2.姫琴さんの受難
2-1.姫琴は勇気を振り絞った。
放課後、先生に呼び出されわたしは昼休みの出来事について事細かな事情聴取を受けた。
見たままに少しだけ帆篠さんを弁護する脚色を交え説明する。
わたしの供述から、事前に詰問を受けた三年生の先輩達と
迎井先生は細い顎に指を当てたまま瞬きを少なめに繰り返し、要所で頷きながらわたしへ視線を投げ続ける。
しばしの間、それを一身に受け止め唇を乾かすことに集中した。
ひと通り話し終えたところで、先生は冷めたコーヒーを淹れなおすため席を立った。今度は角砂糖を三つ湯気の立つカップに転がし、ティースプーンで掻き混ぜてくれた。
最初のコーヒーに口をつけなかったのは別にブラックが飲めないからと言う訳ではないけれど、その心遣いに頬が緩む。
お礼の言葉と交換に手渡されたマグカップに息を吹きかけながら、甘いコーヒーを少しだけ口に含んだ。
「ありがとう、話は大体わかった。遅くまで時間をもらって済まなかったな。
三年の連中には厳しく言っておくから安心しろ」
わたしの話は深くは追求されなかった。
頭をぽんぽんと撫でるように叩かれて、嬉しいやら照れくさいやらで頬が熱くなるのを感じる。
それを隠す為にいそいそとカップを傾けて、舌を火傷しながらコーヒーを飲み干す。空になったカップの底に少しだけ砂糖が残っていた。
職員室を後にしても、その紅潮はおさまらない。温もりの残った前髪に、確かめる様に指を添える。
なんとなく、廊下に残る擦れた様な傷にわざと爪先をかけて歩いた。
永い一日の終わりを少し先取りして、今日を反芻する。
私も迎井先生みたいな大人になりたいなぁ。美人で格好良くってみんなから信頼されて頼りになる、そんな大人に……人間に。
誰かの救いになれるような、帆篠さんの様な人に。
件の騒動の中心にいた彼女の、大人びた表情を思い出す。
帆篠さんはまるで氷でできた花みたいだ。
誰しも息を飲む様な美貌を持ち、しかし飾り気のない繊細さを兼ね備えている。だから誰も触れることは出来ないし、触れることすらおこがましい存在だった。
高嶺の花とは、帆篠さんにこそ相応しい形容だ。
それにも関わらず、彼女には強さが内包している。いや、至極当たり前に、と言うべきだろうか。険しい崖に咲く花が強い生命力を持つならば、それは理にかなっている。
高値に咲く彼女には、しなやかな芯が花弁の隅々まで通っている。だからきっと触れて壊してしまうことはない。でも、それに皆気付き難い。
もしその事に気付いたとしても、氷でできた花弁に触れるときっと火傷してしまう。だから、彼女の強さに気付いた少数の人々もやはり帆篠さんに触れることは出来ない。
彼女はいつもひとりだ。
けれどそれは寂しさでは無く、気高さと同義の孤独である様にわたしには見える。
そんな彼女でも、助けを求めなければならない日が来るのだろうか。
少なくとも、それは今日ではないだろう。彼女なら今日起きたトラブルくらい、いつもと変わらぬ冷静な表情で切り抜けていただろう。そんなことはわかっているけれど、気が付けばわたしは職員室へ走り出していた。
あくまで結果として、今回は良い方向に動いたけれど、その行いは不要で無粋なものであったのではと言う不安もある。それでも、わたしはこう想いたい。
今日の勇気が間違いじゃないと尊敬する人に認められて、それが憧れの人の助けになったのだと受け入れることができたなら、この日はなんと素敵な一日だっただろうか。
いつか本当に彼女が溺れた手を水面から突き出した時、わたしは手を差し伸べたい。冷たい泉から、引き上げる役目になりたい。たとえ、凍った花弁に手のひらを焼かれたとしても。
まだ胸が強く波打っている。音も聞こえないほどに心臓の音が響いていた。
きっと帆篠さんはわたしがした事なんて知らない。これはただの自己満足だ。救いの手など、おこがましくも浅ましい。
それでも熱い呼吸は、わたしの中で確かに何かを讃えている。
校舎はすっかり闇に落ちていた。
部活生も皆下校の時刻を迎え、遠く職員室の明かりと廊下の煤けた蛍光灯だけが煌々と揺らめいている。
普段の喧騒が嘘のみたいに静まり返った長い廊下は、まるでこの世界が現実とは切り離された別のどこかの様な錯覚を生んでいた。
急になんだか怖くなって、後ろを振り返る。そこには当たり前に誰の姿もない。
お化けが出たらやだなぁ、なんて子供の様な寒気が夏服に着替えたばかりの二の腕を摩る。
職員室には先生達がいるけれど、背筋を這う心細さは先ほどまでの高揚感を瞬く間に飲み込んでしまった。
暗闇は孤独だ。そして孤独は恐怖だ。
少なくとも、弱いわたしにとってはそうだ。帆篠さんの様に孤独を着飾ることは、わたしには恐れ多い。
急ぎ足で昇降口へ。
夜の黒に紛れて空からはポツリポツリと雨がそぼ降っていた。
外れた朝の予報に肩を落としつつ、教室に置いてある折り畳み傘を思い出す。
あの寂しい廊下をまた引き返すの? 本当にお化けが出そうだったよ? 濡れて帰ろうか、でも駅までは走って十分は掛かるし……。
僅かに悩んだ後、教室を目指す事を決め大きく頷いた。
そうだ、強い人間になるんだ! お化けがなんだ! そもそもお化けなんかいない! そう、お化けなんかいないんだ!
本日二度目の勇気を奮い立たせて、壁に手をつきながら毎朝歩く道のりを行く。いつも欠伸をしながら辿り着く教室が遠い。本当に別の世界に来てしまったみたいだ。
違う、これはわたしの住む世界。もしもこれが夢ならば、今日のわたしは夢になってしまう。喜びも手応えも決心も全て幻想になどしたくない。
何度も繰り返しながらわたしの足音だけが響く事をひたすら聞いて、やっと目的の扉に手を掛けた。
ガララララ……
廊下とは違い、月明かりも窓から射さぬ空間は純粋な闇。
そこにお化けはいなかった。
でも、悪魔がいた。
闇の中でも不思議とはっきりとその姿が瞳に映る。長い手足には鋭利な爪が光っている。背中にはコウモリの様な翼を携え、頭からは天を突き刺す二本のツノが生えている。世間一般、そしてわたしのイメージする通りの悪魔が教室の隅に立っていた。
凶悪な目付きでわたしを見ている。
いざという時、人は恐怖を忘れるのだと実感した。声が出ない。足が動かない。逃げ出すことは、選択肢にも上がらない。今わたしを支配するのはただひとつ、驚きだけだった。
「……あ、こんちわ。こんな時間まで学校に残って何をしているんですか?」
悪魔が口を開いた。
その声に呼吸を思い出し、我に返る。
悪魔なんて本当にいるの? でも、他には形容し難い存在が目の前に佇んでいるのは事実。
あぁ、やっぱりこれは夢であって欲しい。さっきまでの強がりなんて要らない。でも、覚めない夢は現実と同義だ。
混乱は絶頂を迎える。
逃げなきゃ。悪魔がどうしてこんな所に? 殺されるの? あの爪で、引き裂かれてしまうの?どうしてわたしの学校に……
そんな事よりこの悪魔全裸だ!!
「キャァァァァァァァァ!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
全裸の人だ! 全裸の人だ! わたしの教室に、誰もいない夜の教室に全裸の人がいる! いや、人じゃなくて悪魔だけど全裸だ!
この時、悪魔の存在よりも全裸の変人と言う情報の方にわたしのパンクした混乱処理班が忙しかったと言うのは、あとあと思い返して気付くことであった。
「お、落ち着け! 何もしないから!」
何もしないって言う人は大抵何かする人だ!
あまつさえ目の前にいる人は全裸の人だ! 何もしないって言う全裸の人は絶対に何かする人だ!
て言うか既に何かしてる人だ!
「ぬ、脱がされる! まずは脱がされる!!」
混乱の末発した言葉は以上である。
だって、本当にそう思ったんだもん、仕方ないよね。
「まずはってなんだ! 何もしない、脱がしもしないしその先もしない! 本当に何もしないから! 落ち着いて話を聞いてくれ!」
悪魔が叫ぶ。
チラリと悪魔を見る。あ、やっぱダメだ。だって全裸だもん。生まれてこの方男の人の裸の記憶なんて、小学校まで一緒にお風呂に入っていたお父さんのそれくらいのものだもの。記憶も曖昧だよ、男の人の体のことなんぞ。
て言うか、なんで暗闇なのにはっきり見えるのさ! むしろ腹が立ってきた!
悪魔の悪魔的な部分が視界に入らない様に注意しながらその姿を睨む。白い何かが視界の端で揺れた。
手に持っているのは……体操服? あれ? あの机……帆篠さんの机だ! じゃああれは帆篠さんの体操服!?
この変態の人、あまつさえ帆篠さんの体操服で何をしようとしているのだ!
「そ、その体操服を離して! あ、やっぱり先に下を隠して!」
「あ、これはかたじけない」
悪魔はうっかりしていたと言わんばかりに頬を染め、股間を隠そうとする。
「その体操服で隠すのだけは絶対やめて!!」
今日一番の声帯の酷使だった。
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