母親が死ぬ前から死んだあとに起きた私の傾向と対策について

まこにゃ

第1話 ※質問や罵倒は受け付けます、なんなりと、どうぞ。

私的ですが、この前母親が亡くなりまして。


で、備忘録というのか、「その前」「そのあと」へと続いていくのを、

引いてみた「自分」が実況中継してみます。


そもそも死ぬとき、私、間接的に立ち会ったみたいです。


もうこの時期ですので、暑くて部屋にいても冷房つけて涼んでますが、

その時お昼ご飯食べに、キッチンにいたんです。


スマホは寝室に置きっぱなしで。


食べてから寝室戻ってスマホを見ると、電話がありました、との文言。


まあ、一か月前弱に母親の様子は見てたんで、慌てず折り返しすると、

父親が出て、「ああ、もうダメだ」「ああ、ああ」「お母さんもうダメだ」などと言って、

私はとっさにえっ?えっ?と、その「実況中継」を聴いていて、

父親「ああ、今、目ぇ開いた」「死んじゃった」との言葉が。


「また後で」と父親が言って、電話が切られると、今度私が旦那様へと、

メールではなく直に電話で。


「なんか母親亡くなったらしい、今リアルタイム実況中継だったんだけど。」と。


私も旦那様も、なんか拍子抜けしてましたね、あの時は。

えっ、死んだの?って。


だって、一か月しない前に、寝たきりの状態の母親に会ってるし。


(実際のところ、後で聴いた話によると、母親は自宅介護で、

毎日介護士さんや実家まで来てくれる医師や看護師、総括するケアワーカーさんがおり、

前日訪問介護で訪れた看護師さんに、足の色がおかしいから、明日まで持つかな、

って言われていたそうです。)


私サイドだったら、はっきり言ってもうちょっと「持つ」なぁ、と思ってました。


かたや旦那様に言わせると、「夏はこせなかったなぁ。」と。


私は私で、喪服着たほうがいいんだろうか、と思って寝たために、

その夜の夢の共通のワードが、全て「喪服」オンリーで。


ほら、夢ってパッパッパッと移り変わるでしょう?

空港にいたと思ったら、次は縁側にいたり。


その見る夢見る夢すべてに、何らかの形で「喪服」がかかわってくるんです。

あれは起きた後、苦笑したなぁ。


次の日起きて、それほど急ぐわけでもなく、死に顔見とかないとなぁ、

と思って、行く支度をして、一路車で実家へ、旦那様と一緒に。


その時知ってたんですが、遺体はもう実家にはなく、葬祭場にあるというので、

一度実家に行って、葬祭場住所を聴いてから、というルートで。


行ってみて、葬祭場の事務員さんにこちらです、と言われ、

最後のお別れだと思って会ってみると、お化粧されてました。


私はね、その顔を覗き込んで、もしかしたら「ばぁ!」って言って、

起きてくるのでは、と思ってドキドキしてましたが、そんなこともなく。


まあそこで「ばぁ!」って言ってくるようなら、どんだけ金かけてるドッキリだったんだ、

と、「私(A)」が「私(B)」にツッコミ入れてますけど。


で、もうリオセドの時も同じだったんですが、母親の時も涙が出ませんでした。


それは後々、おいおいということで。


でも、離れがたかったのは確かですね、事務員さんに言ってましたし、

翌日火葬予定だということも聴いてましたから、この「モノ」が無くなっちゃうんだなぁ、と。


今度は父親のケアだよなあ、と、言葉に出してたのかどうなのか、はっきりしませんが。


その足でまた実家に戻って、会ってきたよ、と、父親に。


雑談してから、自宅へと。


そして翌日父親からの電話で、お骨で帰ってきたとの報告がありました。


今の葬儀って、まーしっかりしてるなと思ったのが、直葬っていうプランがあるんですよ。


その中にもいくつかあるんでしょうけど、うちの父親は、車の免許持ってないんで、

事前に葬祭場に、骨でうちまで帰してくださいと言ったようで、

結果、骨になって帰ってきました、母親。


家族葬よりも、もっともっとコンパクトな葬儀・・・と言えるんでしょうかね、あれは。


これは私サイドの考えですが、今はやれ老老介護だ、樹木葬だ、と、

ひとりひとりのお葬式の形が、えらく変化してんだなぁ、と。


進化・・・とは違うと思います、なんか。


そこの当事者である「私」が、なんだかあらゆる面が軽くなっちゃったなぁ、

って思ってましたから、何もかもが、重量的な問題ではなく。


一方で、さっさと葬儀屋さんが連れてってくれて、それはそれで助かった、

ってのはあります、今の時期、ほら、いろんなものがねえ・・・。


はっきり言うと、生きている人や動物から、無機物なモノになるわけで、

要するに、息を引き取った時点で、それは腐敗する格好のモノになるわけです。


リオの時もそうで、これ言うとペットと人間比べるな、と、お叱り受けるかもしれませんが、

一週間弱、リオの遺体を置いてましたから、その間、もう冷房ガンガンに入れてました、

腐敗防ぐために。



ちょうどこの時、あるニュースを見て、海外なんですが、

肥満体の男性が死亡したので、火葬場まで持ってって、焼こうと思ったら、

肥満体って油こってりだから、爆発炎上、っていうのを見たせいもあります。


これが一連の、母親が生きてるうちから死んだ後になっての作業です。


おいおい、と言ったのって、私、個人的に、私にかかわった人なり動物なりを亡くした時、

泣けないんじゃないかなぁ、って思いました。


これが映画だったり、アニメだったりすると、号泣必死なんですけどね。


ほら、関わり合いが深いと、純粋な死、っていう概念からは外れるのかな、って。


テレビ・ドラマ・アニメ・映画その他、いわゆる外からもたらされるものは、

それまでに何があったのかを知らない、そのうえで死んだ、亡くなった、

ってなるから、純粋に涙が浮かんだりするわけで、

かたや関わり合いが深いモノって、例えるなら、火葬はどうしよう、

って思ったその瞬間に、純粋ではなくなるんです。


死プラス余計な概念が積み重なってくるから、結果泣けないんだと思います。


まあ、これも一つの概念であって、大多数が涙をこぼすのってアリだ、

って言うんでしょうけど。


現実には、「私」という親族・肉親「以外」の人々からは、

母親は立派だったとか、嘆きの声が聴かれました。

それも母親が見せていた顔の一側面、なのでしょう。


ただ、私にとっては、別の側面を見せていた。


それだけのことなんです。


私の旦那様は、今でも言います、たらればを。

ご両親を早くに亡くされてるので(他人のこととなると丁寧に・・・)、

あの時延命治療させてれば、とか、いろいろなことを。


私、座右の銘じゃないんですが、「死んだら終わり」っていう考えを持っているので、

あまりそういうたらればは出てきません、今のうちは。


でも、これも時間がたってみたら変わる、ってことはあり得るんで、何ともですが、

それでもたらればは少ないんじゃないでしょうか。


なんてったって、父親のリアルタイム実況中継が終わった後、

かけたひとことが「お疲れ様」でしたから。


そんなもんです。

こんな人間が少数いるよ、ってことで。


こんな私でも、セドが逝って、リオも、って時、涙一つ出てこない自分に、

自分が恐れ抱いて、検索しましたからね。


ひとつが、アウトプットしたものをインプットしたら泣ける、っていうのがあって。


リオセドの話をアウトプットして、自分の「外」に置いたうえで、

今度は読者目線でインプット(読む)と、泣けましたから。


それって、物語としてインプット(読む)されるうえで、

初めて「引いた目線」になるのかもしれないな、と。


思ったりしました。


そして最後に、この考え方は、あくまでも「今現在」のことであり、

後々変わるかもしれない、ということも思いました。

すぐには変わりそうにないんですけどね、こういう人間なんだ、

って思うしかないのかも。


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