姿形を紙に写し取り、それを相手の躰に貼り付けて妖を封じるものなのだから。

「……どうも、こっちの方が圧倒的に不利だよなあ」

 そう。相手はその気になれば少なくとも怜乱くらいは、確実にひねりつぶすことができるはずだ。

 だんだん面倒くさくなってきて、怜乱は考えるのを止めた。

 屍体がそこにあったのだから、多分まだ近くにはいるはずだ。ならば待って相手の出方をうかがうしかない。

 村人の話を聞くに、夜になれば何かがあるだろう。


 ──ただ時間の過ぎるのを待つうち、蒼かった空はだんだんと色を失う。

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